♦️279の11『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとカナダの先住民族、アイヌ民族、オーストラリア先住民族などへの弾圧、~19世紀)

2021-05-08 19:32:34 | Weblog
279の11『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ、カナダの先住民族、アイヌ民族、オーストラリア先住民族などへの弾圧、~19世紀)


 さて、「移民でつくられた国」といわれるアメリカにも、かなりの数原住民がいたことは、様々に言われている。例えば、こうある。

 「もちろん、原住民として、かなり多数のアメリカインディアンが植民以前にこの土地に住んでいた。南西部、つまりこんにちのテキサスあたりからメキシコにかけての中米(mesoamerica)には、かつて高度の文明が支配的であった時代もある。
 考古学者のフレデリック・ピーターソンによれば、15世紀の南北両アメリカは合計1300万ないし1500万の人口をもって、いた、と推定されているし、また、こんにちの合衆国には10万にのぼるインディアンの土墳がのこっている。
 しかし、主としてヨーロッパ大陸からの大規模な移民が、ここを占領してしまった。移民としてアメリカにきたという、事実だけがアメリカ人にとっての共通の経験なのであって、それ以外にアメリカ人をアメリカ人たらしめているものなにもない。人種・民族に関係に、かかわりなく、この大陸に、きた人間がアメリカ人なのだ。」(加藤秀俊「アメリカ人」講談社現代新書、1967)  

 それが、19世紀も後半になってはどうであったのだろうか。こちらも、残酷な出来事に事欠かなかったことが、知られている。しかして、近年の研究を踏まえては、例えば、こう解説されている。

 「西部開拓の終わりは、そこに住む先住アメリカ人(インディアン)およびメキシコ系などの先住入植者の掃討や征服も、完遂されたことを意味していた。西部の先住民は白人による西部の鉱業開発や農業開発に押されて後退を重ねた。
 彼らの生活はすべてバッハァロー(野牛)に依存していた。白人たちがバッハァローの猟場を、あらし、乱獲したために、バッハァローの数はほとんど絶滅に近い状態に、まで激減してしまった。
 連邦政府は、生活手段を奪われた先住民たちを保留地に囲い込んで管理する政策をとった。これに抵抗する者にたいしては。たび重なる掃討戦が強行された。彼らは白人の圧倒的武力の前に敗北を重ねたが、時に相手に大きな打撃を与えることもあった。
 しかし1886年、アパッチ族の指導者ジェロニモの降伏をもって、先住民の武力による抵抗は終わった。さらに1890年、サウスダコタのウィーンデッドニーにおいて、騎兵隊は女性、子ども、老人を主としたスー族の一団のほとんどを全滅させた。これをもって先住民の虐殺も終わりを告げた。」(紀平英作編「アメリカ歴史」上、山川出版社、2019)


🔺🔺🔺

 一方、カナダにおいて先住民族といわれるのは、イヌイットとは北極地方の人々、それにファーストネーションズと呼ばれる北米インディアンの人々、それにヨーロッパと先住民を先祖に持つ人々をメティスという。
 先住民族が暮らしていたカナダに白人たちがやって来たのは、1500年頃てあったという。17世紀に入ると、イギリスとフランスが、この地方に相次いで入植してくる。彼らは、圧倒的な武力で先住民族を圧迫し、植民地をひろげていく。
 1857年からは、カナダとして、同化政策が行われていく。先住民族に対し、資産と公民権を与える変わりに彼らを部族から離れさせ、無理やり白人支配に従わせようというものだ。また、カナダ政府のむき出しの暴力は後ろに退くものの、不平等な条約により先住民族たちの土地は少額で奪われていく。

🔺🔺🔺


 次に、日本では、アイヌの人々の暮らしがあって、さしあたり、17世紀の状況については、例えば、こうあったという。


 「1618~21年ごろに、北海道に渡ってキリスト教の布教をこころみたイエズス会の宣教師、シチリア人のアンジェリスの報告によると、そのころのアイヌは活発な商業交易民で、ヨーロッパと同じような馬をもっているといわれている。そのころのアイヌは、前述したように、河川の流域の聖地であり城であるチャシを中心に統合体を形成している。
 これに対し、北海道南部をおさえていた松前氏は、この段階では、自らの支配する地域を「日本ではない」、「天下」の外と考えていたことも、アンジェリスの報告によって知られるが、やがて松前氏は「蝦夷地」と呼ばれるようになった北海道での交易の独占を幕府に保障され、日本国の境界の特異な性格を持つ大名という立場を固めていくことになる。」(網野善彦「日本社会の歴史」下、岩波新書、1997)


 とはいえ、それよりもう少し前の蝦夷(現在でいう東北・北海道)を見ると、アイヌと倭人・日本人との間に平和が続いていた訳でなない。そこには、既に大規模なアイヌと和人との勢力争いがあった。
 1456年(康正2年)には、アイヌの青年が和人に道南の志濃里(しのり、または志苔)で殺害される事件が起きる。
 背景には、和人は製鉄の技術がありアイヌ人にはなく、アイヌ人は猟に欠かせない鉄製品を、和人から購入していた。ところが、このアイヌの青年と和人とが、マキリ(小刀)の取引で揉めて、和人がアイヌを殺してしまう。
 これがきっかけで、翌1457年(長禄元年)には、アイヌ東部の首長コシャマインが中心となり、和人に対し蜂起する。年来の不公平貿易の不満が爆発したのだ。
 この「コシャマインの戦い」で、アイヌは道南の和人の拠点12館のうち志苔館(現在の志館町)や箱館(現在の函館市)など10館を陥落させる。花沢館(現在の上ノ国町)と茂別館(現在の北斗市)のみが残る。


 しかし、潜在的な武力では、日本側が圧倒的なのであって、花沢館の武田信広(近江武田氏の子孫にて、客将扱い)が、コシャマイン軍を討つ。和人勢力は、拠点の函館を退いて大館(松前)に移る。
 その武田信広については、「その後、蠣崎季繁の養女で、じつは安藤政季(師季)の娘であった人を妻としてもらいうけて蠣季氏をつぎ、近世大名松前氏の祖になった人物である」(大谷直正「北の周縁、列島東北部の興起」、大谷直正外編
「周辺から見た中世日本」講談社、2001に所収)という次第であった。


 それでも、和人間の勢力争いも引き続きあったりで、花沢館に拠った蠣崎氏が有力にならんとしていた。そこへもってきて蠣崎氏は、青森の十三湊(とさみなと、現在の青森県市浦村十三、津軽半島西海岸よ港町)を拠点に日本海交易を支配していた安東氏(現在の青森が拠点)に取り入り、蝦夷の代官となる。
 1593年(慶長4年)、蠣崎氏は、秀吉から蝦夷島首としての朱印を得、1599年(慶長4年)には家康に謁見し、松前姓に改称する。

 17世紀半ばになっても、先に江戸幕府から蝦夷交易独占権を承認されていた松前氏と、これに従属的交易を余儀なくされてアイヌとの勢力争いが頻発すしていた。
 おりしも、アイヌの首長同士では、大きな対立が起きていた。シベチャリ(静内)て石狩から白老あたりまでの西のアイヌ人勢力(シュムンクル)と、静内から釧路あたりの東のアイヌ人勢力(メナシウンクル)との間で、狩り場をめぐっての紛争が起きる。 
 かくて、西のオニビシ軍が、東の勢力のシャクシャイン軍の攻撃を受け、敗れる。


 これに敗れたオニビシ側は松前氏と結んで、シャクシャインに対抗、
1669年(寛文9年)には、シャクシャイン軍は、オニビシ側に味方する松前藩と戦う。
 その際には、全アイヌの大同団結を全アイヌモシリ(アイヌ語で「北海道」をいう)に呼びかける。


 かくて、両者は激しく戦う、これを「シャクシャインの戦い」と呼ぶ)。これは手強いとみた松前藩は、シャクシャインと和睦する。それもつかの間、油断したシャクシャインを酒宴の席で、毒殺する。アイヌ側は、総崩れとなる。
 以降、アイヌに対する松前藩による収奪や搾取が続く。

🔺🔺🔺

 今度は、オーストラリア大陸で、どのようなことが起こったかを、簡単に見ていこう。
 1520年代には、ポルトガルの船団が、大陸東部を探検したとされる。当時はヨーロッパで珍重された香辛料などを求める大航海時代だったというのたが、確かなことはわかっていないようだ。
 1606年には、スペイン人のトレスの船団が、オーストラリアとパプア・ニューギニアの間の海峡(現在のトレス海峡)を通過する。

 17世紀になると、オランダの探検家はタスマニア島を発見する。そして、オランダ人がオーストラリア大陸を最初に発見する。その頃、先住民族としてのアボリジニは、500とも700ともいわれる部族に分かれて暮らしていた。
 1770年4月、シドニー湾岸近くに上陸したイギリスのキャプテン・クックの船団は、シドニー湾岸から上陸地を窺ううち、上陸を果たし、その地点をボタニー湾と命名する。蛇足ながら、筆者も21世紀初頭にこの地点に立ったことがあるものの、絶壁、不毛の大地と言えなくもない印象であった。
 1788年1月には、アーサー・フィリップの船団は、シドニーのボタニー湾に到着の後、数キロ北上してポート・ジャクソンに植民地を建設する。
 そこでこの年、イギリス人のアー サー・フィリップが、初代総督によって、大陸東部全土をイギリスが領有すると宣言する。

 一方、現地に住んでいる人々に対しては、圧倒的な武力を前にまるで眼中になかったのではあるまいか。
 1700年代後半には、イギリス政府の後押しによる東海岸から始まった入植運動は、オーストラリア大陸を徐々に内陸部、それに西へ移行していく。現地に元々いる人々に対する迫害は、こうした脅威を受けて西へ南へと具現化していったのであろう。
 1829年には、西オーストラリアも正式にイギリスの領有と宣言される。その後、流刑者ではなく純粋な開拓民による植民地移住が認められ、1836年にはマレー川河口に南オーストラリア植民地が形成される。
 それからは、イギリスから入植する者が日増しに増えていく。そのうちには、羊の飼育による羊毛の生産や鉄鋼石の採掘、それに19世紀半ばのゴールド・ラッシュがあったりで、植民に拍車がかかる。
 そこでイギリス政府は各植民地に、イギリス式の憲法や議議会をつくって、植民地支配を固めていく。



(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆