新□125の3『岡山の今昔』牧畜と酪農(歴史)

2021-05-24 21:33:00 | Weblog
125の3『岡山の今昔』牧畜と酪農(歴史)

 岡山における牧畜については、畜産物の生産と消費のおおよその流れから始めよう。

 牛については、古代からの畜産に加え、明治時代に入っては千屋牛(ちやうし)が、全国に名前を馳せる取り組みとして登場してくる。
 中でも、竹の谷蔓はわが国で最初の蔓牛にして、当時の阿哲郡の家畜商によって市場化されたもの。農耕などへの役牛の産地として、県北部が脚光を浴び、1935年(昭和10年)頃、県下の飼育頭数は約9万頭であったのご、戦後になっての1950年代初めには約11万頭に達したという。

 それ以外にも、戦後に入っては乳牛を導入しての酪農という事業が発展していく。こちらは、蒜山高原などにおいて、海外から新種の牛が入れられ、飼育と牛乳生産が伸びていく。ちなみに、蒜線での酪農のなれそめと発展については、次のような流れであるという。

 「蒜山の酪農は、昭和29年(1954年)酪農振興法による情況下のもとジャージー牛がニュージーランドから135頭輸入されたとことから始まったらしい。そして昭和31年(1959年)1月、蒜山酪農農業協同組合が設立され、ホクラク農協へ加入したそうである。
 始まって間もない頃は、酪農に対する評価は低いものだったらしく、ホクラク三十年史によると、「蒜山地区では、その頃まだ和牛の勢力が強く、ジャージー牛に対する反目もあって、一面、北酪(現在のホクラク農業協同組合)の再建時代であり、北酪の信用も低く、破産する流言も立てられた。」とある。
 しかしながら、その後、蒜山の酪農業は次第にさかんになり、昭和36年(1961年)には、県立酪農大学校が設立、昭和43年(1968年)には、第1回全日本ジャージー共進会の開催、昭和44年(1969年)には、蒜山クーラーステーションの落成などがあり、現在に至っている。
 乳牛の数も、やや波があるもののおよそにおいて昭和60年(1985年)まで伸びて、昭和63年(1988年)でも2500頭以上を保持している。しかしながら、酪農家数は、昭和40年(1965年)頃をピークに急激に減少し、現在では100軒を割っている。これは、1軒の酪農家の飼育する乳牛の数が多くなり、大型酪農家がふえたことを意味するであろうが、反対に、中規模、小規模の酪農家がやめざるを得ない現実もうらづけられよう。」(山本杉生「蒜山の酪農業ーわが家での酪農体験をもとにして」、岡山県歴史教育者協議会編「岡山の歴史地理教育」第22号、1991) 


 ところが、1970年代になると、役牛は、耕運機など農業の機械化に伴い、その役割を失っていく。山間部では、牛飼いよりは、県南へ出稼ぎに出るなどが、増える。1975年(昭和50年)でいうと、役牛の飼育頭数は約4万頭で最盛期の2分の1以下、飼育の戸数は約1万5000戸で、かつての約7分の1になってしまう。


 ちなみに、この時点での牛の飼育の関係では、例えば、こんな評価がなされている。

 「かつて農家の役牛として、また副業収入源として重要な役割をになった和牛は、今は肉牛として専業的に飼われるようになりました。その結果、酪農の場合と同様に、飼料基盤が弱く、高いエサ(配合飼料)に依存し、相場に左右される不安定な多頭飼育と、他方で土地を荒らしづくりする兼業農家というように山村の農業も変わってきてしまいました。
 最近では牛肉の高値がつづき、牛肉は庶民の口になかなか入らなくなりましたが、輸入牛肉を操作して大もうけをする商社や、エサ会社がふとるだけで、生産者の手どりはきわめて少ないのが実情です。」(則武真一編「明日の岡山への提言」明日の岡山への提言刊行委員会、1976)



 そこでそれぞれの生産から拾うと、まず肉の方は、1985年(昭和60年)に6334トンであったのだが、1990年には5635トンにやや減る。それに対し、牛乳生産は18.9万トンから19.2万トンに微増であった。



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 県下では、また戦後になってからというもの、養鶏や養豚も盛んに行われていく。
 養鶏についていうと、とっかかりとしては1955年(昭和30年)頃であって、飼育頭羽は100万羽程度であったのが、ほとんどは農家の副業、それも零細経営であって、経営は安定しなかった。
 そこで1960年代になると、飼育戸数の急激な減少と、一戸当たり飼育頭羽の上昇、つまり多頭羽飼育が普及していく。かくて、1975年(昭和50年)の県下の飼育の羽数は、約402万羽に達していた。

 とはいえ、1980年代になると、こちらの肉としての生産は、1985年(昭和60年)の4万633万トンであったものが1990年には4万2638トンになる。また、鶏卵の生産でみると、前の時期が8万954トンであったものが、後には8万8772トンとほぼ横ばいになる。


 それでは、豚については、どうか。こちらは、肉が栄養価が高いことで知られるものの、県下の生産はなかなか立ち上がりが遅れていた。
 途中を省略して、1990年(昭和60年)の実績をいうとしよう。具体的には、その前年の2925トンから2999トンへと微増したという(以上は、総務省統計局「家計調査年報」、「中国農林水産統計年報」、岡山県「統計で見る岡山のすがた」1992年版)。


 そんな岡山における牧畜のあらましの展開なのだが、それからの足取りはかなりの急角度にて技術革新が進んでいく。中でも目を見張るのが、酪農を取り巻く大いなる変化なのであろう。

 加えるに、まだ極一部ながら、牛の放し飼い、餌の工夫や糞尿の堆肥化、牛舎の環境改善、搾乳のロボット化、さらには搾乳したのをそのままに出荷するばかりでなく、バターやチーズ、アイスクリームなどにして売ることも行うようになってきている。
 
 そういえば、養鶏についても、一羽ずつを連続したゲージに閉じ込め、餌と蛎殻を与え、夜においても白照明を付けたりして、休むことなく、「卵をたくさん産め」と仕向けた。その反省があり、また土間での養鶏、そして卵一つひとつの質を高めようとする動きが出てきた。

(続く)

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○553『自然と人間の歴史・日本篇』介護保険(2021、その現状)

2021-05-24 09:39:03 | Weblog
553『自然と人間の歴史・日本篇』介護保険(2021、その現状)

 例えるならば、日本において介護保険制度が導入された時(1997年12月に国会で可決成立し、2000年から施行)の平均寿命は、男性が78歳、女性が85歳であった(ちなみに、2021年現在は男性が81歳、女性は87歳)。
 その際には、少数意見として、「子が親、親が子を、さらに親族なりが介護を必要とする人を世話するのは「当然だ」、ないしは「仕方ない」「やむを得ない」などの声も聞かれたという。さすがに、ここに取り上げているような介護の社会化に対して、「この国の淳風美俗(じゅんぷうびぞく)の古き善き伝統を改めようとするもの」などとまでには、ほとんどならなかったようである。
 世界では、キューバなど医療や介護を無料としている国もあるようだが、そこまで行かなくとも、社会保障制度というのは、その国の体制如何とは別に、今や「社会的弱者のためのものではなく、すべての国民のためのものであり、私たちの制度である」(江利川毅「社会保障なかりせば」、埼玉新聞2021年5月10日付け「月曜放談」より)という。
 そういうことの中には、「自分の一生涯にかかる経費は自分で賄わないと他の人々にツケを回すことになってしまう」(同)という認識にも、一理あるもの(社会保障をさらに前へと進める上での過渡期のあり方)として、すべからく、大いに耳を傾けるべきなのではないだろうか。


(続く)

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