◻️192の13『岡山の今昔』岡山人(19世紀、仁木永祐)

2020-01-21 21:11:54 | Weblog
192の13『岡山の今昔』岡山人(19世紀、仁木永祐)

 仁木永祐(にきえいすけ、1830~1902)は、医者にして、政治家。東北条郡下津川村(現在の津山市加茂町下津川村)の生まれ。その豊田家は、父の隆助の代で、医者にして蘭学にも通じる、この辺りでは、裕福で知られる。やがて、東南条郡籾山村(もみやまむら、現在の津山市籾保)の医師、仁木隆助の養子となる。
 1848年(嘉永元年)には、江戸に出る。そして、同じ美作出身の箕作阮甫(みつくりげんぽ)や宇田川興斎(うだがわこうさい)に入門し、約4年の間医学を学ぶ。また、1853年(嘉永6年)から約2年間は、大坂の後藤松陰漢学を学んだりで、なにかと忙しくしていたようだ。
 その後、郷里に帰り、医業を行う。1860年(万延元年)には、津山藩に医学研究場所の設立を要請していたのが認められ、籾山村に「籾山こう」の設立に漕ぎ着ける。1869年(明治2年)には、彼が会頭となる。
 また、その傍ら塾を開き近在の子弟の教育にあたる。学制の発布のあった翌年の1873年(明治6年)には、その籾山こうを閉じ、公立学校で教鞭をとる。そればかりか、1876年(明治9年)には区会議員、1880年(明治13年)には、県会議員に選出される。
 
 1876年(明治9年)には、北条県が岡山県に吸収合併される。その結果、旧北条県では民有扱いであった溜池が2502カ所も官有とされ、その利用には納税が必要とされる。いわゆる「地租改正」の影響だが、水利に乏しい美作地域の農民たちには死活問題だった。

 仁木ら地域の有力者は、元に戻すよう問題を訴えたが、鬼県令と呼ばれた高崎五六率いる岡山県に相手にさ れない。ならば内務省に訴えようと1881年(明治14年)に、彼を含む4人で東京へ出向く。

 それからも問答が続いた後の1894年(明治27年)9月には、千坂知事(1886年7月県令が知事に変わる)の名前にて、「その郡内用溜池の儀は、これまで調査の次第もこれ有り候処(そうろうところ)、すべて北条県査定の地種に据え置き候条、この旨溜池所在村長へ相達すべし。但し、従前の達指令等にして、本訓令に抵触するものはすべて取り消す」との訓令が、美作の各郡役所に向けて出される。

 ほかにも、吉井川改修工事や、津山中学校設立に当たっての経費問題で県と地元側の間に立って調整したり、頼まれたら断れない性格であったらしい。

 仁木はまた、政治家としても発展していく。明治になっては、仲間と語らってか、美作親睦会、そして自由党美作部に加わる。自由民権運動に参加する。1889(明治22年)、国会開設の直前に上京する。政党間の調整に尽力する。頭脳明晰にして理論肌でもあり、全国に交友も多い。政党間の調整にも当たる、そのことで「西の板垣退助」とも評される


(続く)

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◻️1の1の2『岡山の今昔』津山海など

2020-01-20 20:38:05 | Weblog

1の1の2『岡山の今昔』津山海など

 「津山海」というのをご存知だろうか。関東においては、近年、「秩父海」などへの少年少女の興味が湧いているという。さらに近いところでは、2020年1月、国際地質科学連合が、約77万4千万年前~約12万9千年前の地層を、「チバタリアン(千葉時代)」と呼ぶことに決める。これらを眺めていると、ほぼ同じ時期での、この辺りの地形や海との関係にも思いが向かう。
 とっかかりとして、そもそも、「中国地方」を含む「西南日本」というのは、地質年代でいう白亜紀(今から約1億4500万年前~6600万年前)以降に起こった、「時計回りに~50度の回転運動」を経験する。いうなれば、「日本海拡大とそれに伴う日本列島の南下」を説明する際には、必ず語られる地質現象に他ならない。
 それからの中国地方については、例えば、こう概観される。

 「中国地方では、古第三期の長期間にわたり、陸上で侵食を受け、ゆるい起伏をもつ地形が形成された。新第三期中新世に入り、17~15Maに大規模な海進が起こり、中国地方一帯が海底に沈んだ。津山市付近は、海進以前から淡水域が広がっており、大きな湖のようになっていたとされ、北から海水が流れ込み、後に全域が海底に沈んだようである。(Taguchi,2002)
 この海進によって、中国地方一帯では、さらに平坦化が進んだと推測でき、海底には中新統備北層群が堆積した。津山市付近は、淡水域であったことから、備北層群堆積以前に、すでに周囲より高さの低い地形が形成されていたと考えられる。」(村中沙江、於保幸正「津山市南方に分布する侵食小起伏面」インターネット配信より引用)

(中略)

 ちなみに、津山市二宮の吉井川の川底でヒゲクジラの化石が、また同市の田邑(たのむら)でパレオパラドキシア(カバのような動物)の化石が、それぞれ発見される。さらに、同市の東部の勝北(しょうぼく)や、その東隣の勝田郡奈義町辺りでは、様々な貝の化石を見ることができ、特に、奈義ピカリアミュージアムに行けば、それらの古代に生きた貝の化石発掘現場の再現や、それぞれの標本が一堂に会し陳列されおり、古代の海を追体験できるのかもしれない。
 想像力をたくましくするならば、その頃の津山海やそのまわりの陸地においては、温暖にして湿潤な気候を好んで哺乳類や他の生物たちが住み、海岸にはマングローブなどが生えていた、そのことだけを見るならば、さながら、「地上の楽園」を形成していたのではなかろうか。


(続く)

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○41の2『自然と人間の歴史・日本篇』漢委奴国王印(57)など

2020-01-20 18:52:12 | Weblog

41の2『自然と人間の歴史・日本篇』漢委奴国王印(57)など

 范曄(はんよう、398~445) は、中国、南朝時代の宋の学者。今日にいう歴史学ばかりでなく、文学など広範囲に精通していたらしい。
その彼が著した『後漢書』は、本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の計百二十巻から成るという。これに含まれる東夷伝の項目中に、夫餘・挹婁・高句麗・東沃沮・濊・三韓と並んで、倭伝がある。
 その内容だが、全体として律儀なる体裁ではないか。まず倭の所在地や、後漢(現代中国では「東漢(ドンハン)」と呼ばれる、25~220)との関係についての説明、次いで倭の国情や風習、後漢への訪朝の記録。さらに、邪馬台国と女王卑弥呼について触れた後、江南の海上に点在するという島々の話が続くというのだが。
 それから、かの国からの、二度に渡る訪朝の記録が載る。それには、こうある。 「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」

 その書き下し文は、次の通り。

 「建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極めて南界なり、光武賜うに印綬を以てす。」

 もう一つ、引用しよう。
 「安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見」

 こちらの書き下し文は、次の通り。

 「安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」

 さて、前者での、倭国が後漢へ訪朝したという記録は、建武中元2年(西暦57年)に倭奴国が世祖光武帝を朝賀して金印を下賜されたというのを、確認できよう。その史実としての信憑性は高いと考えられている。

 残念ながら、その後の倭ないし日本側の記録に、これに対応する史実は現代に至るまで見当たらない。ついては、かかる中国側の記録は、いうなれば、倭人の国が初めて歴史上に現れた事例だといえよう。

  ところが、である。時は1784年(天明4年)、博多湾にある志賀島の叶崎で、灌漑用水路の清掃中に、溝の中に、なんとも不思議な印鑑のようなものを発見する。

 これを掘りだしたのは、秀治と喜平の二人の農民だと聞く。両人とも、志賀島の農地を耕す農民にして、この印が発見された田んぼの小作を行う小作人であるとのこと。田んぼの柔らかい土の中に発見された時のそれは、磨かずとも金色に光っていたのか、少なくとも金と見まがう程の輝きと重みがあったのかどうか。なんでも、その回りは三つの縦長の小石で囲ってあり、更にその上に大きな石を置いて、蓋をした形になっていたと伝わる。

 そこで、二人は、これは貴重なものではないだろうかと思い、また、損得に惑わされないだけの誠実な心の持ち主であったのだろう、持ち帰って地主の甚兵衛に、「これは何か、どうしたらよいか」を相談する。すると、ちょうど彼の兄が米屋で働いていて「米屋の旦那は学があるから何か分かるかも」とそこにこの印を持ち込んだらしい。その米屋の主人が、亀井南冥と親交があったため亀井が鑑定することとなる。

 その彼が見れば、現代の測定により印高0.887センチメートル、四辺の平均2.347.センチメートル、重さは108.729グラムと、小さくにして重い。蛇を象った摘みのある、正しく金印である。その摘(つ)まみには、蛇の鱗(うろこ)までが描いてあるから、驚きだ。
 さて、この印には、陰刻で「漢委奴国王」と記されてあるではないか。謹厳実直な学者肌の亀井は、その著作「金印弁」の中で、「或は問て曰、右の金印全体は鋳物とは見えされと、綬を通す穴を得と見れは、決定鋳物なりいふかし、答て曰、某も初て見しとき、甚不審に存したるか、細工に巧者なるものに問しに黄金のみは不思議の宝にて、鋳物を彫刻すること自由なり」と鑑定している。

 なお、この印は現在、新潟県十日町市博物館にて所蔵、純度は97%(ほぼ23金に相当というから、大方、古代としては最高級のものと推定される。

 それから、後漢時代に王侯が用いた一寸四方のものであることも、彼の脳裏をよぎったのだろうか。それからは、印文の読み方について議論が闘わされる。「漢のイト(伊都)国王」と読むのが主流を占めるものの、1892年(明治22年)には、三宅米吉が「漢のワ(倭)のナコク(奴国)王」と読み、今日ではこの読み方が定説化し、国宝指定もその文脈でなされている。
 また、世にも珍しい蛇鈕(じゃちゅう、へびつまみ)の由来については、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、これを理由に「前例がない」、「意味不明」としていた
偽物説が覆る。

 ともあれ、その鑑定で古代超一級の史料であることがわかったことにされている、この印が日本列島に持ち帰られてよりはや1700年余り。一切合切なんとも数奇な、かつ興味をそそられる話に違いない。

 それからもう一つ、以上の話に先行する発表の中から、一つ紹介しよう。それというのも、1954年(昭和29年)には、中国からのものであるとおぼしき刀子(小刀、ナイフの類い)が発見される。見ると、長さ26センチメートルの青銅で作られている。採掘地域は山形県飽海(あくみ)遊佐町(ゆさまち)の三崎山遺跡であり、発掘で土砂の掘り返しを行っている時であるという。

 しかして、今日まで、その由来や評価が定まっている訳ではないものの、国立文化財研究所でこの刀を組成を分析してもらったところ、中国の商(しょう)の時代の都から出土した青銅器と比較し、材質が同一であると発表する。これをもって、「中国からもたらされたのではないか」(近藤二郎「中国の天文学の日本への影響と日本の暦」、「天文ガイド」2013年5月号に所収)という話にも発展する。

 これだと、「中国の商(殷(いん))時代は、日本の縄文時代にあたっており、弥生時代よりも前に中国との交流があった可能性があります」という。とはいえ、「その確実性やどのような経路で日本列島に伝わったものなのかを明確にする資料ではありません」(同)との評価がなされているところだ。

 

(続く)

 

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♦️94の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの対パルティア戦争

2020-01-20 10:28:36 | Weblog
94の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの対パルティア戦争

 パルティア王国は、紀元前247年頃、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興る。遊牧国家である。その初代王アルサケス1世(Arsaces)は、セレウコス朝をシリアへと領土を広げる。
 5代目のミトラダテス1世(紀元前171~同138)の時代、パルティアは、東方ではバクトリアを平定してインドをうかがう。また、西方ではセレウコス朝・ペルシアの中心であるバビロニアにまで領土を拡大する。首都はバグダッド南東のクテシフォン。
 セレウコス朝ペルシアが滅亡してからは、パルティアとローマとは国境を接する。紀元前最後の世紀には、パルティアは、イランとメソポタミアを跨がる領域を支配する。それからは、ローマは、パルティアと8次にわたる激しい戦いを繰り広げる、これらを「パルティア戦争」と呼ぶ。

 まず、紀元前53年の第1次パルティア戦争では、クラッスス率いるローマ軍をカルラエの戦い(現在のトルコのハラン)で破る。パルティアの騎兵が、ローマの歩兵の圧力を上回った。この戦争でクラッスス親子は戦死する。
 その後も、小規模な戦いが続く。初代皇帝アウグストゥスや、ネロの時代には、休戦協定が結ばれる。113年より、シリアやアルメニアを巡って、ローマのトラヤヌス帝はパルティアを攻め、その翌年には首都クテシフォンを落とす、これが「第5次パルティア戦争」と呼ばれる。それからは、パルティア勢力の盛り返しがあり、しばらくの間、この地にとどまり、撤退する。
 しかし、次のハドリアヌス帝は、莫大な予算がかかるアルメニアやメソポタミアを放棄し、パルティアとの和睦を進める。 
 さらに、マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスによる共同統治の時代には、ローマ軍は、再びクテシフォンを攻略する。
 その後のセプティミウス・セウェルス(在位193~211)の治世には、ローマ軍は、バルティア王国の派閥争いに乗じてメソポタミアを攻める。要衝のニシビスを陥落させ、ローマの属州オスロエネを創設する。
 その2年後、セウェルスは東方に戻り、クテシフォンを略奪する。217年には、カラカラ帝が侵攻してきたバルティア軍を撃退し、多額の賠償金を支払わせる。これが最後の第8次パルティア戦争である。ローマとの戦いで疲弊したパルティアでは、国内に反乱が多発する。そしての224年には、バルティアはササン朝ペルシアの侵攻により、ついに滅亡する。

(続く)

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♦️90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)

2020-01-20 09:11:12 | Weblog

90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)

 宿敵カルタゴを3度の戦役で下してからの古代ローマの外国制覇の夢には、果てしというものがなかった。破竹の勢いで侵略を行い、勝利すれば、多くの奴隷を得ることができた。

 参考までに、第一次ポエニ戦争(紀元前264~同241)でのローマは、地中海西部の雄カルタゴと初めての武力衝突でシチリアを獲得する。ここで「ポエニ」とは、ローマからみたフェニキア人の呼び名から名付けられた。第二次ポエニ戦争(紀元前218~同201)でも、ローマはチュニジアのザマの戦いで勝利する。そして迎えた第三次ポエニ戦争(紀元前149~同146)において、ローマはカルタゴを滅ぼす。

 その戦争奴隷達を取り込んで、ローマは古代奴隷制の最盛期を迎えていた。そんな中で、ローマの体制を揺るがす奴隷の反乱が起こってくる。
 シチリア地方での奴隷反乱は、紀元前135~同132年に1回目のものが勃発する。その時、7万人もの奴隷たちが、いわば「奴隷王国」をつくろうとした。一時は、ミントゥルナエ・シヌエッサなどイタリア諸都市にも迫る勢いだった。第二次の反乱は、紀元前135~同132年であったが、その少し前の紀元前104年にも、ヌケリアとカプアでも大規模な奴隷反乱が起きたが、いずれも鎮圧される。
 そして迎えた紀元前73年の春、歴史に一際名高い奴隷反乱が起こる。その主役は、なんと剣闘士奴隷であった。これのリーダー格を任じたのが、トラキア、すなわち、バルカン半島の南東部、現在のブルガリア、そこでは小王たちが乱立している、ギリシャ・ローマの都市の世界とは異質な、部族社会であった、そこの出身のスパルタクスであって、自由の身になろうと、200人くらいの仲間と一緒に脱走を試みる。
 記録によると、そのうち74人が脱出に成功し、足を伸ばしてヴェスヴィオス山に立てこもる。そこをめがけて、イタリア半島の各地から自由を求める奴隷が集まってくる。
 ローマは、これを潰そうと軍団を派遣するものの、撃退される。当時のローマ軍団の主力は、征服戦争なりで他国や国境に出掛けていて、手薄であったため、その虚をつかれた格好であった。

 そもそも、「当面の時代については、序章でも述べたように、スペインの奥地といい、小アジアの奥地といい、バルカン半島北部といい、都市化の進んでいない多様な世界でローマ権力に対する反抗がもりあがったのが、ローマの直面した危機の一つの特徴だった。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)

 それからの奴隷反戦軍は、一説には7000人ともいわれるまでに力を増しながら、ノラ、ヌケリア、トゥリイ、メタボンドを占領した。6月のこのあたりは収穫の時期であって、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人にも増える。それでも、彼らは自力で必需品の多くを、周囲の村落から略奪しなければならなかった。
 その最盛期には、6万人もの兵力に達したという。ルカリアを中心に勢力を維持しつつ、キリキアの海賊と連絡をとったりしていたが、やがてイタリア半島を南下していく。
 そこへようやく態勢を整えたクラッスス(貴族)率いるローマ正規軍が迫ってくる。それからの間を「めくるめくストーリイ展開」というのは、あながち間違ってはいまい。両軍は、ついに相まえ、決戦の時を迎えるのであった。
 だがしかし、奴隷軍は何故かゲリラ線に徹することをしなかった。正面から立ち会っては、奴隷軍にもはや勝ち目はなかった。奴隷軍は総崩れとなり、乱戦の中スパルタクスは戦死を遂げる。捕虜となった6000人余は、後にアッピア街道沿いにはり付けられて息絶えたという、かくも凄絶(せいぜつ)な結末であった。

(続く)

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♦️140の2『自然と人間の歴史・世界篇』中世における貨幣とその役割

2020-01-19 21:08:51 | Weblog

♦️140の2『自然と人間の歴史・世界篇』中世における貨幣とその役割

 ところが、それからの歩みも、決して平坦なものではなかったらしい。例えば、11世紀頃のヨーロッパで、貨幣の流通がうくいっていなかったことがある。
 「これまで述べてきたところから、私どもは前記封建社会の交通、交換がすこぶる不規則で間歇的(かんけつてき)だったこと、スペインのサラセン人からえた金貨が、ヨーロッパの地金とともに東方に流出して、ヨーロッパの慢性的な赤字経済の原因になっていたことを知った。
 このような事情からして当時のヨーロッパには、純然たる自然経済ではないにしても、慢性的な貨幣飢饉の状態があったといってよい。したがって当時の貨幣制度なるものもはなはだ貧弱で、サラセン人の地中海制覇以来は粗悪な銀貨しか通用しなくなっていた。
 通貨の種類としてはリーヴル(ソリズス、シリング)、スウ、ドニエ(ペニー、デナリウス)の三種が一般に用いられたが、実際に通用していたのは主にドニエ貨だけで、スウやリーヴルはドニエの倍数(10倍と100倍)として、価格算定の単位でしかない場合が多かった。
 貧弱な通貨制度をいっそう貧弱にしたのは正確な度量衡の制度も器具もなかったことで、幾百という鋳貨権所有者が重量、形状、、品位いずれも不統一な貨幣をつくりだし、その結果「悪貨が良貨を駆逐する」現象をたえずひき起こしたのであった。そのため貨幣の価値はさらに低下していった。」(堀米庸三「世界の歴史3・中世ヨーロッパ」中公文庫、1974)

(続く)

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♦️79の3『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の交易と輸送

2020-01-19 19:59:52 | Weblog

79の3『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の交易と輸送

 帝政に入ってからのローマの支配領域は、西ヨーロッパの南半分と、エジプトを含む地中海沿岸、ギリシャやマケドニア、ターダネルス海峡の東にも及んでいく。これに伴い、交易と輸送がますます広範囲に渡っていく。

 まずは陸路でいうと、最も重要な穀物は、シチリア、エジプト、サルディニア、アフリカ(現在のチュニジア)などから、船を使って運ばれる。

 二つ目のブドウ酒とオリーブ油については、イタリア半島内の他、ガリア(ガッリア)からも調達する。こちらの運び方としてはま最初に「アンフォラ」と呼ばれる大きな陶器の壺(つぼ)に入れる。その回りを麦わらで囲って荷物が動かないようにしてからローマの船に積み込む。

 それ以外にも、色んな生産物が流通していたのではないか。それらの中で、贅沢品については、こんな指摘がある。

 「帝国の住民の大部分は、いつの時代もそうであるように、地元の生産物に頼って生活していた。ただし富裕層は例外で、彼らは異国の贅沢品に金をかけていた。そのなかに中国の絹やアラビアの香料、東南アジアの香辛料などがあった。

 これらの交易品は、いわゆるシルク・ロードを通って中央アジアを横断して、あるいはインド洋を渡り、ローマにやってきた。ローマの商人は代わりに金やガラス製品などの工芸品を輸出し、こうした品物は遠くマレーシアやヴェトナムでも発見されている。」(クリス・スカー著、吉村忠典監訳、矢羽野薫訳「ローマ帝国ー地図で読む世界史」河出書房新社、1995)


(続く)


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♦️79の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマと属州シチリア

2020-01-19 09:26:00 | Weblog

79の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマと属州シチリア

 シチリアは、地中海のイタリア半島の南、地図の上では直ぐ近く位置している。この地で栽培されるものに、硬質小麦があり、これでつくる小麦粉は日本ではセモリナ粉と呼ばれているとのこと。粘土質の肥沃な大地、冬も土が凍てつかない温暖な気候のおかげで、今でも小麦の一大産地だという。そして、「それは2000年前も大して変わらない風景なのだ」と称される。

 そんな晴れがましい感じも伝わるシチリアだが、この地は、かつて古代ローマの最初の「属州」として、同時に「ローマ平民の乳母」として、ローマ市平民の生活を支えていたという。
 それというのも、かの護民官グラックス兄弟が活躍した時代、紀元前123年からのローマ市に住むローマ成年公民に対しては、一人一ヶ月当たり5モディイ(1モディイ=約8.8リットルにて、43.7リットル)の穀物が安価に配給される。その後、一時廃止されるも、紀元前73年には復活され、対象者も拡大される。

 ちなみに、吉村忠典によれば、「前70年頃のローマ公民の数は、同年にローマ市で行われた国勢調査によれば、成年男子(17歳)だけで91万、しかし、これに海外で従軍中のローマ兵(約7万)や登録もれなどを併せて、実際には115万人ぐらいと想定されており、女子供を含めたローマ公民の総数は、その三倍ほど、したがって350万人ほどと考えられる。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)

 さて。 そのシチリア全島がローマの支配下に入ってからは、農業生産者は生産高の十分の一を無償でローマに差し出さねばならない。その適用範囲だが、シチリア内の「自由免税国」においては、恩恵のあるのは当該の国民が自分の土地を経営している場合であって、その国の土地を外国人が経営している場合には、この外国人は納税を免れることはできない。

 とはいえ、これは、「友邦」にたいしての課税等の序幕に過ぎない。それというのは、紀元前73年の立法と元老院決議により、穀物の強制買い上げを行う。そればかりか、「総督用穀物」として、この地を治めるローマの総督が自身とその軍隊などを現地に養う給料の意味合いで、現地住民から強制的に買い付けを行う。こちらは、場合によっては物納ではなく貨幣で払わされることもある。

 およそこういう仕組みにて、シチリアは、他の属州とともに、ローマに体よく搾取なり、収奪されるという、政治経済的な従属的な立場に立たされていた。

(続く)

 

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◻️192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

2020-01-19 08:23:42 | Weblog
192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

 竹内文(たけうちあや、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)の時習(じしゅう)小学校卒業後は、津山変則中学校にいく。その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」の言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。
 それからは、大阪府立中学校に入学し6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。
 1885年(明治18年)には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校に入学し、その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。
 ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。
 その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。
 翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。
 そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
 「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
 その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。


(続く)

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○497『自然と人間の歴史・日本篇』阪神淡路大震災(1995)

2020-01-15 22:41:59 | Weblog

○497『自然と人間の歴史・日本篇』阪神淡路大震災(1995)

 かえすがえすも、復興への道のりは険しい。2020年1月、「【1・17の記憶】25年前、この街で誰が亡くなった? 名前の刻まれない慰霊碑―傷跡の見えない街」というタイトルのネット配信のニュースに見いったのは、何故なのだろうか。

 その1月15日配信の神戸新聞電子版には、こうある。
 「25年。それだけの歳月が流れれば、街はどれだけ変貌するだろう。1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。傷痕が見えなくなった今、土地の記憶をたどる人たちがいる。神戸市東灘区本山中町4丁目。この街に昨年春、小さな慰霊碑が建てられた。
 「慰霊碑ができて、初めての1月17日を迎えます」
 大型の台風19号が過ぎ去った2019年10月13日。JR神戸線摂津本山駅の南、マンション集会室で開かれた「国道地蔵尊」奉賛会の総会で、会長の大町真由美さん(72)は話し始めた。
 戦前から国道2号の安全を見守ってきたお地蔵さん。その一角に19年4月21日、高さ50センチ余りの震災慰霊碑が建てられた。本山中町でも、「4丁目」だけの碑だ。
 東側の2丁目にある中野北公園には、震災翌年の1996年に碑ができた。だが、そこには1~3丁目で亡くなった75人の名前しか刻まれていない。
 4丁目には、自治会がないからだという人もいる。旧本山村の時代から違う地区だったからでは、と話す人もいる。確かな理由は分からない。」

 同じ紙面にて、特段、「東灘区は、神戸市内の区別で最多の1470人が亡くなった。だが、市には町・丁目ごとの犠牲者数の公式データがなく、名前も公表されていない」のところで、私の目は釘付けとなる。その理由につき、及ばずながらいうと、大震災の起こるかなり前に、私は神戸市東灘区の御影本町の、とある長屋の一室を借りて住んでいた。
 その前は、同区内にある神戸大学の学生寮にいたのだが、27歳にもなっていて、若い人達といるのが辛かったためもある。その頃、我が人生航路たるや、まるで定まらず、夜間部の学生そして非正規労働者として、このまま成すすべなく年をとっていくのではないかと、自分の将来を危ぶんでいた。


(続く)

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○367の2『自然と人間の歴史・日本篇』日韓基本条約(1965)

2020-01-15 21:33:14 | Weblog
367の2『自然と人間の歴史・日本篇』日韓基本条約(1965)

 顧みれば、日韓国交正常化へ向けた交渉は、朝鮮戦争中の1951年(昭和26年)から進められる。交渉の途中は、韓国による日本漁船の拿捕(だほ)事件が起こる。1953年(昭和28年)には、日本側から植民地支配の正当化とも受け取られる発言がある。
 1961年(昭和36年)には、クーデターによって軍人出身のパクチョンヒ(朴正熙)が大統領になる。すると、強力なリーダーシップを発揮し、交渉が活発化する。一方で「屈辱外交反対」などと掲げた労働者、学生らによる大規模な集会やデモが相次ぐ。当時は、冷戦のさなかで、アメリカは、資本主義陣営の日韓を結びつけようと、両方に圧力をかける。両国民が注視する中、都合7回の交渉を行う。
 そして迎えた1965年(昭和40年)6月22日、双方の間で日韓基本条約が調印される。この年の12月18日に批准書を交換する。これにより、この二つの国は国交を正常化する。
 これにつけても、基本条約の中では、すぐる日韓併合条約調印の1910年8月22日以前に結ばれた条約・協定については、こうある。

 「第二条「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」

 ちなみに、日本側のこの第2条への解釈は「もはや無効」とし、それまでの日本による朝鮮に対しての植民地支配を正当化したい。一方、韓国側のそれは、「すでに無効」として日本側とは食い違う。
 あわせて、「朝鮮において韓国が唯一の合法的な政府」と確認し合う。経済協力や漁業、在日韓国人の法的地位に関する協定も結ばれる。それらの中では、あわせて結んだ請求権・経済協力協定などで、日本は韓国に「3億ドルの無償供与」を約束したことになっている。

(続く)

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◻️1の2の2『岡山の今昔』人類の到来と吉備

2020-01-14 23:10:00 | Weblog

1の2の2『岡山の今昔』人類の到来と吉備

 では、このあたりに類人猿や人類の足跡が、何らかの形で認められているのだろうか。その答えは、よくわかっていない。そのことを覗わせるものに、倉敷周辺の小高いところ、つまり海面下でなかったところに散らばる遺跡があるという。ちなみに、日本全体での類人猿、ホモ・サピエンスのあり方については、こうある。

 「ホモ・エレクトゥス類とネアンデルタール人は、ゴリラ並みの筋力を持ち、毛皮に覆われた直立二足歩行をする王獣の類人猿で、三キログラムのハンドアックスを軽々と扱うのだから、そのような王獣に出会う可能性のある地域は敬して通り過ぎるのが、華奢なホモ・サピエンスとしては安全であり、礼儀というものだったろう。」(島泰三「ヒト、異端のサルの1億年」中公新書、2016)
 それでは、私たちの直接の祖先、ホモ・サピエンスに限り、かれらが暮らした痕跡が明らかに認められるのかといえば、それは旧石器時代までさかのぼるのだという。

 参考までに、国立博物館人類史研究グループ(2016)の見解によると、こうなっているという。

 約20万年前にアフリカで誕生した現生人類、その一派が日本に渡ったのは、約3万8000年前とされている。同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長によると、彼らがこの列島にやってきたルートは三つが考えられるという。朝鮮半島から対馬を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」だという。(詳しくは、海部陽介「日本人はどこから来たのか?」文春文庫、2019など)

 あわせて、当時の海岸線が推定されているところでは、北海道はサハリン島を介して、ユーラシア大陸側のロシアのアムール川河口域と陸続きになっていたという(例えば、新村芳人「縄文人はどこから来た?」、「現代化学」2019年10月号に、想像図が掲載されている)


 話を戻して、この辺りでは、児島の鷲羽山遺跡などの遺跡が、それであるという。この辺りには、当時の人々が使っていた石器が数多くみつかっている。同じく、鷲羽山への登山道にしられてある案内石版には、「鷲羽山には、数万年の昔から人類が住みついていました。彼等は香川の五色台付近に産出するサヌカイトをいう岩石を加工してつくった石器をつかい、魚や野獣を捕らえて生活していました」とある。 
 とはいえ、現代の考古学からは、こうも言われる。

 「日本列島最初のホモ・サピエンスは、古い石刃技術や台形石器文化のCグループ(3万年以前~2万5000年前)と茂呂系・杉久保系文化(3万~1万5000年前)だったが、彼らの生活は現代人が考えるようなものとはまったく異なっていたようで、その石器文化に発展はなく、その移動も列島を縦断するほどだったようである。」(同)

(続く)

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◻️19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

2020-01-14 21:26:51 | Weblog

19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

 ここに「万葉集」というのは、日本で最初の歌集であり、4500首余りを収録している。原文は、ほぼ漢文で書かれている。もう少しいうと、音を漢字で表した万葉仮名(まんようがな)、漢字の音・訓読み、それに仏教からくる悉曇(しったん)文字までいりまじっている。それだから、当時から読み通すのが難しく、平安時代の初めにはほとんど読む人がいなくなっていたという。

 そこで、村上天皇が当時の歌人5人に読み解きを命じ、それからの識者の努力で、だんだんに多くが読み残され、次代へ引き継がれていく。
 それらの歌の中には、王候貴族や有名歌人ばかりでなく、「名もなき人」の作をも含む。それらのうち吉備にまつわる歌も幾つかあるので、少し紹介しよう。
 その一として、「大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば筑紫の児島 思ほえむかも」(巻6-967、大伴旅人(おおとものたびと))。
 これの現代語訳の例としては、「都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんのことを思い出してたまらない気持になるだろう」
 果たして当時の吉備の児島は、現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島の姿としてあったのではなくて、「吉備の穴海」の中に浮かぶ独立した大きな島であった。このあたりでの海流は、かなり早く、潮待ちの港として栄えたところだ。
 それから、ここでの作者の旅人なのだが、大伴氏は名門貴族の家柄であっても、橘氏と藤原氏の抗争に巻き込まれていたという。どちらかというと、策謀家の鎌足以来、今も伸長著しい藤原氏に、覚えが芳しくなかったのではないだろうか。息子の家持(やかもち)の代になると、一族の命運をどう保つべきかの岐路に立たされた、と伝わる。そこで、朝廷の命令を受けての、「万葉集」の編集に加わることで、危難から距離を保とうとするのであったらしい。

 その二として、笠金村(かさのかなむら)の歌には、「波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠(きもがく)り あないきづかし 相別れなば」(巻8・1454)
 これの現代語訳例は、「波の上のところに、浮かんで見えているところの児島が雲に隠れている。それとは異なることながら、ああとため息が出てくることだ。私たち二人は、はなればなれになってしまったのだなあ。」
 唐に赴く使者に、はなむけとして贈った長歌の反歌して、春にうたわれたことから、「春の相聞歌(そうもんか)」に分類分けされている。作者は京都にいながらにして、一旦海に出たら、船の進行につれて、たちまちに雲があわられ、児島を隠してしまう、そんな情景を思い描いてのことなのだろうか、その後に本文が登場してくるみたいだ。
   
(続く)

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◻️1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期、15万年前~1万年前)

2020-01-13 21:49:41 | Weblog

1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期、15万年前~1万年前)

 地球上の氷河時代(氷河期)は、氷期(極に氷が存在することで、こう呼ばれる)と間氷期とに分かれる。両者は、近くでは10万年単位で入れ替わってきている。現在から数えて一番近い氷期(最終間氷期)は、「エーム間氷期」と呼ばれる。13万年前頃~11万5000千年前頃のことであった。

 北グリーンランドでの土壌調査によると、最終間氷期が始まったばかりの12万6000年前頃が最も温暖で、気温が現在よりも平均で約8℃±4℃高かったことが分かっている。

 そして、今から約7万年前の地球上は、最後の氷期(最終氷期=ヴュルム氷期)を迎える。その後、少し寒さが緩む時期があったものの、今から 約2万3000 年前には、日本列島でも年平均気温が今より約7度(摂氏)低くなったというのが、大方の見方のようだ。

 そのため、植生に大いなる変化が見られる。特に、関東から西に広く見られる照葉樹林は、本州南岸のごく狭い地域と沖縄に分布を狭めていく。 

 その後の今から2万1000年前の「ウルム期」においては、地球の北半球は、現代から最も近い氷期(一番最近のものなので、「最終氷期」と呼ぶ)のピーク(最盛期)にあった。
 この時期には、数十万立方キロメートルとも推測される大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったためだと推測される。地球上の海水量が減少した結果、海面変化が著しいところでは約120メートルも低下したところもあり(例えば、霞ヶ浦)、その影響で海岸線は現在よりも相当分沖合に移動していた。
 この海水準がもっとも低下した時代、アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成された。南半球の東南アジアにおいては、現在の浅い海が低い陸地になっていた。そして日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。また、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていたことがわかっている。
 それからであるが、この最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から、今から1万2800年頃から1万1500年前頃にかけて、北半球の高緯度地方のイングランドなどを中心に寒冷化の揺り戻しが起こった。これを「ヤンガードリアス期」と呼ぶ。その影響は、軽微ながら日本列島にも及んだと考えられている。

 それでは、このような時の流れの中での日本列島、その中の瀬戸内海は、どのようであったのだろうか。例えば、瀬戸内海に南に鋭く出っ張っている鷲羽山、その登山道に設けられている案内板の一つ「瀬戸内海のおいたち」には、「瀬戸内海は、一つの大きな地溝帯で、全体が大きなブロックに分かれています。そして、ブロック別にうきあがったり沈んだりしてその凹凸に海が入りこみ、いわゆる多島海になったり、ぜんぜん島のない灘になったりしています」と記してある。
 これに関連しては、より広く地質や水流の状況を勘案しての、さらに詳しい説明がなされている。推測するに、当時は、氷河期(現在に一番近いというという意味で「最終氷河期」という)の末期にあたり,世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり、瀬戸内一帯はかなりの広さが陸化していたのではないたろうか、そのところどころは広大な草原であって象などがその上を歩いていたのではないか、と考えられている。

 そこで、これらのおおよそが真実であったなら、当時は対岸の四国まで海を隔てて指呼の距離というどころか、浅瀬を歩いてわたれるほどであったのかもしれない。
 今の倉敷あたりは、つまるところ起伏と変化に富んだ、海岸沿いの陸地であった。この時代は、沼あり、川あり、小高い台地ありで、海生や陸生の生き物が住み着いていた。それだからして、古代の類人猿やホモ・サピエンスは、そうした台地や洞窟に住居を構え、あるいは自然の要害などに住み着いたりして、主にそれらを狩って食料としていたことが考えられるのである。
 それと前後しての日本列島の気候だが、現在では、世界の気候が一様ではなく、地域によって異なると考えられており、報道には、例えばこういう。

 「将来の気候変動を予測するため、過去の気候変動を手本にしようとする研究分野がある。その名は古気候学。湖底の泥や樹木の年輪、極地の氷などから採取した物質を分析すると、我々が知る現代の地球とは違う姿が見えてくる。
 海洋研究開発機構と立命館大学は3月、約1万2000年前の最後の氷河期の終わり頃に、欧州が温暖化してアジアが寒冷化したことを突き止めたと発表した。」(2017年4月23日付け日本経済新聞電子版)

  そして迎えた、今から約1万年前からは、この列島の気候は、温暖化に向かう。縄文時代になると、再び地球温暖化が進み出していく。少なくとも、今から6000年前位からは、温暖化による海水面の上昇がみられるようになっていく。日本列島周辺では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)と呼び慣わしている、その最盛期には,日本列島の津々浦々、海外線の至るところで、現在の平野部の奥深くまで海水が入り込んだ。

 現在の瀬戸内海周辺も、その例外ではなかった。倉敷市の市域の北半を中心とする付近には、瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており、その南の先の海の中に「児島」という島が浮かんでいた。当時の瀬戸内海は豊かな海で阿つたことだろう。内海にして魚貝類の繁殖する海域であり、かつ温かかったことから、人々が住みやすい環境であったであろうことは想像に難くない。これらの相乗効果で、瀬戸内海の沿岸は西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となっていたのではないかと推測される。 

(続く)

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◻️125の5『岡山の今昔』岡山市(戦後の商店街)

2020-01-13 10:08:50 | Weblog
125の5『岡山の今昔』岡山市(戦後の商店街)

 戦後直ぐの駅前地区には、旅館や食堂が数多く立地していたが、「商店街」と呼べるほどの小売店の集積はなかったという。
そこへ、ヤミ市の開設により、商業地区としての新たな第一歩を踏み出す。
 奉還町においても、岡山駅に近いことなどから、ヤミ市が開かれ、徐々に商店街が立ち直っていく。
 一方、表町においても、1945年(昭和20年)10月10日、天満屋が営業を再開し、息を吐く。その3日後には「岡山市中央商店街復興委員会」が結成される。街を挙げての活気づけが続く。
 そうして復興が軌道に乗ると、各商店街は、施設の更新に乗り出す。アーケードの整備も始まる。おりしも、高度成長の波に乗り、1949年(昭和24年)12月になると、天満屋バスステーションが完成する。これで買い物客が右往左往することもなくなる。表町地区は、ぐんと便利に、岡山の商業の中心地に返り咲く。
 引き続いての1957年(昭和32年)3月の上之町を最後に、表八ヵ町全体のアーケードが完成し、この辺りにはなおさら近代店舗ができていく。同じ年、県庁が下伊福から現在地に移転し、「下之町周辺の中心性はますます高まる」のであった。
 ところが、1970年代にいたると、岡山市の市街の外縁部に発展の動きが出てくる。その前の新幹線の開通により、駅周辺はますますの活気を呈していく。
 そして、狭苦しくなりととあった中心から、広い地域に大店舗が並んでいく時代、モータリゼーションがこの動きを導く。(中略)

 21世紀になると、この辺りの商店街の命運をかけての取り組みが見られる。その中から、幾つか紹介しよう。
 「岡山市北区の表町商店街。江戸時代から商業・文化の中心地として栄えてきたこの場所に、人々の交流拠点となる店舗が次々とオープンしている。市の文化芸術施設の新設計画も進んでおり、さらなる活性化へ商店主らの期待も高まっている。
 岡山市北区表町1~3丁目にかけて続く表町商店街は、紙屋町、下之町、栄町、千日前など八つの商店街からなる。7月末、紙屋町商店街に西洋風のレトロな雰囲気の多目的イベントホールがオープンした。
 「Cultural Maison KOTYAE」(カルチュラルメゾン コチャエ)。高級衣料品店を改装したホールは、音楽や婚活イベント会場として貸し出され、普段はカフェやバーとして営業する。」(2017年9月12日付け朝日新聞)



(続く)

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