◻️234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

2021-05-07 21:08:05 | Weblog
234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

 阿部知二(あべともじ、1903~1973)は、勝田郡湯郷村大字中山(現在の美作市中山)の生まれ。父は、中学校の教師。生後2か月にして父の転勤で島根へ、さらに9歳の時には、姫路へ転居したりで、落ち着かない日々であったろう。その姫路で姫路中学(現在の姫路西高校)から第八高等学校(現在の名古屋大学)へと進む。

 さらに、東京帝国大学英文学科に入学してからは、文学熱が増していく。1930年(昭和5年)には、雑誌「新潮」に「日独対抗競技」を発表する。そして迎えた1936年(昭和11年)には、代表作の一つ、「冬の宿」を発表する。その一節を紹介しよう。

 「私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。」

 その後も次々作品を作っていたらしいのだが、戦争中は軍部との関わりを深くする。ある日、召集令状が届いて、入営するしかなかった。陸軍部報道班員としてジャワ(インドネシア)に行く。そこで、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また日本にとって都合の良くないものを没収したりする仕事の体験をする。

 戦後は、戦争に加担したことを恥じたらしい。一転して進歩派として左傾化していく。

 ちなみに、「冬の宿」は、左翼運動退潮後の知識人の混迷を浮き彫りにしたものであった。その戦後になってのあとがきには、こんな話がなされている。


 「また、これを書いた昭和十一年といえば、それが二・二六事件の年だったといえば、もはや多言を必要としないだろう。大正末から昭和初めへの恐慌から抜け出ようとする日本は軍事體制というものをしだいに取ってきた。そのとき、あらゆる進歩的な運動や思想がむごたらしく踏みにじられた。そのようなことにかかわりなかった私のようなものにも、いいようのない暗い気持を、それらの光景はあたえた。一方、皮肉なことには――軍需景気というようなものであろうか――消費的な生活はかなりはなやかになってきており、しかもそれが眼前に見る二・二六事件のようなものを同時に伴っていた。その矛盾は心をいためつけた。また眼を未来に向けようとすれば、――私は歴史的な眼を持っていたのでないから、ただ漠としてしか感じなかったのだが、何か恐るべきことが起るという豫感があった。(中略)
 私は、こういう作品を書いてから二十年ほど過ぎてから、ようやく、現実というものを、こういう作品のように傍から感覺的に心理的に見るだけでは、人間らしく生きたということにならず、私たちは現實の中に生きながら、すこしでもそれをあらためてゆくようにするべきであり、文學はそのようなことと無関係であるはずはない、と思うようになった。まったく鈍いことであった。」(「冬の宿」の、戦後の「あとがき」より)


 戦争下の長編「風雪」(1938~1939)にかけては、ファシズムに対する自由主義の立場からの抵抗を示す。


 戦後になっては、他の自由主義作家と同様に、それまでにたまっていた思いの発露を得て、さぞかし奮起したのではないだろうか

 かくて、社会主義者というのではない、自由主義者として。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。

 この間、メルヴィルの「白鯨」やブロンテの「嵐が丘」の翻訳を手掛けるなど、多彩な活動で一世を風靡(ふうび)したようなのだ。1971年(昭和46年)。食道がんになって、その翌年4月に退院するも、2年後に再発する。そんな中でも、5月から哲学者の三木清を題材にした「捕囚」(未完)を口述筆記するという具合で、最後まで創作に取り組んだ、不屈の人であった。

(続く)

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新◻️265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

2021-05-07 09:31:43 | Weblog
265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

 尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)は、明治から大正にかけての歌人、国文学者、書家。本名は八郎という。津山市田町の旧津山藩士、北郷家の生れ。三男であり、家庭環境は学問に理解があったのではないか。上京して、東京府立一中学校に入る。在学中に、旧津山藩の尾上家を継ぐ。東大国文科を卒業する。


 東京女高の教師から学習院などの教授まで歴任していく。1895年には、落合直文のあさ香社に加わる。1902年には、金子薫園と結んで叙景詩運動をおこす。一説には、「明星」と対立する。1905年には、車前草社(しゃぜんそうしや)を結成する。


 作品は、歌集「銀鈴」(1904)、「静夜」(1907)をへて「永日」(1909)から、「日記の端より」(1913)へ。有名なものでは、「つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき」(伊藤城跡歌碑)、「生きぬくきにほひみたせて山ざくら咲き極まれば雨よぶらしも」(津山城跡歌碑)など、温雅にして古典的作風な句が含まれる。

 その作風としては、かなりの小さな字を連ねたりで、そのため、気概がいま一つ、との評価もあったらしい。ところが、1956年(昭和31年)に日展に出した作品(絶筆)、「道」では、「我みちは人のみちとしことならぬ我たどること人はたどらず」の大文字を披露し、実は変幻自在であることを演出して見せた。その生涯に、実に七千余りの歌をよんだといわれ、また書でも一家をなしたあたり、芸術への情熱は限りなく続いたのであろうか。

 今にしてまた一コマ、なにかと人懐っこい表情の写真に映る作者にして、付録として、その作品集「日記の端より」(約600首を収録、1913)から、これぞ楽しい、元気がでる、もしくはほのぼの系のものを幾つかお目にかけようと、書き出してみた、御照覧あれ。

○「みづからの生けりと思ふこの心確かになりぬ海にむかへば」
○「春風に吹かるるごときいと軽きこころを得むと旅に出でしを」
○「さはあらじあるに血湧きしわかき日の顔の色など思ふ夜半」
○「あしたふと口に上りぬむかしわがうたいなれたるよろこびの歌」
○「春くれば心をさなしふくらめる桃の蕾をあさゆふに見る」
○「満員の電車のなかにゆくりなくすこしの席をえたるよろこび」
○「今日もまた昨日と同じ道をゆくこの平凡の中に生くるみ身」

○「よきことはありげなけれどわが明日をわが明日をわが明日として残し置かまし」
○「日を経たる林檎(りんご)の如き柔らかさ今日の心のこの柔らかさ」
○「新しき縁の日向に椅子すえて新聞よまむ冬は楽しや」
 (なお、出所は、「現代歌集」筑摩書房文学体系94、1973による。)

 更に言うと、短歌やその周辺の関係での評論(「歌の変遷」「紳士道の建設と短歌」など)をよくしているのであって、ここでは、その一片なりとも紹介しておきたい。

 「此上に、また従来の自己を無視し蔑如する風を捨てて真面目に自己を描き、自己を発揮して、専ら自己にのみ忠実ならむと欲した。これ自己に忠実なる所以は、真に到達する最良の方便であるからである。
 自己も宇宙の一片である以上は、それに忠実なのは、乃(すなわ)ち宇宙に忠実なる所以、更に宇宙の間に存在する真に忠実なる所以であるからである。
 この故に、真の意味を有する歌には、特に挙ぐべき美がない。しかも、そこに自己がある。その自己は、人によっては平凡であり、人によっては怜りであり、賢でもあり、不肖でもあり、種々様々であるけれども、それは何の煩(はん)にもならない。
 却って、その一々が、平凡で怜りぶらず、不肖で賢者ぶらず、各その風を守って、その感情をありのみに発揮するところに、真に到達する大道が存するのである。(中略)
 つまるところ従来の歌は、美の希求の歌故に、浮世離れがしている。即ち天上の歌である。新傾向の歌は、真の希求の歌、しかも自己発揮の歌である、故に、地上にくっついている。もし前者を、飛行機的といはば、後者は、自動車的とも言えるのである。」(尾上紫舟「歌の変遷」)

 その眼差しというのは、いかにも、21世紀の現代にも通じる絶え間ない息吹きというか、私たちにとって大切なものが何であるかを語りかけてくれているように、感じられる。

(続く)

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