234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)
阿部知二(あべともじ、1903~1973)は、勝田郡湯郷村大字中山(現在の美作市中山)の生まれ。父は、中学校の教師。生後2か月にして父の転勤で島根へ、さらに9歳の時には、姫路へ転居したりで、落ち着かない日々であったろう。その姫路で姫路中学(現在の姫路西高校)から第八高等学校(現在の名古屋大学)へと進む。
さらに、東京帝国大学英文学科に入学してからは、文学熱が増していく。1930年(昭和5年)には、雑誌「新潮」に「日独対抗競技」を発表する。そして迎えた1936年(昭和11年)には、代表作の一つ、「冬の宿」を発表する。その一節を紹介しよう。
「私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。」
その後も次々作品を作っていたらしいのだが、戦争中は軍部との関わりを深くする。ある日、召集令状が届いて、入営するしかなかった。陸軍部報道班員としてジャワ(インドネシア)に行く。そこで、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また日本にとって都合の良くないものを没収したりする仕事の体験をする。
戦後は、戦争に加担したことを恥じたらしい。一転して進歩派として左傾化していく。
ちなみに、「冬の宿」は、左翼運動退潮後の知識人の混迷を浮き彫りにしたものであった。その戦後になってのあとがきには、こんな話がなされている。
「また、これを書いた昭和十一年といえば、それが二・二六事件の年だったといえば、もはや多言を必要としないだろう。大正末から昭和初めへの恐慌から抜け出ようとする日本は軍事體制というものをしだいに取ってきた。そのとき、あらゆる進歩的な運動や思想がむごたらしく踏みにじられた。そのようなことにかかわりなかった私のようなものにも、いいようのない暗い気持を、それらの光景はあたえた。一方、皮肉なことには――軍需景気というようなものであろうか――消費的な生活はかなりはなやかになってきており、しかもそれが眼前に見る二・二六事件のようなものを同時に伴っていた。その矛盾は心をいためつけた。また眼を未来に向けようとすれば、――私は歴史的な眼を持っていたのでないから、ただ漠としてしか感じなかったのだが、何か恐るべきことが起るという豫感があった。(中略)
私は、こういう作品を書いてから二十年ほど過ぎてから、ようやく、現実というものを、こういう作品のように傍から感覺的に心理的に見るだけでは、人間らしく生きたということにならず、私たちは現實の中に生きながら、すこしでもそれをあらためてゆくようにするべきであり、文學はそのようなことと無関係であるはずはない、と思うようになった。まったく鈍いことであった。」(「冬の宿」の、戦後の「あとがき」より)
戦争下の長編「風雪」(1938~1939)にかけては、ファシズムに対する自由主義の立場からの抵抗を示す。
戦後になっては、他の自由主義作家と同様に、それまでにたまっていた思いの発露を得て、さぞかし奮起したのではないだろうか
かくて、社会主義者というのではない、自由主義者として。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。
この間、メルヴィルの「白鯨」やブロンテの「嵐が丘」の翻訳を手掛けるなど、多彩な活動で一世を風靡(ふうび)したようなのだ。1971年(昭和46年)。食道がんになって、その翌年4月に退院するも、2年後に再発する。そんな中でも、5月から哲学者の三木清を題材にした「捕囚」(未完)を口述筆記するという具合で、最後まで創作に取り組んだ、不屈の人であった。
(続く)
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