170『自然と人間の歴史・日本篇』本能寺の変(1582)
信長は、毛利輝元の勢力下の備中にある、毛利氏攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するように、これまた家臣の明智光秀を派遣することにした。これを光秀に命令し、自身は上洛し、この日、1582年6月21日「天正10年6月2日」(✳️)は本能寺に宿泊していた。
(✳️)この場合、当該年をどう表記するかは、悩ましい。なぜなら、本ブログで主に用いているグレゴリオ暦で天正10年6月2日を換算すると、1582年6月21日に当たるという。その同じ1582年に、ローマ教皇グレゴリウス13世が、古代ローマ時代に出来たユリウス暦を改良して、新たな暦をつくったことになっているからだ。
とはいえ、かかるグレゴリオ暦は、現在の世界がほぼ一致して第一のものとして使用している年号(暦法)に他ならず、その意味あいでは「西暦」の域を越え「世界暦」として認められているとの認識から、こちらを主に据えて表記したい。
以下、一説についていうと、信長に、備中高松城(備中国賀陽郡中島村高松、現在の岡山市北区高松)を囲む秀吉軍の加勢に行くよう(そののち信長も当地への含みあり)命じられた光秀は、かかる情報を入手ののち、坂本城(近江国滋賀郡坂本、現在の滋賀県大津市下坂本)の西方に位置する亀山城(丹波国桑田郡亀岡、現在の京都府亀岡市)を出てからは備中には向かわず、まずは愛宕神社(あたごじんじゃ、現在の京都市、交通の便は、表参道登山口まで京都バス「清滝」下車すぐ)に上り戦勝祈願を行う。
そして迎えた運命の日の出陣前、これより前本心を打ち明けた重臣以外にも、主だった者に「敵は本能寺にあり」と本能寺に向かう旨を告げたと伝わる。
はたしてこの寺は、現在とは異なる場所にあって、しかも、石垣や堀を擁する城郭寺院で、それなりの防御力をもっていたという。
それでも、約1万3000人もの兵士が押し寄せたからには、100人程度の従者で防げる訳は到底ない。しかも、門外に立ち並ぶ軍旗を問うた近習から「水色桔梗」とのしらせが耳に入るや、「是非に及ばず」と慨嘆したのかどうか、光秀の有能さを認めている信長は、もはやなす統べなしと認識したことだろう。かくなるうえは、首を取られる前に炎に巻かれて自害する、その事で死体の形跡をとどめない道を選んだというのが、大方の見方なのだろう。
よしんば、助かる道があったとしても、極めて限られた状況下しか、思いつかない。いち早く光秀の奇襲を6時間前位までになんとか察知したとしても、その動くを見抜かれるや追っ手が追い付くと考えるのが、自然だろう。しかも、畿内には光秀の軍勢をしばしであれ止める兵力は存在しておらず、安全地帯に逃げおおせるまでには至らなかったのではないかと推察されよう。
重ねて、光秀にとってつごうの良かったことには、信長の跡取りの信忠も京都内の手に届く場所にいた。こうなると、光秀は労せずして織田家の大黒柱の二人を、味方はほぼ無傷にして討ち取ることができよう、光秀にとって誠に降って沸いたような「千載一遇」の機会が訪れた訳なのだ。
それもそれ、本拠地からなるべく近道をとって、迅速に京都に入り、不意をつくという戦術である。これだと、山間を歩かないだけに道中で発見されやすいが、そんな場合は斬り捨てて先を急いだという。
しかして、光秀の軍勢が本能寺を包囲したのは、午前6時頃のことだったから、まだ夜が明けやらぬうちからの「朝駆け」であることも、敵はまだ目覚めていない、それゆえ覚醒して防御を固めるまでにはそれなりの時間がかかろう、光秀軍にとっては都合が良かったであろう。
それでは、元来が慎重な性格であったろう、その光秀がこの挙に至った動機なり背景は、何であったのだろうか。これについては、おそらくは複数の理由なりがあったのではないだろうか。
それらで後世の者から観ていて、何かしら頷けるものを数えると、さしあたり次の三つを思いつく。その一つとは、1575年(天正3年)頃の信長は、長宗我部元親を四国で使える武将としていた。そこで、元親に四国を「切り取り次第」といい、励ました。そして、これを仲介し、まとめたのが光秀なのだった。
ところが、1581年(天正9年)の後半にさしかかる頃には、土佐と阿波半国しか領有を認めないとした。心変わりということか。信長は、以前より「天下賦武」に自信をつけており、元親に対しても、言うことが辛くなったものと見える。
さらに、元親がこれに承知しなかったことがあり、そのことは、それを諫めるために腹心の斎藤利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと旨の記述が、「長宗我部元親記」(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や「南海通記」(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にあるという。
しかも、2019年には、新たな文書が見つかる。斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した林原美術館所蔵の書状が見つかり、その本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したものではないか、という。
いずれにせよ、これで光秀の面目が潰れたのみならず、信用が失われただけではない、ひいては自分の現在の地位とて、崩れだしたらはやいのではないかと心配が増すのが流れというものであろう。
二つ目は、家康を招いての接待に関連しての話として、何かの理由で蹴されるなりの暴力を振るわれたという。その理由を窺わせる一説としては、例えば、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」には、光秀が家康の接待役を解任される前の出来事として、こうある。
「このたびは、(中略)三河の国主と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々の語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。」(ルイス・フロイス「完訳フロイス日本史③安土城と本能寺の変-織田信長編Ⅲ」(中央公論新社)より)
また、本能寺の変の当日における明智軍の動向につき、一旦西へ向かっていたのが途中で引き返したことにつき、こんな話も伝わるという。
「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるかを訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主を殺すつもりであろうと考えた。」(同)
もしそのことが本当なら、その場は主君のやることにてやり過ごしていたものが、振り返ってはやはり許せないと思い直したからではなかったか。その際、かねてから怨恨が重なっていたところでの所業というのでは、たぶん当たらない。
なぜなら、それまでの光秀は、事あるごとに、一回りも年下の「上様」に対して感謝や忠誠心を公の場で繰り返し述べており、それらが演技というにはかなり唐突なことになろう。
そのあたりは、たぶんに、かの浅井長政(あざいながまさ)が義理の兄の信長に命令口調で軽んじられることに対して、怒り、反旗を翻したのと、似通っていたのではないだろうか、光秀もまた長政と同様に領民一般に慕われていた面が伝わっていて、そうであればこそ、光秀が自らを頼む自尊心には、信長や長政に劣らず高いものがあったのではないたろうか。
🔺🔺🔺
かくして、主君の信長を倒した後の光秀軍は、その日のうちに安土城(現在の滋賀県近江八幡市)をめざして進軍するも、敵方武将、瀬田城主の山岡景隆が「瀬田の大橋」(現在の滋賀県大津市唐橋町瀬田の瀬田川に架かる)を焼き落とし、仕方なく坂本城にひきかえす。
安土城には、信長の金銀財宝などの貴重な品々が蓄えてあるのは、いうまでもなく、光秀としては、これらを是が非でも手にいれ、政治工作や兵を集めるのに役立てなければならない。しかるべく、壊れた橋を整え安土城を落としたのは、本能寺の変から9日目と大きく遅れる、そのことで光秀は相当の時間をロスしたことになったことだろう。
信長は、毛利輝元の勢力下の備中にある、毛利氏攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するように、これまた家臣の明智光秀を派遣することにした。これを光秀に命令し、自身は上洛し、この日、1582年6月21日「天正10年6月2日」(✳️)は本能寺に宿泊していた。
(✳️)この場合、当該年をどう表記するかは、悩ましい。なぜなら、本ブログで主に用いているグレゴリオ暦で天正10年6月2日を換算すると、1582年6月21日に当たるという。その同じ1582年に、ローマ教皇グレゴリウス13世が、古代ローマ時代に出来たユリウス暦を改良して、新たな暦をつくったことになっているからだ。
とはいえ、かかるグレゴリオ暦は、現在の世界がほぼ一致して第一のものとして使用している年号(暦法)に他ならず、その意味あいでは「西暦」の域を越え「世界暦」として認められているとの認識から、こちらを主に据えて表記したい。
以下、一説についていうと、信長に、備中高松城(備中国賀陽郡中島村高松、現在の岡山市北区高松)を囲む秀吉軍の加勢に行くよう(そののち信長も当地への含みあり)命じられた光秀は、かかる情報を入手ののち、坂本城(近江国滋賀郡坂本、現在の滋賀県大津市下坂本)の西方に位置する亀山城(丹波国桑田郡亀岡、現在の京都府亀岡市)を出てからは備中には向かわず、まずは愛宕神社(あたごじんじゃ、現在の京都市、交通の便は、表参道登山口まで京都バス「清滝」下車すぐ)に上り戦勝祈願を行う。
そして迎えた運命の日の出陣前、これより前本心を打ち明けた重臣以外にも、主だった者に「敵は本能寺にあり」と本能寺に向かう旨を告げたと伝わる。
はたしてこの寺は、現在とは異なる場所にあって、しかも、石垣や堀を擁する城郭寺院で、それなりの防御力をもっていたという。
それでも、約1万3000人もの兵士が押し寄せたからには、100人程度の従者で防げる訳は到底ない。しかも、門外に立ち並ぶ軍旗を問うた近習から「水色桔梗」とのしらせが耳に入るや、「是非に及ばず」と慨嘆したのかどうか、光秀の有能さを認めている信長は、もはやなす統べなしと認識したことだろう。かくなるうえは、首を取られる前に炎に巻かれて自害する、その事で死体の形跡をとどめない道を選んだというのが、大方の見方なのだろう。
よしんば、助かる道があったとしても、極めて限られた状況下しか、思いつかない。いち早く光秀の奇襲を6時間前位までになんとか察知したとしても、その動くを見抜かれるや追っ手が追い付くと考えるのが、自然だろう。しかも、畿内には光秀の軍勢をしばしであれ止める兵力は存在しておらず、安全地帯に逃げおおせるまでには至らなかったのではないかと推察されよう。
重ねて、光秀にとってつごうの良かったことには、信長の跡取りの信忠も京都内の手に届く場所にいた。こうなると、光秀は労せずして織田家の大黒柱の二人を、味方はほぼ無傷にして討ち取ることができよう、光秀にとって誠に降って沸いたような「千載一遇」の機会が訪れた訳なのだ。
それもそれ、本拠地からなるべく近道をとって、迅速に京都に入り、不意をつくという戦術である。これだと、山間を歩かないだけに道中で発見されやすいが、そんな場合は斬り捨てて先を急いだという。
しかして、光秀の軍勢が本能寺を包囲したのは、午前6時頃のことだったから、まだ夜が明けやらぬうちからの「朝駆け」であることも、敵はまだ目覚めていない、それゆえ覚醒して防御を固めるまでにはそれなりの時間がかかろう、光秀軍にとっては都合が良かったであろう。
それでは、元来が慎重な性格であったろう、その光秀がこの挙に至った動機なり背景は、何であったのだろうか。これについては、おそらくは複数の理由なりがあったのではないだろうか。
それらで後世の者から観ていて、何かしら頷けるものを数えると、さしあたり次の三つを思いつく。その一つとは、1575年(天正3年)頃の信長は、長宗我部元親を四国で使える武将としていた。そこで、元親に四国を「切り取り次第」といい、励ました。そして、これを仲介し、まとめたのが光秀なのだった。
ところが、1581年(天正9年)の後半にさしかかる頃には、土佐と阿波半国しか領有を認めないとした。心変わりということか。信長は、以前より「天下賦武」に自信をつけており、元親に対しても、言うことが辛くなったものと見える。
さらに、元親がこれに承知しなかったことがあり、そのことは、それを諫めるために腹心の斎藤利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと旨の記述が、「長宗我部元親記」(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や「南海通記」(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にあるという。
しかも、2019年には、新たな文書が見つかる。斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した林原美術館所蔵の書状が見つかり、その本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したものではないか、という。
いずれにせよ、これで光秀の面目が潰れたのみならず、信用が失われただけではない、ひいては自分の現在の地位とて、崩れだしたらはやいのではないかと心配が増すのが流れというものであろう。
二つ目は、家康を招いての接待に関連しての話として、何かの理由で蹴されるなりの暴力を振るわれたという。その理由を窺わせる一説としては、例えば、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」には、光秀が家康の接待役を解任される前の出来事として、こうある。
「このたびは、(中略)三河の国主と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々の語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。」(ルイス・フロイス「完訳フロイス日本史③安土城と本能寺の変-織田信長編Ⅲ」(中央公論新社)より)
また、本能寺の変の当日における明智軍の動向につき、一旦西へ向かっていたのが途中で引き返したことにつき、こんな話も伝わるという。
「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるかを訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主を殺すつもりであろうと考えた。」(同)
もしそのことが本当なら、その場は主君のやることにてやり過ごしていたものが、振り返ってはやはり許せないと思い直したからではなかったか。その際、かねてから怨恨が重なっていたところでの所業というのでは、たぶん当たらない。
なぜなら、それまでの光秀は、事あるごとに、一回りも年下の「上様」に対して感謝や忠誠心を公の場で繰り返し述べており、それらが演技というにはかなり唐突なことになろう。
そのあたりは、たぶんに、かの浅井長政(あざいながまさ)が義理の兄の信長に命令口調で軽んじられることに対して、怒り、反旗を翻したのと、似通っていたのではないだろうか、光秀もまた長政と同様に領民一般に慕われていた面が伝わっていて、そうであればこそ、光秀が自らを頼む自尊心には、信長や長政に劣らず高いものがあったのではないたろうか。
🔺🔺🔺
かくして、主君の信長を倒した後の光秀軍は、その日のうちに安土城(現在の滋賀県近江八幡市)をめざして進軍するも、敵方武将、瀬田城主の山岡景隆が「瀬田の大橋」(現在の滋賀県大津市唐橋町瀬田の瀬田川に架かる)を焼き落とし、仕方なく坂本城にひきかえす。
安土城には、信長の金銀財宝などの貴重な品々が蓄えてあるのは、いうまでもなく、光秀としては、これらを是が非でも手にいれ、政治工作や兵を集めるのに役立てなければならない。しかるべく、壊れた橋を整え安土城を落としたのは、本能寺の変から9日目と大きく遅れる、そのことで光秀は相当の時間をロスしたことになったことだろう。
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それから三つ目としては、2021年2月7日に放映されたNHK大河ドラマの最終回「本能寺の変」が参考になろう、少なくとも、その糸口を与えてくれるのではないか。
それから三つ目としては、2021年2月7日に放映されたNHK大河ドラマの最終回「本能寺の変」が参考になろう、少なくとも、その糸口を与えてくれるのではないか。
この説によると、信長が光秀に対して、毛利氏の庇護の下にあった足利義昭(あしかがよしあき)を亡き者にすることを命じ、さすがにそれはできぬと思い至った末の謀反なりクーデターであった、というもの。
こちらは、話としては興味深いものの、これといった真偽を裏付ける書き置きなりが見当たらないので、現状では、信憑性としてはかなり証拠が足らないのかもしれない。
(続く)
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こちらは、話としては興味深いものの、これといった真偽を裏付ける書き置きなりが見当たらないので、現状では、信憑性としてはかなり証拠が足らないのかもしれない。
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