◻️28の2『岡山の今昔』身分統制令(1591)、人払い令(1592)と三国

2021-05-05 21:11:40 | Weblog
28の2『岡山の今昔』身分統制令(1591)、人払い令(1592)と三国


 まずは、遡っての1591年(天正19年)に出された、豊臣政権による身分統制令は、次のような居丈高な内容であった。

 「定
一、奉公人、侍、中間、あらし子に至る迄、去七月奥州へ御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切をくへからす、若かくし置ニ付てハ、其一町在所可被加御成敗事、
一、在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩之者、そのものゝ事ハ不及申、地下中可爲御成敗、幷奉公をも不在、田畠をもつくらさるもの、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、爲町人百姓かくし置ニおゐてハ、其一郷同一町可爲曲言事、
一、侍小物ニよらす、其主に暇を不乙罷出輩、一切不可拘、能々相改、請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、前之王の所へ可相渡、若此御法度を相背、自然其ものにがし候ニ付てハ、其一人ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへ、三人の人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、
右条々所被定置如件
天正十九年八月廿一日 ○(秀吉朱印)」(引用:北島万次 「豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「小早川家文書 天正十九年八月二十一日 豊臣秀吉朱印状」」2017年 平凡社)

 この法令に対しては、その通りの名前がある訳ではなく、あくまで通称であり、また内容からしても、一説には、身分を統制するというよりは、朝鮮侵略に備えて、兵力と兵粮米の生産者の数量の確定を目指したものであるとも、言われている。そのような考えの元に、戸口調査が翌年に行われた。結果として、これが、兵農分離の確立、体制化の端緒となったのである。
 これに関連して、「人掃令(ひとばらいれい)」というのがあって、こうある。

 「急度申し候
一、当関白様従り六十六ケ国へ人掃の儀仰せ出され候の事。
一、家数、人数、男女、老若共ニ一村切に書付けらるべき事。付、奉公人ハ奉 公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ書出すべき事。(中略)
  天正十九年三月六日」(「吉川家文書」)

 こちらは、1592年(文禄元年)3月頃に、関白豊臣秀次の指令によって全国一斉に行われた家数・人数の調査とセットで考えるのが、一般的だ。
 そこでは、一村ごとに家数・人数・男女・老若を割り出し、その際には、奉公人・町人・百姓・職人・僧侶・神官などの身分にも注意が払われている。
 これを実際に行うのは各地の大名などであり、例えば、毛利氏の領国の場合、家ごとに男女別の人数を数え、男の場合は年少者や高齢者などを注記することによって、実際に夫役(ぶやく)徴発に耐えうる人数とを明らかにしているのであって、さしあたり朝鮮侵略向けにどのくらいの幅で動員できるかを割り出そうとしたことになっている。

(続く)

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◻️17の2『岡山の今昔』「三好清行意見封事十二箇条」(914、備中下道郡)

2021-05-05 09:59:11 | Weblog
17の2『岡山の今昔』「三好清行意見封事十二箇条」(914、備中下道郡)


 当時の都・京都では、朝廷や取り巻きの貴族、関係する寺社なども、地方からの年貢や役務に頼ることで、生活が成り立っていた。そのことの変化をうかがわせる文書が、現地の下道郡の国司から届け出されていた、醍醐(だいご)天皇の求めい応じて書かれたその文書には、こうある。

 「臣(三好清行・引用者)、去る寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここに彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(660年・引用者)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣わし、救はんことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひ、将に救の兵を出さんとす。 (中略)

 路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(中略)


 天平神護年中に、右大臣吉備朝臣(吉備真備(きびのまきび))、大臣といふを以つて本郡の大領を兼ねたり。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔に課丁千九百余人ありき。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣、彼の国の介たりし時に、(中略)大帳を計ふるの次でに、その課丁を閲するに、七十余人ありしのみ。

 清行任に到り又この郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云はく、「一人もあることなし」と。

 謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、また既にかくのごとし。一郷を以てこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。」(「三好清行意見封事十二箇条」)


 これの中程に、「路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ」とあるように、飛鳥時代には2万人もの兵を集めることができたという。
 それが、奈良時代後期の天平年間になると、この村の課税可能な人口が「課丁千九百余人」に成り代わり、さらに今では一人もいないことになっている、というのだ。

 続けて、朝廷に対して、こう建言しているという。

 「意見十二箇条(中略)
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる。(中略)」
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
  延喜十四年四月廿八日  従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行 上る」

 これらのうち、3番目の「一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる」との下りに、主張のエッセンスが宿されているようであり、これだと、「今では国司は役立たずの土地・人民台帳持っているだけで、富裕な者はますます土地を広げ、利益を上げることになっている。これは、国家の損失というに止まらず、国司の職務遂行を妨げることにもなっている」と結論付けている。

(続く)

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