新◻️160『岡山の歴史と岡山人』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 

2021-05-22 21:56:17 | Weblog
160『岡山の歴史と岡山人』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 
 
 この一揆において、堀内三郎右衛門(ほりういさぶろううえもん、?~1699)が行った口上には、当時の藩からの厳しい取り立てが、農民たちのくらしを根底から破壊するものであることが、大庄屋を務める立場から、次のような簡潔な表現でなされている。

 「下方(しもかた)申すも尤(もっと)もに存じ候、御免相(ごめんあい)御領なみと仰せられ候に、子(ね)の才(とし)より大分上がり、御検見と申候へば、先代は三人御出成られ候に、五人迄御出成られ、人足馬等百姓ついへに成申す、口米(くちまい)と申候ては三升御取、口銀(くちぎん)と申事成られ候、此方共に申す候ては承引仕(しょういんつかまつら)ず罷出(まかりいで)候。」

 これによると、下方の百姓が申していることは尤もなことです。年貢は幕府領並みということでしたが、子歳から大分高くなって来た、としている。
 しかも、作柄の検見では、森藩時代は三人の役人が出張していたのに対して、当藩では五人に増加され、その人足・馬等の費用の増加のため、百姓はへとへとに疲れる程になっているのです。
  
 そもそも口米(くちまい)ということでいうと、三升御取が幕府のいわれる年貢でありまして、それを口銀(くちぎん)と申されることにては、承服できかねる次第なのです。」

 ちなみに、ここに口永(くちえい)とあるのは、年貢の外での付加税のことをいう。年貢を米で納めた場合には口米が課されたのに対して、年貢を金銭で納めた場合に課すもの。口銭(くちせん)とも呼ばれるものの、こ銭で納める場合に限定され、この場合は銀で納めた場合には口銀(くちぎん)と呼ばれる。

 これに対して、藩側は、百姓が飢えるようなことがあれば、そこで初めて「願」にあるとおり、幕領並みの年貢率にするというものにて、表向きは譲歩をし、農民たちの団結を切り崩そうと策略を巡らす。

 つまるところ、このような話の成り行きでは、農民たちは実力をもって立ち上がるほかなく、立ち上がった、そして、あえなくというか、藩側の圧倒的な騙しと武力の前に鎮圧されてしまう。

 つまるところ、かくも果敢に闘われた元禄一揆(高倉騒動ともいう)の結末としては、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで農民に味方した彼、大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。
 そして迎えた翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、三郎右衛門ら8人(高倉村の大庄屋(おおじょうや)の堀内三郎右衛門、弟の中庄屋の堀内四郎兵衛(ほりうちしろべえ)、弟の堀内佐衛門(ほりうちさえもん)、高野本郷村の庄屋の松岡作衛門、神戸村の甚左衛門、吉原村の久兵衛(きゅうべえ)、薪森原村(たきぎもりはらむら)の孫十郎、そして三郎右衛門にして少年の堀内平右衛門(ほりうちへいえもん))は死刑に処せられ、事件は終息したのである。

 そんな中でも、高倉村大庄屋にして働く者の側に立った三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる、これと言えるほどの人物はいなかったものとみえる。

 その後については、しだいに「苔むして」といおうか、表面からの民衆運動はみられなくなる。しかしなお、額に汗して働く人々により、怯むことなくその勇気が語り継がれていく。

 なお、高倉神社(下高倉)本殿の脇には、かかる堀内三郎右衛門の妻の傳が、残った二子の無事成長を祈願した一対の石灯籠が立っているとのことだ。

(続く)

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新♦️320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)

2021-05-22 09:23:16 | Weblog
320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)
 
 この項では、資本主義後の人類社会の在り方について、参考になりそうな文面なりを、幾つか拾ってみたい。

 はじめに、社会主義(ソーシャリズム)というのと、共産主義(コミュニズム)というのとでは、かなりの違いがあるという。

 前者では、「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」というのであって、資本主義でのような資本家による労働の搾取はなくなっているのが、前提だとされる。

 それでも、各人の労働能力には差がみられるのであって、その大小なりは、さしあたり市場で評価されたものなのだろう。とはいえ、その揺らぎなり、偏りは絶えず起こっていると考えられよう。したがって、その分を何らかの方法で補うことがなされるべきだと考える。

 それから、後者の共産主義(コミュニズム)というのは、「コミュニティ」とか「コミュニケーション」などの系列に属する言葉なので、言葉そのものの印象の差はさほどではないだろう。
 しかして、こちらになると、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(注)になるという。

 それというのも、資本主義社会では、私有財産制度をとっていて、各人はその能力に応じて働き、各々の資本の評価によって受け取る建前となっているからである。

 蛇足ながら、前者の「社会主義」にあててであろうか、「天は自ら助くる者を助く」というのは、中村正直が「西国立志編」(1871)でそう訳してから、日本にも定着したらしい。
 かくて、こういう言い回しの元は、ラテン語以来の古いことわざ(「fortes fortuna adjuvat」)なのだともいう。
 それが後代へと語り継がれていくうちに、格言にまで昇華したものか、はたまた世の中に流されていくうちに、今日見るような意味合いになったものだろうか。
 やがての17世紀、イングランドの政治家アルジャーノン・シドニーの著作「Discourses Concerning Government」の中に「God helps those who help themselves」という一文があるとのこと(「google books」で閲覧できるとのこと)。
 やや遅れての有名どころでは、18世紀のアメリカの技術者であり政治家、その他様々な才能で知られるベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」において、「God helps them that help themselves」なる思いを、誰に伝えたかったのだろうか。
 それでは、その意味としては、どうなのだろうか。これには諸説あるも、人に頼らず自分の力で生きていきなさい、というのが馴染みの解釈ではないだろうか。これだと、人生どうなるかはあなた自身の責任だ、ともなりかねない。

 もう一つ、共産主義思想とは直接的な関係はないものの、「聖書」には、キリスト教ならではの、こんな下りが見られる。

 「2(使徒行伝):43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 2:44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 2:45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 2:46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 2:47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(インターネット配信の「聖書」日本語訳から引用)

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 さて、前おきはその位にしておいて、ここでの本題に入ろう。こちらの堅固な意味での初めての提唱者は、これまたカール・マルクスであって、彼は19世紀に生きた人物だ。そのマルクスが社会主義の高度な段階としての共産主義社会について述べているのは、数か所に限られよう。その中から、幾つか紹介することにしよう。まずは、労働者の政党の綱領文書について、こう語っている。

 「共産主義社会のもっと高度な段階において、すなわち、ひとりひとりが分業のもとに奴隷のごとく組み込まれることがなくなり、したがって精神労働と肉体労働の対立もまた消失したのちに、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなくそれ自体の生命欲求となったのちに、さらにはひとりひとりの全面的な発展とともに彼らの生産力もまた成長を遂げ、協同組合の持つ富のすべての泉から水が満々と溢れるようになったのちにーそのときはじめて、ブルジョワ的な権利の狭隘な地平が完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ドイツ労働者党綱領評注」:カール・マルクス著、辰巳伸知ほか訳「マルクス・コレクションⅥ、フランスの内乱/ゴータ綱領批判/時局論(上)」、1993)
 

(注)その原文については、「Jeder nach seinen Fa(aはウムラウト付き)higkeiten ,jedem nachseinen Bedu(uはウムラウト付き)rfnissen !」(この原文の出所は、KARL MARX「KRITIK DES GOTHAER PROGRAMMS」DIETZ VERLAG社、ベルリン、1965、25ページ)


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 二つ目の文章を紹介すると、彼の主著「資本論」には、こうある。

 「自由の国は、実際、窮迫と外的合目的性とによって規定された労働が、なくなるところで初めて始まる。したがって、それは、事柄の性質上、本来の物質的生産の領域の彼方にある。
 未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し、また再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。
 文明人が発展するほど、この自然的必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。
 すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力によるように支配されるのをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっともふさわしく、もっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
 しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といっても必然性の国をその基礎として、そのうえにのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(カール・マルクス著、向坂逸郎訳「資本論」第三巻、岩波文庫、1967)(なお、この原文の出所は、KARL MARX「DAS KAPITAL ーKritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」Dritter Band、DIETZ VERLAG社、ベルリン、1980、828ページ)


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 三つ目には、宣言文書から、当該の箇所の一つを紹介しておこう。共産主義を目指す政府が政権をとった場合に、さしあたり実現をめざすであろう、「所有権とブルジョア的生産関係への専制的干渉」の措置は、国情に応じて違うのを認めてから、マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」(1848)は、次のようにいう。
 
1として、土地所有を収用して、地代を国費に当てる。
2として、強度の累進税を課税する。
3として、相続権を廃止する。
4として、すべての亡命者及び反逆者の財産を没収する。
5として、国家資本と排他的独占権とを持つ国立銀行を通して、国家の手に信用を集中する。
6として、運輸機関を国家の手に集中する。
7として、国有企業、生産用具を増加し、共同計画のもとに土地を開発し改良する。
8として、すべての者に平等に労働を割り当て、工業軍を、殊に農業に対して、設置する。
9として、農業と工業の経営を統合して、都市と農村の差別を次第に除くようにつとめる。
10.すべての子供を公共的に無償で教育する。今日の形態に、おける子供の工場労働を廃止する。教育を物質的生産と結合する、等々。(ドイツ語原文については、対訳版の「詳解、独和・共産党宣言」大学書林、1956、96~97ページ)


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 そして四つ目には、これまで見たのとはゆ異なるアプローチとして、
マルクスは、こんなことを言っている。

 「大工業が発展すればするほど、素材的富の創造は、労働時間と支出労働量とに依存するよりも、むしろ労働時間中に動員される生産手段の力に依存するようになる。
 そしてこれらの生産手段はーーそれがもたらす強い効力についてもそうだがーーそれの生産に要する直接的労働時間には比例しないで、むしろ科学が達成した水準や技術の進歩、さらにはこの科学が生産過程で応用されることに依存する。(中略)
 人間労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現れないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいし監視者ないしは統御者として関係する、(中略)
 労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程のいわぱ外に立つこととなる。このような転機が生じると、生産や富の主柱は、人間自身が行う直接的労働でもなければ、かれが労働する時間でもなくて、人間自身の一般的生産力の自己還元、すなわち人間が社会的存在であることを通して自らのものとしているその知識と自然の支配という意味での一般的生産力の自己還元、一口でいえば、社会的個体の発展をその内容とするようになる。(中略)
 直接的形態での労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間はその尺度であることをやめ、またやめざるをえないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の尺度であることをやめざるをえないのである。
 そうなれば、大衆の剰余労働が社会的富の発展の条件であるという事態は終わるし、同様にまた、少数者が労働を免れることによって人間の一般的な知的能力を発展させるという事態も終わる。そして、それとともに交換価値に立脚する生産様式は崩壊する。」(マルクス「政治経済学要綱」)
(KARL MARX「Grundrisse Kritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」,1953,Dietz Verlag,,592~593ページから、都留重人が翻訳したものから引用した。こちらは、「都留重人著作集」の第3巻、「資本主義と経済発展の課題」講談社、1975に所収。一貫した日本語訳としては、高木幸二郎監訳の「経済学批判要綱」大月書店、1959として発刊されている。)
 

(続く)

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新○43『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

2021-05-22 08:39:50 | Weblog
43『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

 東アジアの3世紀後半からは激動の時代であった。中国大陸では、263年、魏(ウェイ)が蜀(シュー)を滅ぼす。265年になると、魏が亡び、これを滅ぼした西晋(シージン)が当時の全中国を統一する。一方、倭の3世紀後半からしばらくの歴史については、中国の歴史書から姿がはっきりとした姿は見あたらなくなる。例えば、村山光一氏は「大和政権」の項の冒頭で、自説をこう述べておられる。

 「二六六年から百年間は、文献・金石文などの史料によって日本の動向を知ることはできないが、われわれは古墳の出現・波及という考古学上の知見にもとづいて、この空白の期間に、畿内を中心に西日本の各地域において多くの政治集団が形成されていたことを確認することができる。(中略)
 さらに、この前方後円墳の分布の中心が、巨大古墳の集中している大和盆地の東南部にあったという事実に着目するならば、右の政治的連合の盟主はこの地域の首長であったと推断することができるであろう。なお、西日本の政治連合体の盟主となった大和盆地東南部を中心とする地域の政治集団は、大和政権あるいは大和王権と呼ばれるが、この大和政権は、卑弥呼の死後再びシャーマン的女王を共立した倭国とは別個の政権であり、九州地域に存在したかつての倭国は大和政権を中心とする西日本の政治的連合体によって征服されてしまった、というふうに考えておきたい。」(村山光一・高橋正彦『国史概説1ー古代・中世ー』慶応義塾大学通信教育教材、1988)

 ここで何故、中国流の「方墳」(ほうふん、四角い形)ではなく、前方後円墳なのであろうか。
 その答えとしては、諸説が提出されている。いまだに定説は見あたらないものの、同時期の中国(山東省き南(きなん)県の「き南(きなん)画像石墓」、2世紀)の豪族の墳墓の中に、壺(つぼ)の中に仙人(「東王父」(とうおうふ))の住む、「不老長寿の世界」を見立てる像が刻されていることから、この姿を平地に横たえて造形することにより、被葬者の死後の世界=理想郷(ユートピア)としての「東の海・ツボ形の島」を保障しようと考えたのではないか、との新説が唱えられている。
 つまり、「ツボの中に、不老長生のユートピアがあるという思想が入ってきたとき」(元同志社大学教授(古代学)辰巳和弘氏)。国内の前方後円墳の墳墓の墓室中においても、「被葬者が徠正でも、現世と同じように暮らすことを願って、絵が描かれた」(同教授)と主張されているところだ。

 この国においては、現時点で4000基以上の前方後円墳が見つかっている。それらの中では、大和の地に最古級の前方後円墳がある。中でも纏向(まきむく)古墳は、畿内(現在の奈良県桜井市)にある。 

 これの発掘を行った桜井市教育委員会によると、この遺跡の造営年代は、3世紀前半、もしくは2世紀後半から3世紀位と推定されている。この築造年代の推定が当たっているならということで、纏向は邪馬台国の拠点であったとする向きがにわかに増えた。纏向古墳の全長は約90メートルで、それまでの中では群を抜く長さである。その規模は、約3平方キロメートルであり、この時代のものとしてはやや広い部類に属する。

 続いて、纏向と同じ畿内(奈良県桜井市)から一つの古墳が見つかった。この箸墓(はしはか)古墳は、全長が276メートルもの巨大な前方後円墳となっている。こちらが築造されたのは、3世紀中葉以後(3世紀後半)と推測する人が多い。とはいえ、こちらの現況は纏向の場合とやや異なり築造年代がやや不明確だ。その理由として、仁藤敦史氏は、次のように言われる。

 「箸墓古墳の築造直後の布留○式土器の年代測定の年代を240年から260年と推定する見解が提起されて話題となったように、邪馬台国の時期は、従来のように弥生時代ではなく、古墳出現期に位置づけられるようになったことが重要である。」(仁藤敦史「「邪馬台国」論争の現状と課題」:歴史科学協議会編集「雑誌・歴史評論」2014年5月号、第769号に所収)

 こうした畿内での初期古墳の発見によって、邪馬台国ヤマト説が俄然勢いづいている。
 2009年11月には、この遺跡内から大型建物跡が発見された。その場所は、大和の三輪山の麓にある。これをもって、卑弥呼(ひみこ)なり、台與(とよ)か、それとも「日本書紀」にいう天皇家初代の頃の「神功皇后」なのではないか、等々の話にも発展している。これらのうち一つ目の考えはかなり多くあり、例えば、岸本直文氏は次のように述べておられる。

 「卑弥呼の治世は三世紀前半の約半世紀、ヤマト国を盟主とする北部九州を含む瀬戸内沿岸諸勢力の政治連合が生まれた。ヤマトの本拠は纏向(まきむく)である。100メートル級の前方後円墳が築造され、その墳形の共有、公孫氏政権から入手した中国鏡の配布が始まる。
 238年に公孫氏は魏に滅ぼされ、翌景初三年、卑弥呼は帯方郡に使者を送り魏への朝貢を願い出る。魏は卑弥呼を「親魏倭王」として認め、「銅鏡百枚」などを与える。
 卑弥呼は247年頃に没し、初代の倭国王墓、巨大な前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳に葬られた。これが前方後円墳が列島規模で波及する起点であり、倭国統合の第三段階である。」(岸本直文「古墳の時代ー東アジアのなかで」:岸本直文編「史跡で読む日本の歴史2古墳の時代」吉川吉文館、2010所収)

 この三つめの可能性を指摘するものとしては、「日本書紀」の神功皇后の条において、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王2人のいずれかを神功皇后に見立てるなどの向きがある。いずれも、畿内での初期の前方後円墳と見られる墳墓の発見によって、邪馬台国=(イコール)倭(ワもしくはヤマト)説が出て来た。その上で、邪馬台国がどうであったのか、及び3世紀後半からの倭はどうであったのかを推定している。この説に立つなら、畿内に興った邪馬台国が北九州の諸国についても影響力ほ及ぼして従えていったことらもなっていく。

 これに加えるに、この文献学上の根拠とされる向きもある『日本書記』の「神功皇后摂政」の三十九年から四十三年には、こうある。

 「三十九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。」
 この部分の書き下し分は、次のとおりである。

 「是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

 「四十年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
 こちらの部分の書き下し分は、次のとおりとなっている。

 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。」

 「四十三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

 この部分の書き下し分は、こうなっている。

 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人」

 ここに「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也」(「明帝景初三年」は西暦では238年)とあるのは、『魏志倭人伝』中の「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」と年号が異なっている。
 また、「日本書記」のどこを探しても、「魏志倭人伝」に載っている当時の邪馬台国に関する記述は一切出てこない。さらに、「神功皇后摂政」とはいうものの、当時の倭の勢威を盛んにならしめたといわれる彼女が、果たしてその通りの人物として実在していたかどうかは、分かっていない。
 このように、国家が編纂する史記の上では中国側と倭の側とで大きな食い違いが生じている。他にも、『魏志倭人伝』においては、「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」とある。つまり、「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、人がいて武器をもって守衛す」となっている。ここに「城柵」とは、土塁と柵を巡らせていたことが覗われる。けれども、両遺跡からは、そのような堅固な城柵の跡は見つかっていない。

 総じて、今日までの邪馬台国と大和朝廷の関係を論じる論説はあまたあるのではないか。それでも、現在にいたるも、いずれの説においても学会ならびに国民を納得させるにたる証拠は見つかっていない。つまり、この論争に決着はまだついておらず、先延ばしの感が強い。
 かつまた、これまで未発掘と目されている残りの天皇陵において、全国の主だった古墳を司る文化庁が近い将来、考古学者らによる発掘を許可する可能性は乏しいのではないか。それに、「天皇家の私有財産」とか「墳墓に埋葬されている人物の神聖不可侵」を唱える向きもあって、学術的な発掘が実現するには程遠いのが現状であろう。

 それでも、やがて追々には、大和政権は、邪馬台国からの、何らかの連続性において捉えることができることになっていくのかもしれないし、それらとは断絶したところから新説が次々と浮かび上がってくるのかもしれない。さらには、単に邪馬台国のあった場所はどこであったのかという、その枠では史実を語れないことになってしまうかもしれない。
 いずれにしても、21世紀の現代においても、我が国の歴史の5世紀頃までの解明においては、近くは中国などと大きく異なり、色々と決め手に欠けることが多すぎる感じがしてならない。


(続く)


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