◻️211の41『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山祐士)

2021-05-10 22:15:27 | Weblog
211の41『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山祐士)

 小山祐士(こやま ゆうし、1906~ 1982)は、劇作家・脚本家だ。 広島県福山市笠岡町生まれ。
 誠之館中学校に入る。1931年(昭和6年)には、慶應義塾大学法学部を卒業する。
 1932年(昭和7年)には、仲間とともに同人誌「戯作「を創刊する。1933年(昭和8年)には、戯曲「十二月」を発表する。そして、築地座で上演を行う。
 1934年(同9年)には、「瀬戸内海の子供ら」で劇作家としての地位を確立する。
 この作品は、チェーホフに学び、陰影の濃い台詞を福山地方の方言で描く手法で、先の戦争期、瀬戸内の鬱屈した青春を描く。
 1937年(昭和12年)には、文学座の創立に脚本家として参加する。1942年(昭和17年)にはNHK嘱託となり放送劇も書く。
  戦後は、1956年(昭和31年)に、「二人だけの舞踏会」を発表する。叙情的作風に、原爆や公害問題を織り込む作風で活動。原爆の傷跡を描く。他にも、大久野島の毒ガス製造問題を告発する
 1962年(昭和37年)には、「泰山木の木の下で」を発表する。  1965年(昭和40年)には、「日本の幽霊」を発表する。戦争や原爆の惨禍にみまわれた人々を描く。


(続く)

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◻️211の39『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進) 

2021-05-10 22:13:58 | Weblog
211の39『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進) 

 河野進(こうのすすむ、1904~1990)は、詩人にしてキリスト教の牧師でもある。
 和歌山県の生まれ。満州教育専門学校、神戸中央神学校で学ぶ。
 やがて、日本基督教団玉島教会において牧師となる。賀川豊彦より、長島と邑久郡(おくぐん、現在の瀬戸内市邑久)のハンセン病療養所での慰問を行う。身近に接した地元では、「玉島の良寛さま」という通称をもらっている。


 キリスト教でいうところの人類愛の精神に則り、世界にも目を向ける。インド救ライセンター設立に向けて、またマザー・テレサに協力する一環として「おにぎり運動」に取り組むみ、インドに献金を届けに赴いたという。

 日本キリスト教救ライ教会理事、それに社会福祉法人恵聖会(養護施設岡山県立玉島学園、保育施設富田保育園)理事長を務める。


 その詩には、独特の透明感が漂う、その中から幾つか紹介しておこう。

「花」
 「花は/自分の美しさに気がつかない/自分のよい香を知らない/どうして人や虫が/よろこぶかわからない/花は自然のままに咲くだけ/かおるだけ」

「ぞうきん」
 「こまった時に思い出され/用がすめば/すぐ忘れられる/ぞうきん
/台所のすみに小さくなり/むくいを知らず/朝も夜もよろこんで仕える/ぞうきんになりたい」

「使命」
 「まっ黒いぞうきんで/顔はふけない/まっ白いハンカチで/足はふけない/用途がちがうだけ/使命のとおとさに変わりがない/ハンカチよ/たかぶるな/ぞうきんよ/ひがむな」

 何かしら宗教観の感じられるものとしては、次に掲げるものが有名である。

 「不平の百日より感謝の一日を/ 憎しみの百日より愛の一日を/ 失望の百日より希望の一日を/ 悪口の百日よりほめる一日を/ 戦争の百日より平和の一日を/ 罪の百日より赦された一日を/ 悪魔の百日より天使の一日を 」

(続く)


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◻️211の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、中塚一碧楼)

2021-05-10 22:12:54 | Weblog
211の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、中塚一碧楼)

 中塚一碧楼(なかつかいっべきろう、1887~1947)は、自由俳句草草期の旗手の一人だ。

 玉島市羽口(現在の倉敷市玉島羽田)の生まれ。名は直三という。
 早稲田大学に入り、その在学中に俳句を志す。自由俳句の碧梧桐に師事して、心と技術というか、その道を学ぶ。
 それからは、だんだんに独自の俳句の道を切り開いていく。

 倉敷市玉島勇崎に、碧楼句碑公園があり、そこに中塚一碧楼の句碑と説明碑 が並んであるという。句碑によると、「病めば布団のそと冬海の青きを覚え」とあって、何やら人生航路の厳しい一面を冬の海の波しぶきになぞらえてのことだろうか。
 説明碑には、経歴を述べた後に、こうあるという。

 「(前略)その天賦の詩魂は新傾向の俳句を大成し俳句「海紅」の主催者をして全国に門人を擁す。(中略)天才詩人の光芒はここに餘光となって永遠に輝くことになった。郷土の有志相計りその絶句を刻んで一碧楼の名を止めんとす。」

 その俳句の独特なスタイルについては、人智の前の自然体というのが、ふさわしい。まずもって口語調の簡明な文体とあって、これに詠もうとする事象のエッセンスに対する認識を入れ込む。次に、それでいて定型俳句にこだわることがない。

 どうやら、その時々の人間の精神の形を、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせたのだと、大方には評価されているようだ。その中から、幾つか拾うと、こうある。
 「鏡に映ったわたしがそのまま来た菊見/掌がすべる白い火鉢よふるさとよ/胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり/秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る/単衣著の母とあらむ朝の窓なり/刈粟残らずをしまって倉の白い/赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け/畠ぎっしり陸稲みのり芋も大きな葉」

 と、少々難し気の表現も垣見られるようなのだが、多分に巧みに執着しないのが新鮮で、そのことが「新境地」と言われるなら、それに従いたい。

(続く)

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◻️192の4の10の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鎌田玄渓)

2021-05-10 22:11:38 | Weblog
192の4の10の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鎌田玄渓)

 鎌田玄渓(かまたげんけい、1818~1892)は、 備中松山藩士にして儒学・漢学者だ。
 下道郡新庄村(現在の総社市新本)の生まれ。医師鎌田由斎(毅)の長男。父は、医師にして漢学にも通じる学者であって、幼少より弟玄淑と二人に、厳しく教養を施したらしい。

 1838年(天保 9年)の20歳のときには、大坂に出て、藤沢東がいの塾に通って陽明学を学ぶ。次いでは、江戸に出て昌谷精渓(さかやせいけい)に朱子学を学ぶ。


 翌年には、学がひとまず峠を越えたのであろうか、帰郷して家業を継ぐも、医師を継ぐことはしなかったようだ。


 1843年(天保14年)には、家を弟に譲り、学問に生きようとしたようだ。かねてから、知己(いき)を得ていたのだろうか、柚木玉州(ゆのきぎょくしゅう)や(竹叟(ちくそう))らに招かれて玉島の団平町に私塾・有餘館(ゆうよかん)を開き、近辺の子弟を教える。


 この時、門弟のうちに川田甕江(かわだおうこう)や柚木玉邨もこの頃入門学ぶ。それというのも、玄渓は、甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めたという。かくてその甕江は、江戸では佐藤一斎らの下で学ぶ。学費を含んでの生活費は、蔵書を売ったり、家庭教師をするなどして捻出していたようだ。


 1853年(天保6年)には、備中松山藩が玉島に郷校として藩校有終館の分校を設置することになり、請われて教師となる。
 これには、事情かあってのようで、初めは近江大溝藩の藩儒として100石で登用することで誘われていたのが、備中松山藩の山田方谷との関係で50石待遇の同藩に就職を決めたという。


 1866年(慶応2年) には中小姓に昇り、藩校有終館の督学、藩主板倉勝静(かつきよ)の侍講(じこう)を務める。備中松山(現・高梁市)に移り住んだことで、玉島分校は廃校になる。


 明治時代にはいってからの1869年(明治2年)には、閑谷学校から話が来て、1年ばかり、そこの責任者となって、かつ教えていたという。

(続く)

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