121『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教以前の状況)
ユダヤ教のそもそもの成り立ちは、人と人を超越したある存在との運命的な出会いから出発している。アブラハム(Abraham)という人物は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。創世記第11章にて誕生し、第25章で175歳で亡くなった、としている。
実在した人物かどうかはわからないものの、旧約聖書での彼は、イスラエルの民(ユダヤ人)の祖とされる人物だ。だが、「他の神に仕えていた」偶像の信者でヘブル人であるテラの息子として生まれ、ウルの地に住んでいた。
ウルの土地柄については、次のように注釈されている。
「ウル。ユーフラテス川下流西岸のメソポタミアの初期王朝時代のカルデア人の町。月神シンの礼拝地であった。発掘により前4000年期より居住されていたと推定されるが、その上層に大洪水の跡が発見された。アブラハムの出生地(創・11の31、15の7、ネへ・九の七)」(A・シーグフリード著・鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教ーイスラエルの道ー」岩波新書、1967)
その地で族長であったときのある日、彼は「一なる神」の啓示により故郷を後にし新天地へと出発する決意をしたという。教義の上では、ユダヤの民の始祖は、彼だとされている。
そのユダヤ教の一番の特徴は、唯一の神を信仰していることにあるといっていい。アブラハムは、当時たくさんの神々の中でその神だけをあがめることを選んだ上、契約を結んだことになっている。
だからこそ、彼はこんにちも西洋的な宗教観をもつ人びとのほぼ共通の祖先、あるいは始祖として象徴的存在として君臨することになるのだろう。
🔺🔺🔺
これに対し、インドや東洋においては、神という存在の規定なりは、相当に曖昧であったろう。あえていうなら、単独の神を意味することはまずなく、そのほとんど全てが多くの神々とともに人間というものがある、そのことを前提として成り立ちがなされているように考えられる。
インドで代表的な宗教といえば、まずは古い時代の民族宗派、それにジャイナ教と、仏陀が興した仏教とがあろう。
ユダヤ教のそもそもの成り立ちは、人と人を超越したある存在との運命的な出会いから出発している。アブラハム(Abraham)という人物は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。創世記第11章にて誕生し、第25章で175歳で亡くなった、としている。
実在した人物かどうかはわからないものの、旧約聖書での彼は、イスラエルの民(ユダヤ人)の祖とされる人物だ。だが、「他の神に仕えていた」偶像の信者でヘブル人であるテラの息子として生まれ、ウルの地に住んでいた。
ウルの土地柄については、次のように注釈されている。
「ウル。ユーフラテス川下流西岸のメソポタミアの初期王朝時代のカルデア人の町。月神シンの礼拝地であった。発掘により前4000年期より居住されていたと推定されるが、その上層に大洪水の跡が発見された。アブラハムの出生地(創・11の31、15の7、ネへ・九の七)」(A・シーグフリード著・鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教ーイスラエルの道ー」岩波新書、1967)
その地で族長であったときのある日、彼は「一なる神」の啓示により故郷を後にし新天地へと出発する決意をしたという。教義の上では、ユダヤの民の始祖は、彼だとされている。
そのユダヤ教の一番の特徴は、唯一の神を信仰していることにあるといっていい。アブラハムは、当時たくさんの神々の中でその神だけをあがめることを選んだ上、契約を結んだことになっている。
だからこそ、彼はこんにちも西洋的な宗教観をもつ人びとのほぼ共通の祖先、あるいは始祖として象徴的存在として君臨することになるのだろう。
🔺🔺🔺
これに対し、インドや東洋においては、神という存在の規定なりは、相当に曖昧であったろう。あえていうなら、単独の神を意味することはまずなく、そのほとんど全てが多くの神々とともに人間というものがある、そのことを前提として成り立ちがなされているように考えられる。
インドで代表的な宗教といえば、まずは古い時代の民族宗派、それにジャイナ教と、仏陀が興した仏教とがあろう。
まずは、バラモン教というのは、インドとその周辺の地域の最古層に属する中では、最大の思想潮流をつくっていた。後のヒンドゥー教の根元には、その教えなり戒律なりが、相当に受け継がれ、現在に至っているのではないだろうか。そのことをもって、一説には、「古ヒンドゥー教」とも呼ばれているようだ。
そもそもの成立は、政治絡みであったようだ。規模は異なるものの、日本の「天皇神話」などともどこかしら似て、大古からのインドの先住民の暮らしを押し退ける過程で歴史に現れていったものと考えられる。
それというのは、紀元前2000~同1500年頃にかけて、アーリヤ人たちが、インドに侵入する。その前の彼らは、西トルキスタンで牧畜を営んでいたのだが、部族ごとにであろうか、先住民を支配下において、かのインダス農耕を学び、階級社会をつくっていく。
その階級は、大きく分けて4つあり、儀式をする司祭のバラモン(婆羅門)、王族や武族のクシャトリヤ(刹帝利)、商工業者のヴァイシャ(吠舎)、奴隷のシュードラ(首陀羅)の4つなのだが、これらに含まれない最下層の人も規定していたというから、驚きだ。
そういう中では、アーリヤ人たちは、インドの東の方にも侵入し、これまた先住民も帰依させて社会に組み込んでいく。一説には、それに応じて、アーリヤ人の宗教とインドの先住民の宗教が混ざったのがバラモン教ではないかとも、現代では考えられている。
そもそもの成立は、政治絡みであったようだ。規模は異なるものの、日本の「天皇神話」などともどこかしら似て、大古からのインドの先住民の暮らしを押し退ける過程で歴史に現れていったものと考えられる。
それというのは、紀元前2000~同1500年頃にかけて、アーリヤ人たちが、インドに侵入する。その前の彼らは、西トルキスタンで牧畜を営んでいたのだが、部族ごとにであろうか、先住民を支配下において、かのインダス農耕を学び、階級社会をつくっていく。
その階級は、大きく分けて4つあり、儀式をする司祭のバラモン(婆羅門)、王族や武族のクシャトリヤ(刹帝利)、商工業者のヴァイシャ(吠舎)、奴隷のシュードラ(首陀羅)の4つなのだが、これらに含まれない最下層の人も規定していたというから、驚きだ。
そういう中では、アーリヤ人たちは、インドの東の方にも侵入し、これまた先住民も帰依させて社会に組み込んでいく。一説には、それに応じて、アーリヤ人の宗教とインドの先住民の宗教が混ざったのがバラモン教ではないかとも、現代では考えられている。
🔺🔺🔺
次のジャイナ教は、苦行を行うことをいい、仏教は、その連鎖を絶ちきり、悟りを得るのを本来的な道とする。
このうち、ジャイナ教を始めたのはマハービーラで、当時のインド宗教界において、特異な教義を展開していく。具体的には、バラモン教徒の間で行われていた犠牲祭をとくに批判する。その際には、いわゆるベーダ聖典の権威も否定する。
この宗派を理解しようとする際の鍵となるのは、生命の根源に分けいる姿勢にあろう。動植物はもちろんのこと、地・水・火・大気をよりどころとする大小さまざまな生物の存在を認める。
その上で、事物の認識には多くの観方(みかた)(ナヤ)が必要であり、つねに一方的な判断を避けて相対的な考察を行うべきである。真理はかかる実践の中にあるという。
しかして、徹底した苦行、禁欲、不殺生の実践を重視することにより、悟りを得ようというのである。
また、後者は、ゴータマ・シッダールタが始めた宗派であって、これまた人間というものを深く観察することにより、解脱を目指す。その詳細は別項に譲るが、それを実現するに「八つの正しい道」を提起して、これを実践するというもの。
🔺🔺🔺
かたや、古代の中国においては、諸子百家もの多数の学派が活躍した。
その中でも一番の影響力をもっていたであろう儒教(じゅきょう)の祖は、紀元前の中国に生きた思想家であった、孔子である。
春秋(しゅんじゅう)時代の周(しゅう)王朝の末、紀元前551年(一説には同552年)に、魯国という小国の昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で生まれた。父は、この国の陬邑大夫の地位にあった。当時の中国は、実力主義が横行し古来の身分制秩序が解体されつつあった。長じてからは、当時の中国の各国を回って智慧を磨いた。
彼が関心を示したのは、あくまで現世での価値ある生き方の追求であった。今日的なジャンルを用いるなら、政治と道徳(人生哲学をも含める)面の主張が主であったのではないか。政治・道徳面では、周代初期の君臣政治への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁による思いやりの政治を掲げた。
具体的には、「子曰く、甚だしいかな、吾(わ)が衰えたるや。久し、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」(巻四第七述而篇5)とあって、彼の出身地の魯(ろ)の国の始祖・周公が取り組んだものを模範として掲げた。また、「礼」(社会生活を規律する根本倫理としてのもの)を以て政治に当たることの重要性を、「子曰く、能(よ)く礼譲を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て為めずんば、礼を如何らん」(巻二第四里仁篇13)とあるように、他者に噛んで含めるが如くに訴えた。
その「三十にして立つ」からの確固不動の人生態度には、今日でも驚きをもって受け止められているのではないだろうか。その死(紀元前479年)までの間に3千人ともいわれる、多くの弟子を育てた教育家もあった。
そんな儒教の日本への伝来がいつのことだったかは、わかっていない。仏教よりも早く伝わったことは疑わないとしつつも、「継体大王」(けいたいだいおう、『日本書記』による)の時代の513年か、百済より五経博士が渡日したとの記述がある。このことから、これ以降しばらくしてとみる説がある。それ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』にみえる。さらに有力説では、邪馬台国の卑弥呼の時代、つまり3世紀には既に「千字文」(せんじもん)とともに倭にもたらされた。顧みるに、仏教はインドから長い時間をかけて伝来したが、儒教は当時「中原」(ちゅうげん)と呼ばれていた中国文明の中心地で生まれた思想である。そのことから、この列島への儒教の伝搬(でんぱん)は、3世紀までのことであったと考える。
「論語」は、どうやって出来上がったのだろうか。やはり、弟子達が生前の孔子が語っていた事柄を、簡潔な文に直してか、あるいは逐一諳(ろら)んじていたものを書き写したものであろうか。特徴としては、さまざまな分野、場面に亘っている中で、「君子」たる者の道が堂々と披瀝されている。その際一際異彩を放っているのが、彼の死生観、すなわち「子、怪力乱神を語らず」(巻四第七述而篇20)並びに「子曰く、未(いま)だ生(せい)を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(巻六第十一先進篇12)ではないだろうか。抑制的な口調となっていても、いわゆる「神仏を敬い、神仏を頼らず」といった処世観・処世術とは、明らかに異なる。
とはいえ、神仏を語らぬということは、かならずしもそれが反宗教的な思想であることを意味しない。その意味では、孔子の思想は、多神教、しかも草木をも奉祀するこの列島での自然宗教としての神道(いわゆる「国家神道」とは別物として考えたい)による曖昧な「神」観と相入れ易い面を持っているのではないか。また、元々の孔子の教えには呪術的なところが見あたらないし、当時の政治儀式(獣の血をすすって盟約を立てるなど)についても取り立てて拒絶しているようなことは、見あたらない。これらの点では、4世紀頃の倭に入ってきていたとされる道教(老子・荘子の思想)や、5世紀頃に入ってきたと考えられる陰陽五行(いんようごぎょう)の思想とも馴染みやすかったのではないか。
🔺🔺🔺
このように、東洋と西洋の宗教観がかくも大きな違いをもっているのはどうしてなのかはよくわかっていない。たぶん、歴史的なものと地理的(気候を含む)なものとの両方がその成り立ちに大きくかかわっているのではないだろうか。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★
このうち、ジャイナ教を始めたのはマハービーラで、当時のインド宗教界において、特異な教義を展開していく。具体的には、バラモン教徒の間で行われていた犠牲祭をとくに批判する。その際には、いわゆるベーダ聖典の権威も否定する。
この宗派を理解しようとする際の鍵となるのは、生命の根源に分けいる姿勢にあろう。動植物はもちろんのこと、地・水・火・大気をよりどころとする大小さまざまな生物の存在を認める。
その上で、事物の認識には多くの観方(みかた)(ナヤ)が必要であり、つねに一方的な判断を避けて相対的な考察を行うべきである。真理はかかる実践の中にあるという。
しかして、徹底した苦行、禁欲、不殺生の実践を重視することにより、悟りを得ようというのである。
また、後者は、ゴータマ・シッダールタが始めた宗派であって、これまた人間というものを深く観察することにより、解脱を目指す。その詳細は別項に譲るが、それを実現するに「八つの正しい道」を提起して、これを実践するというもの。
🔺🔺🔺
かたや、古代の中国においては、諸子百家もの多数の学派が活躍した。
その中でも一番の影響力をもっていたであろう儒教(じゅきょう)の祖は、紀元前の中国に生きた思想家であった、孔子である。
春秋(しゅんじゅう)時代の周(しゅう)王朝の末、紀元前551年(一説には同552年)に、魯国という小国の昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で生まれた。父は、この国の陬邑大夫の地位にあった。当時の中国は、実力主義が横行し古来の身分制秩序が解体されつつあった。長じてからは、当時の中国の各国を回って智慧を磨いた。
彼が関心を示したのは、あくまで現世での価値ある生き方の追求であった。今日的なジャンルを用いるなら、政治と道徳(人生哲学をも含める)面の主張が主であったのではないか。政治・道徳面では、周代初期の君臣政治への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁による思いやりの政治を掲げた。
具体的には、「子曰く、甚だしいかな、吾(わ)が衰えたるや。久し、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」(巻四第七述而篇5)とあって、彼の出身地の魯(ろ)の国の始祖・周公が取り組んだものを模範として掲げた。また、「礼」(社会生活を規律する根本倫理としてのもの)を以て政治に当たることの重要性を、「子曰く、能(よ)く礼譲を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て為めずんば、礼を如何らん」(巻二第四里仁篇13)とあるように、他者に噛んで含めるが如くに訴えた。
その「三十にして立つ」からの確固不動の人生態度には、今日でも驚きをもって受け止められているのではないだろうか。その死(紀元前479年)までの間に3千人ともいわれる、多くの弟子を育てた教育家もあった。
そんな儒教の日本への伝来がいつのことだったかは、わかっていない。仏教よりも早く伝わったことは疑わないとしつつも、「継体大王」(けいたいだいおう、『日本書記』による)の時代の513年か、百済より五経博士が渡日したとの記述がある。このことから、これ以降しばらくしてとみる説がある。それ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』にみえる。さらに有力説では、邪馬台国の卑弥呼の時代、つまり3世紀には既に「千字文」(せんじもん)とともに倭にもたらされた。顧みるに、仏教はインドから長い時間をかけて伝来したが、儒教は当時「中原」(ちゅうげん)と呼ばれていた中国文明の中心地で生まれた思想である。そのことから、この列島への儒教の伝搬(でんぱん)は、3世紀までのことであったと考える。
「論語」は、どうやって出来上がったのだろうか。やはり、弟子達が生前の孔子が語っていた事柄を、簡潔な文に直してか、あるいは逐一諳(ろら)んじていたものを書き写したものであろうか。特徴としては、さまざまな分野、場面に亘っている中で、「君子」たる者の道が堂々と披瀝されている。その際一際異彩を放っているのが、彼の死生観、すなわち「子、怪力乱神を語らず」(巻四第七述而篇20)並びに「子曰く、未(いま)だ生(せい)を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(巻六第十一先進篇12)ではないだろうか。抑制的な口調となっていても、いわゆる「神仏を敬い、神仏を頼らず」といった処世観・処世術とは、明らかに異なる。
とはいえ、神仏を語らぬということは、かならずしもそれが反宗教的な思想であることを意味しない。その意味では、孔子の思想は、多神教、しかも草木をも奉祀するこの列島での自然宗教としての神道(いわゆる「国家神道」とは別物として考えたい)による曖昧な「神」観と相入れ易い面を持っているのではないか。また、元々の孔子の教えには呪術的なところが見あたらないし、当時の政治儀式(獣の血をすすって盟約を立てるなど)についても取り立てて拒絶しているようなことは、見あたらない。これらの点では、4世紀頃の倭に入ってきていたとされる道教(老子・荘子の思想)や、5世紀頃に入ってきたと考えられる陰陽五行(いんようごぎょう)の思想とも馴染みやすかったのではないか。
🔺🔺🔺
このように、東洋と西洋の宗教観がかくも大きな違いをもっているのはどうしてなのかはよくわかっていない。たぶん、歴史的なものと地理的(気候を含む)なものとの両方がその成り立ちに大きくかかわっているのではないだろうか。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★