181の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田真道)
津山出身の津田真道(つだまみち、1829~1903)は、津山藩の料理番の家の出身だ。
父親の津田吉田太夫も、長男の彼を文武両道に向かわせたようだ。幼い頃から、学問が好きであり、藩の抱える儒学者の大村成夫らに漢学を学ぶ。武術の方は、剣道、槍術それに弓を習う。
そればかりか、やがての1850年(嘉永)には江戸に出て、箕作げんぽに蘭学を、佐久間象山に洋式兵法を学ぶ。
やがて、蘭学に秀でてからは、その3年後のペリー来航時には、藩籍を離れる。勝麟太郎の知偶を得て、長崎行きがかなう。そこでの蘭学が評価され、1857年(安政4年)には幕府の蕃書調所の教授手伝いになる。
その後の1857年(安政4年)、同僚の西周(にしあまね)らとともに、幕府の第一回留学生としてオランダに遊学する。オランダでは、おもに法学を学ぶ。
1865年(慶応元年)に帰国後すると、「泰世国法論」を著わす。それは、オランダで師事したライデン大学教授フィッセリングの講義録をまとめたものだ。
ともあれ、新政府の役人として、外務省とか司法省で、新たな制度をつくるのに没頭していく。
1873年(明治6年)に創立の明六社にも参加する、「言論の自由」や「民選議員のすすめ」、さらに「夫婦同権」などで、発言を行う。
そんな心の柔軟さを持っていたのであったが、のちに貴族院議員を歴任、また男爵(注)にもなって栄達の途を進んだことで、体制側に遂には心も体も組み込まれていったようだ。
(注)明治時代に入ってから戦前までの華族(新たな身分制)に列せられたのは、公家と武家の一部などからの選抜であった。これには、天皇に侍(はべ)るというか、列に従うというか、そんな時の序列を指し示す意味合いがあって、その段階表としては、こうあった。
最上位は、公爵(こうしゃく)であって、「五摂家」(大化の改新のクーデターで政界の中枢に進出した藤原鎌足がそもそもの祖先とされ、そこから分岐したと伝わる近衛・鷹司・九条・二条・一条の各家)に加え徳川家、毛利家、島津家をいう。
二番目は、候爵(こうしゃく)であって、「清華家」と江戸幕府時代の旧国持大名があてられていた。
三番目は、伯爵(はくしゃく)といい、大臣、羽林家(うりんけ)などに加えるに、江戸幕府時代の10万石以上の旧大名があてられていた。
四番目は、子爵(ししゃく)であって、こちらの資格としては、大臣、羽林家などから枝わかれたした家系に加えて、江戸幕府時代の10万石未満の旧大名があてられていた。
五番目に侍るのが男爵(だんしゃく)であって、維新後に華族となった神官や僧侶、それに江戸幕府時代の旧大藩の家老職を務めていた家柄(1万石)があてられていた。
父親の津田吉田太夫も、長男の彼を文武両道に向かわせたようだ。幼い頃から、学問が好きであり、藩の抱える儒学者の大村成夫らに漢学を学ぶ。武術の方は、剣道、槍術それに弓を習う。
そればかりか、やがての1850年(嘉永)には江戸に出て、箕作げんぽに蘭学を、佐久間象山に洋式兵法を学ぶ。
やがて、蘭学に秀でてからは、その3年後のペリー来航時には、藩籍を離れる。勝麟太郎の知偶を得て、長崎行きがかなう。そこでの蘭学が評価され、1857年(安政4年)には幕府の蕃書調所の教授手伝いになる。
その後の1857年(安政4年)、同僚の西周(にしあまね)らとともに、幕府の第一回留学生としてオランダに遊学する。オランダでは、おもに法学を学ぶ。
1865年(慶応元年)に帰国後すると、「泰世国法論」を著わす。それは、オランダで師事したライデン大学教授フィッセリングの講義録をまとめたものだ。
ともあれ、新政府の役人として、外務省とか司法省で、新たな制度をつくるのに没頭していく。
1873年(明治6年)に創立の明六社にも参加する、「言論の自由」や「民選議員のすすめ」、さらに「夫婦同権」などで、発言を行う。
そんな心の柔軟さを持っていたのであったが、のちに貴族院議員を歴任、また男爵(注)にもなって栄達の途を進んだことで、体制側に遂には心も体も組み込まれていったようだ。
(注)明治時代に入ってから戦前までの華族(新たな身分制)に列せられたのは、公家と武家の一部などからの選抜であった。これには、天皇に侍(はべ)るというか、列に従うというか、そんな時の序列を指し示す意味合いがあって、その段階表としては、こうあった。
最上位は、公爵(こうしゃく)であって、「五摂家」(大化の改新のクーデターで政界の中枢に進出した藤原鎌足がそもそもの祖先とされ、そこから分岐したと伝わる近衛・鷹司・九条・二条・一条の各家)に加え徳川家、毛利家、島津家をいう。
二番目は、候爵(こうしゃく)であって、「清華家」と江戸幕府時代の旧国持大名があてられていた。
三番目は、伯爵(はくしゃく)といい、大臣、羽林家(うりんけ)などに加えるに、江戸幕府時代の10万石以上の旧大名があてられていた。
四番目は、子爵(ししゃく)であって、こちらの資格としては、大臣、羽林家などから枝わかれたした家系に加えて、江戸幕府時代の10万石未満の旧大名があてられていた。
五番目に侍るのが男爵(だんしゃく)であって、維新後に華族となった神官や僧侶、それに江戸幕府時代の旧大藩の家老職を務めていた家柄(1万石)があてられていた。
(続く)
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