171の14『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、早川正紀(早川八郎左衛門))
早川正紀(はやかわまさとし、1739~1808)は、笠間藩主・井上河内守の家臣・和田市右衛門直舎の二男として、江戸の生まれ。
幼少期から、泰然風なところがあってらしい。幼名は岩之助。後に伊兵衛、八郎左衛門と改めていく。
その後、徳川御三卿の一つである田安徳川家家臣の早川伊兵衛正諶の養子となる。
1766年(明和3年)には、28歳にして、幕臣の早川宗家に跡継ぎが無いため、幕府に許されて宗家・旗本を継ぐ。
1769年(明和6年)には、勘定奉行所勘定役に出世する。1781年(天明元年)まで恙無く務める。その間、財政、土木上の貢献が大きく、中でも、関東諸国の河川工事に指揮を奮う。1775年(安永4年)には、幕府から某かの報奨を受ける。なにしろ、諸事において「できる人物」であったらしい。
1781年(天明元年)には、出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)の代官に任命され、赴く。1787年(天明7年)まで務める間には、1783年(天明3年)からの天明の大飢饉に見舞われる。
それというのも、特に東北地方にあっては、飢饉の規模が甚大であった。早川は、これを人災と捉え、当該幕府領の人々に色々と構えることによりなんとか切り抜けたらしい。その際には、次の「6本の戒」のような訓戒も用いたらしい。
「深酒をすごすは病を生ずる本なり。言を敬まざるは災いの本なり。
思案せざるはあやまちの本なり。私慾深きは身をころす本なり。倹約ならざるは困窮の本なり。怒をこらえざるは争の本なり。」
かくて、早川の考えというのは、凶作の対応に留まらず、百姓たちの生き方にまで及んだという。
それというのも、特に東北地方にあっては、飢饉の規模が甚大であった。早川は、これを人災と捉え、当該幕府領の人々に色々と構えることによりなんとか切り抜けたらしい。その際には、次の「6本の戒」のような訓戒も用いたらしい。
「深酒をすごすは病を生ずる本なり。言を敬まざるは災いの本なり。
思案せざるはあやまちの本なり。私慾深きは身をころす本なり。倹約ならざるは困窮の本なり。怒をこらえざるは争の本なり。」
かくて、早川の考えというのは、凶作の対応に留まらず、百姓たちの生き方にまで及んだという。
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1787年(天明7年)には、羽州尾花沢から作州の久世に転入してくる。以来14年の間、同地の代官職にあり、この間、備中笠岡代官と倉敷代官も兼務する。
かかる時期には、「久世条教」を著し、その中で、主に農民向けに、次の七つを奨励している。
その一は、勧農桑(のうそうをすすむ)。その二は、敦孝弟(こうていをあつくす)。その三は、息争訟(そうしょうをやむ)。その四とは、尚節倹(せっけんをたっとぶ)。その五とは、完賦税(ふぜいをまっとうす)。その六として、禁洗子(せんしをきんず)。その七は、厚風俗(ふうぞくをあつくす)。」とある。
これらのうち3番目の「禁洗子」においては、次のような注釈が付けられている。
「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。」
その一は、勧農桑(のうそうをすすむ)。その二は、敦孝弟(こうていをあつくす)。その三は、息争訟(そうしょうをやむ)。その四とは、尚節倹(せっけんをたっとぶ)。その五とは、完賦税(ふぜいをまっとうす)。その六として、禁洗子(せんしをきんず)。その七は、厚風俗(ふうぞくをあつくす)。」とある。
これらのうち3番目の「禁洗子」においては、次のような注釈が付けられている。
「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。」
「家業を勤め倹約を専らにするは天の道に従うなり、天は人の為に万物を生き生き給うなり、凡そ人一萬あれば其一萬の用をなす者を生ず、此故に分をこえて奢(しゃ)をなし、天下の物を余計に遣(つか)い捨つれば、それ程よ天下の用不足する理なり、(後略)」(早川八郎差衛門「尚節険」、野村完六編集「美作郷土読本」・中巻、津山高等女学校国語科発行、1937より引用)
「善き事を見れば必ず行え、過を聞けば必ず改めよ、能く其身を修めよ、(中略)能く廉介を守れ、能く施恵を廣くせよ、能く寄託を受けよ、能く過失を規せ、能く人の為に謀(はか)れ、能く衆の為に事を集めよ、能く闘争を解け、能く是非を決せよ、能く利を興し、害を除(の)け、官に居ては職を挙げよ。」(早川八郎差衛門「徳の条目」、同前掲書)
「善き事を見れば必ず行え、過を聞けば必ず改めよ、能く其身を修めよ、(中略)能く廉介を守れ、能く施恵を廣くせよ、能く寄託を受けよ、能く過失を規せ、能く人の為に謀(はか)れ、能く衆の為に事を集めよ、能く闘争を解け、能く是非を決せよ、能く利を興し、害を除(の)け、官に居ては職を挙げよ。」(早川八郎差衛門「徳の条目」、同前掲書)
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1801年(享和元年)には、またも転出する。早川が63歳から70歳まで(1801年~1808年)までの間は、武蔵の久喜(現在の埼玉県久喜市)で代官を務める。同地は、約10万石の幕府直轄領である。
そして、ここでも建学、治水、公平な裁きを主にして、民生の向上に取り組む。
具体的なところでは、郷学遷善館の設立(1803)や、利根川や荒川の治水、また、サツマイモの栽培を奨励している。
その仕事人生において、富貴を求めることなく、また常に人の人たるを心掛けた人物として、官僚としても一世人としても、並外れた見識そして心情を兼ね備えていた、当代希有の人であったのではないか。
(続く)
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