◻️107の4『岡山の今昔』西部(西部の干拓、幸島新田、江戸時代~現代)

2020-08-22 21:55:39 | Weblog
107の4『岡山の今昔』西部(西部の干拓、幸島新田、江戸時代~現代)


 まずは、次の嘆願書を紹介しよう、当地の農民たちが、岡山藩に差し出したものだ。当時の彼らの間柄は、支配される者と支配する者との関係に貫かれていた。

 「幸島新田(こうじましんでん)を作る用意の米として385石4斗(と)を元禄4年(1691年)、5年(1692年)借りうけましたが、毎年年末に夫役によって返せとのおおせ、ありがたきしだいです。

 元禄8年(1695年)までにすべて返し、このたび、かん定をすませたいものと、藩のかん定場へ帳面をさし出したところ、貸した米の利子をもらってないから、かん定をすますわけにはいかない、と言われました。

 夫役(ふえき)で払えということだから、利子はめん除されているとばかり思っていましたのに、かん定がさしつかえ、迷わくしています。

 我々弱百姓は、大部分の米は、ほかよりおさずかりしておりますので、利子の米を払えと言われては、とても困ります。
 夫役の内、37石5斗5升は、元禄8年より、百姓小数が、普請(ふしん)夫役をつとめることができないので、米で支払いたいと申し出たところ、3年で返せとのおおせ、いつまでもありがたく思います。

 どうか利子のことは、おじひをもっておゆるし願い、おかん定をすませていただければ、ありがたく思います。」(「幸島村史」)


 ここに幸島新田(こうじましんでん)というのは、今では吉井川の東側の田園地帯にある、そもそもはその川が瀬戸内海に到達しての、デルタの先に広がる浅海であったという。
 おりしも、江戸時代の初期の1684年(貞享元年)に完成し、その成果は562町歩であったという。
 そしてまた、この工事たるや、二代(池田光政、頼政)にわたる藩主による命令により、津田永忠が指揮をとり、新技術を駆使して、こしらえた。中でも、「大水尾(遊水地)と樋門とを結合し、潮の干満に合せて排水までを調節する」という、日本国中に鳴り響くような「快挙」ものだったという。


 しかしながら、そうしたことは、大方、支配、采配する側からの捉え方であって、物事のすべてではあるまい。そのあたりの事情なり、成り行きにつき、平島正司氏(教師)は、授業用教材の中で、こんな説明をされている。


 「新しく田を開き、生産を高めていった百姓達。収かくの秋の喜びの後に、その百姓達を待ち受けていたものは、11月(霜月)の厳しい年ぐのとりたてであった。
 岡山市の東部。吉井川の東に広がる幸島新田は、岡山藩によって作られ、百姓達は1反当り、銀30匁(もんめ)をはらうという事で買いとり、夫役(ふえき)によってしはらっていた。」 (平島正司「実践ノート、「六年生の歴史学習」」、岡山県歴史教育者協議会「岡山の歴史地理教育」第12号、1980.11に所収)




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♦️8『自然と人間の歴史・世界篇民』太陽系惑星(生物は存在するか)

2020-08-18 19:30:09 | Weblog
8『自然と人間の歴史・世界篇民』太陽系惑星(生物は存在するか)

 金星は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星である。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。地球から見ると、金星は明け方と夕方にのみ観測でき、太陽、月についで明るく見える。明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」と言い分けられるところだ。
 ここに天文単位(AU)というものさしがあって、より内側の水星が0.39、直ぐ外側の地球が1AU、そのまた外側の火星が1.52AUなのに対し、金星のそれは0.72AUとなっている。これらの配置加減は、「ケブラーの第3法則」に従う。また、この惑星は、「地球型惑星」とか「地球の姉妹惑星」と表現される。これは、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似ているためだ。金星の半径は地球の0.95倍、質量は0.82倍だと推定されており、まさに地球と同じ岩石惑星なのだ。
 それなのに、金星には地球のような生物環境は存在していないと言われている。その要因としては、やはり温度と水、それに生物が呼吸に必要とする酸素などであろうか。
 金星には非常に厚い大気があり、そのほとんどが二酸化炭素であるとのこと。そのため某かの二酸化炭素による温室効果がはたらくであろう。また、金星の表面の温度は昼も夜も摂氏460度と、太陽により近い水星よりも高いというから驚きだ。
 大気中には硫酸の粒でできた雲が広がっているともいわれる。その厚さは、何キロメートルもあるらしい。その雲にさえぎられて太陽からの光が直接地表に届くことはない。雲から硫酸の雨が降っても、地表があまりにも高温なため、地表に達する前に蒸発してしまうと考えられている。おまけに、金星の大気の上層では、秒速100メートルもの風が吹いている。
 この生命起源の観点からは、現在までの、太陽系の条件をあてはめた計算により、軌道半径0.6~0.8AUの間に、地球型惑星の初期進化の明暗を分ける境界があるのではないかと推計されている。ただし、「(現在の知識に不確定要素があり、位置は細かくしぼれていない。惑星のサイズはあまり影響しない)」(「地球と金星の明暗を分けたものとは?」:雑誌「ニュートン」2013年8月号)との注釈が付けられている。

 そういえば、太陽に近い方から、水星の自転は59日、公転は約88日、その直径は約0.5万キロメートルだ。次に来る金星の自転は約243日、公転は約225日、その直径は約1.2万キロメートル。この金星だけは、他の7つの惑星とは異なり、自転の向きは公転の向きと回転方向が逆である、なので、金星にいたとすると、厚い雲で視界が遮られるのを無視すると、太陽は西から昇り東に沈むのだろうか。また、なぜ、金星だけこのような向きで自転しているのかは、まだ明らかになっていないようだ。
 いずれにしても、たとえ地表に生物がいたとしても、大変厳しい生存環境であることは、間違いない。
 参考までに、その外側を回る地球の自転は約1日、公転は約365日、さらにその直径は約1.3万キロメートルだというから、金星とかなり似ているのではなかろうか。それから、火星については、 自転が約687日なのに対して、公転は約0.7日。その外側を回る木星の自転周期は、約10時間にしてかなり早く、12年をかけて太陽の周りを公転し、その直径は約14万キロメートルと地球の約10倍ある。さらに、その外側の土星に至っては、自転が約10時間なのは木星並みながら、公転はなんと約 29年、その直径は約12万キロメートルという。


(続く)

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♦️198『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(1637~1647)  

2020-08-16 20:46:41 | Weblog
198『世界の歴史と世界市民』イギリスの清教徒革命(1637~1647)

 イングランドの17世紀は、既に政治的隘路(あいろ)にさしかかっていた。この世紀の初め、子供のいなかったエリザベス1世が亡くなり、代わってスコットランド王のジェームス6世が王位につく。ヘンリー8世の血を引くジェームスがイギリスの王も兼任することになったのである。ちなみに、両者の連合で成り立つイギリス王は、ジェームス1世を名乗る。
 時は移っての1637年、チャールズ1世は、スコットランドにカトリック的な国教会祈祷書をつくって強制しようとしたものの、反発が強く実現できなかった。翌年のスコットランド教会会議は、ジェームズ1世に強制されて以来続いていた主教制の廃止を決議した。1638年、チャールズ1世は、軍を派遣してこの決議を無効ならしめようとした。これを「第一次主教戦争」という。鎮圧は失敗し、翌年スコットランド教会会議と和議を結ぶ。この後、同会議は再度の決議を行う。王は、再度の遠征費を調達するべく、11年の間沙汰やみとなっていた議会の力を借りなければならない。そう考え、1640年4月に議会を招集する。しかし、議会は王と鋭く対立する。扱いに窮した王は、たった3週間で議会を解散した。このため、「短期議会」と呼ばれる。
 1640年7月、国王はスコットランドへ遠征軍をおこした。けれども、スコットランド軍に逆襲され、10月には和約を結ぶ。その条件として、イングランドはスコットランドに、一日850ポンドずつ2か月間(つごう5万ポンド)にわたる賠償金を支払う。仕方なく、チャールズ1世は、賠償金支払いの算段のため、再度議会を招集する。10月に選挙をし、11月には議会が召集された。この議会は、後の1653年まで解散されることなく存続し、機能し続けたことから、「長期議会」と呼ばれる。
 1641年2月、国王の召集がなくても3年に1回は議会は開かれるべきと定めた三年議会法が成立する。5月、会の解散は議会自身の決定のみに基づくとする法が成立する。
1641年11月、オリバー・クロムウェルが長期議会に、国民に訴える内容の「大抗議書文」を提出する。国王、カトリック教徒、堕落したカトリック主教の不正や堕落を責めた。この文は、議会で賛成159、反対148の僅差で可決された。これ以後、長期議会は王党派と議会派に分裂していっく。また、アイルランドでカトリック教徒の反乱があり、数千人のイングランド人ピューリタンが殺害もしくは傷つけられた。議会は、これに国王の許可を得ることなく、鎮圧のための軍隊派遣を決めた。
 1642年3月、王党派はヨークシャーに移った国王を追ってイングランド北部に本拠を移す。かれらは、ロンドンに本拠をおく議会派と戦いを交える構えを見せる。どうすればこの戦いを避けられるかは、顧慮されなかったようだ。7月~8月には、国王チャールズ1世は、挙兵した王党軍を率いて議会に戦線布告し、内戦が勃発した。10月には、エッジヒルの戦いがあった。立ち後れた議会軍であるが、1643年9月、スコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」を約す。これに力を得た議会軍が、1644年7月のマーストン・ムーアの会戦に勝利する。議会軍の士気は、クロムウェルの発案で、従来の出身社会階層による差別を否定したことで高まったと考えられている。
 1645年6月のネーズビーの戦いで、議会軍の勝利は確定的となる。国王は変装してスコットランド軍に投降し、翌年6月には王党軍の主力も降伏した。これまでを「第一次内戦」という。1647年1月には、スコットランド軍より国王の身柄引渡しが行われる。
 ここで、当時の議会勢力の中身を覗いておきたい。この段階で、長老派と独立派が議会内に明確に現れるのは、1645年以後のことであった。そればかりではない、議会内ではレヴェラーズ(平等派もしくは水平派、Levellers)、議会外では軍の存在があった。1747年5月、軍はクロムウェルの指揮命令で、国王チャールズ1世を軍本部に連行した。長老派と結託して、国王が革命を阻止することを警戒したのだ。
 同時に、軍は「軍の主張」を発表し、その中で「軍は全国民のための共通で平等な権利・自由・安全の確立をめざす」(古賀秀男「西洋近代史像ー市民革命と産業革命」明玄書房、1969)とある。軍は、世の常で信じようと信じまいと独自の意思と主張を持っていたようである。ところが、独立派が支配権を握っていた議会の中で、1647年には下層の兵士の中でレヴェラーズ(平等派)が勢力を増しつつあった。そして、当時のレヴェラーズとこれに同調する軍の一部の主張としては、レヴェラーズが取りまとめた「人民協定」(The Agreement of the People)がある。それには、人民主権で、21歳以上の全自由人が選挙権を持つことでの普通選挙、それに十分の一税の廃止要求が含まれていた。

(続く)

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♦️925『自然と人間の歴史・世界篇』中国は、発展途上国から世界の強国へ (2018~2020)

2020-08-16 14:10:27 | Weblog
925『自然と人間の歴史・世界篇』中国は、発展途上国から世界の強国へ
(2018~2020)

 2019年10月の世界銀行総裁のデービッド・マルパスは、第27回の「貧困撲滅のための国際デー」である17日、「中国の市場化改革が数億人を貧困から脱却」と述べていた。
 同総裁はそのおり、世界銀行と国際通貨基金(IMF)の秋の年次総会開幕の記者会見であって、「中国は、世界から注目された改革措置を講じることで、世界経済により多く参加するようになっており、世界経済、グローバル・サプライチェンと緊密につながるようになっている。これは、中国の発展にとって有利であり、中国の貧困削減事業にとっても非常に重要である」と語っていたという。
 これを中国側からいうと、6回目の貧困扶助の日であり、1970年代半ばの改革開放政策の開始から約40年の間に7億人を貧困から脱却させたというから、人類史上に残る程の「快挙」と言えなくもない。
 そればかりか、これだけを見ると、中国はもはや発展途上国を脱皮し、先進国へと進みつつあるようにも受けとることができるのではないかと、そんな話があちこちで浮上してきているようにも見えてくるから、不思議だ。
 そんなおり、今度は、「中国対外融資が膨張、途上国へ強まる支配力、重債務68か国向け4年で倍」という見出しの記事、報道が世界を駆け巡る展開にて、こうした新たな動きを私たちはどのように理解したらよいのだろうか。

 そこで、かかる範囲での2018年末での融資額残高だが、1017億ドル、しかも、この4年間で1.9倍に急増とのこと。この額は、中国も加盟する世界銀行の同1037億ドルに迫る勢いだ。

 それではなぜ、中国からのかかる融資が膨張しているのかというと、あれこれの報道を見ると、おおよそとしては、融資対象の間口がより広く、また審査も簡単なことがあるらしい。だからして、金利が平均3%(20年の期中平均の債務残高をもとに日本経済新聞社が計算)と、世界銀行の1%やIMF(国際通貨基金)の0.6%などに比べかなり高くても、融資を受ける側の途上国としては借りやすいことになっているようだ。

 ついでにもう一つ、2017年の中国企業の対外直接投資額(フロー)を紹介しよう。これは、前年比19.3%減の1582億8800万ドルとなった。前年まで15年連続でその額を伸ばしていた。それが、2017年は中国が対外直接投資統計の公表(2003年)を始めて以降、初のマイナス成長となった。
 その内訳をみると、新規株式投資が42.9%、当期収益再投資が44%を占める。また、対外直接投資フローのうち、約2割の334億7000万ドル分が、クロスボーダー(Cross-border)取引、つまり国際間で行われるM&A(企業の合併・買収)によるもので、これだと経営権取得に突き進んでいる面もあろう。

 さらに、2018年の中国企業の対外直接投資額(フロー)についても、触れておこう。同じく中国の「対外直接投資統計公報」によると、こちらの収支は、前年比9.6%減の1430億37万ドルだったという。これは、統計公表を始めて以降、初のマイナス成長となった2017年に続いて、この年も減少したことになっている

 ご覧のように、2018年からの米中の貿易摩擦の激化前から、それまで一本調子で伸びていた対外直接投資が変調するに至っていることが読み取れよう。これには、政府による、直接投資には慎重を期すようにとの指導があるやに聞く。確かに、野放図に出ていけばよいというものではなく、双方の利益を第一目標に、将来的に持続可能な形で投資なり、経営がなさればなるまい。また、それに国内への投資機会がそれなりのレベルに達してきているのではないだろうか。



(続く)

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○258の6『自然と人間の歴史・日本篇』版籍奉還(1869)

2020-08-16 10:11:48 | Weblog
258の6『自然と人間の歴史・日本篇』版籍奉還(1869)


 顧みれば、東北での戦争終結の報が伝わると、新政府の参謀格にして長州藩の木戸孝允(きどたかよし)は、両手を挙げて喜ぶどころか、「もし版籍奉還が1月か2月に行われていれば、東北の戦乱はなく、惨害を被るものも少なかっただろうが、もはやその機を失してしまった」と嘆じたという。
 そして、不退転の決意で、宿願を果たそうとする。まずは、慎重派の岩倉具視らにその実現を催促し、それからは、志を同じくする大久保と連携して、事に当たる。
 その効果があったのか、旧暦の明治2年1月20日に、長州、薩摩、土佐、肥前各藩の4人の藩主(毛利、島津、山内及び鍋島)の連署による版籍奉還の建白が朝廷に提出される。
 その後、各藩もこれにならい、まず鳥取、佐土原、福井、熊本藩が、さらに大垣、松江、津、彦根藩もあとにつづく。同5月3日までには、262藩が同様の上表を提出する。

 かかる「版籍奉還の上表」 には、こうある。

 「臣某等、頓首再拝、謹みて案ずるに、朝廷1日も失ふ可らざるものは、大体(国体)なり。1日も仮す可らざるものは、大権なり。天祖肇(はじめ)て国を開き、基を建たまひしより、皇統一系、万世無窮、普天率土(ふてんそっと)、其の有に非ざるはなく、其の臣に非ざるはなし、是大体とす。 且与へ、且奪ひ、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私に攘(ぬす)むこと能はず、是れ大権とす。 在昔朝廷海内(かいだい)を統馭(とうぎょ)する一にこれにより、聖躬(せいきゅう)之を親らす。
 故に名実並び立ちて、天下無事なり。中葉以降、綱維(こうい)一たび弛び、権を弄し、柄を争ふ者、踵(きびす)を朝廷に接し、その民を私し、その土を攘(ぬす)むもの、天下に半し、遂に搏噬(はくぜい)攘奪の勢成り、朝廷守る所の体なく、とる所の権なくして、是れを制馭すること能はず。姦雄たがひに乗じ、弱の肉は強の食となり、その大なる者は十数州を併せ、その小なる者は猶士を養ふ数千。 所謂(いわゆる)幕府なる者の如きは、土地人民擅(ほしいまま)にその私する所に分ち、以てその勢権を扶植す。
 是においてか、朝廷徒(いたづら)に虚器を擁し、その視息を窺ひて、喜戚(きせき)をなすに至る。横流の極み、滔天(とうてん)回(めぐ)らざるもの、茲(ここ)に六百有余年。 然れどもその間往々天子の名爵を假りて、その土地人民を私するの跡を蔽う。これ固より君臣の大義上下の名分、万古不抜のもの有に由(よる)なり。
 方今大政新たに復し、万機これを親らす。実に千載の一機、その名あって、その実なかる可らず。その実を挙るは大義を明らかにし、名分を正すより先なるはなし。 さきに徳川氏の起る、古家旧族天下に半ばす。依って家を興すもの、また多し。
 而してその土地人民これを朝廷に受ると否とを問はず、因襲の久しきを以て今日に至る。世或いはおもへらく是祖先鋒鏑(ほうてき)の経始する所と。ああ何ぞ兵を擁して官庫に入り、その貨を奪ひ、是死を犯して獲所のものと云うに異ならんや。庫に入るものは、人その賊たるを知る。土地人民を攘奪するに至っては、天下これを怪しまず、甚だしきかな名義の紊壊(びんかい)すること。 今也丕新(ひしん)の治を求む。宜しく大体の在る所、大権の繋がる所、毫も假べからず。   

 抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土。臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安(いづく)んぞ私有すべけんや。今慎みてその版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは、朝廷その宜しきに処し、その与ふ可きは之を与へ、その奪ふ可きはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、さらに宜しく勅命を下し、これを改め定むべし。   

 而して制度・典型・軍旅の政より、戎服(じゅうふく)・器械の制に至るまで、悉(ことごと)く朝廷より出で、天下の事、大小となく皆一に帰せしむべし。然る後に名実相得、始て海外各国と並び立つべし。是れ朝廷今日の急務にして、また臣下の責なり。故に臣某等、不肖謭劣(せんれつ)を顧みず、敢て鄙衷(ひちゅう)を献ず。天日の明、幸に照臨を賜へ。 
 臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。 毛利宰相中将 島津少将 鍋島少将 山内少将」


 つまるところ、これの後半になっての処にある「抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土。臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安(いづく)んぞ私有すべけんや。今慎みてその版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは、朝廷その宜しきに処し、その与ふ可きは之を与へ、その奪ふ可きはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、さらに宜しく勅命を下し、これを改め定むべし」という下りが、「味噌」の部分なのだろう。


 それというのは、例えば、福井藩は郡県制度の採用も献言していたものの、ほとんどの藩はそれらとは別の思惑を抱いていたという。彼らは、いずれ版籍はあらためて与えられるものと信じていたようなのだ。 つまり、今ここで進んでみずからの支配の権利を差し出すのは形式的な事柄であって、その後、新政府から、これまでとほぼ変わらぬ実質にて沙汰があるのではないかと踏んでいたという。
 しかも、実は上表の文面にそう誤解されるような表現が入っていたとのこと、逆にいうと、それが「所領安堵の前提であるかのように説くほかなかった」とのちに木戸は述懐していると伝わる。
 それにしても、これにある仰々しい程のへりくだった文の羅列は、誰に対するものだろうか。この国の人民に対するものだろうか。しかして、新しい世の中(いわば政体)というのが、「自由」や「人権」とは表現しづらい、全く違う流れであることを、いみじくも表している。


(続く)


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○46の1の5『自然と人間の歴史・日本篇』解放令~四民平等の告諭

2020-08-14 21:58:57 | Weblog
46の1の5『自然と人間の歴史・日本篇』解放令~四民平等の告諭

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。



 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)

 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。

 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。
 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。


(続く)


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◻️200『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉岡三平)

2020-08-14 09:41:19 | Weblog
200『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉岡三平)


 吉岡 三平(よしおかさんぺい、1900~ 1984)は、早々の図書館で叩き上げから長らく働くかたわら、郷土史家も手掛ける。 


 当時家は傾いていたが、地元素封家の家に生まれる。1919年(大正8年)に関西中学校を卒業する。大学進学のため、上京。その後、一説には、「偽計を用いて」親に呼び戻されたというから、驚きだ。

 おりしも、1918年(大正7年)12月に、岡山市立図書館が開館式を迎える。1924年(大正13年)7月、岡山市役所文書課に就職し、同年9月末からは同図書館の書記となる。1929年には、司書に昇格する。

 1938年(昭和13年)10月末には、岡山図書館司書として同職場に復帰する。主に、エクステンション中心から、館内サービス中心へ業務を変更する仕事を任された模様だ。
 文筆にも元々嗜みがあったようで、執筆についても、「ひげだるまの家本為一」 (1938)を手掛けるあたり、後に花開く、根っからのアイデアマンの血脈であるのは、この時既に想像するに難くない。

 そして迎えた敗戦の年には、同図書館の館長に就任する。あの戦争敗北が近づくのを、当時の鋭敏な感覚の持ち主などには、なにかしら見えてきていたのではなかろうか。戦時中に、大きな出来事があった。
 これを改めて伝えるのは、戦後71年目の報道である。すなわち、毎日新聞(2016年6月29日付け地方版)によると、戦時中の疎開によって生き残った図書200冊が、29日、岡山市立中央図書館(北区二日市町)で展示される。


 これを企画したのは、岡山中央図書館であって、飯島章仁・学芸副専門監は「空襲の中、偶然残ったのではなく、人が受け継いで今に伝わったということを感じてほしい」(飯島章仁・学芸副専門監)と、その意義を強調したという。


 それというのは、同図書館の前身の岡山市立図書館、その当時の館長が吉岡三平であって、県内の図書館について記した「岡山の図書館」(日本文教出版)によると、敗戦の年の、地方都市でも空襲が激しくなったのを見て、図書館を守ろうと蔵書の疎開を計画する。北東に約3キロ離れた寺へ、6月の岡山空襲前に図書館からかなりの蔵書を運び出し、難を逃れることができたという。なんとも、言いがたい、静かに響く感動話ではないだろうか。

 それからは、時代のニーズに合わせることが至上命題てあったらしく、また文筆においても、例えば、「昨年晩夏「岡山の干拓」刊行の話があり、干拓の民族性探求・必要性を痛感しておったので、畏友吉岡三平氏に御無理をお願いし、快諾を得た」との、同共著者の進昌三の告白には、それなりの重みがあるのではないだろうか。

 それからの著作は、じつに広範な分野に及ぶ。ざっと、「新旧市町村名対照 一目で判る岡山県」(1955)、「岡山歳時記」(岡山文庫12)、1966、「吉備の女性』(岡山文庫 22) 日本文教出版、1969。『岡山の干拓」(進昌三との共著で岡山文庫58、1974)、「岡山事物起源」(岡山文庫60)、1974、「岡山人名事典」(監修、1978)など多数。
 その人生について、特段に触れられていないようなのだが、いかがであろうか。もし、まだ埋もれている事柄があるとすれば、岡山の郷土史の草分けとしての、吉岡自身の気持ちがどうであったかなども含め、某か明かされるようだと有難い。

(続く)

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◻️268の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大森久雄)  

2020-08-13 09:59:23 | Weblog
268の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大森久雄)  


 大森久雄(おおもりひさお、1940~2015)は、教育者、社会運動家にして「郷土史家」でもある。


 高校在学時には、既に日本歴史の研究に携わろうと考えていたという。そのきっかけを知りたい。かかる意味では、勉強できなければ人生は切り開けない、との思いであったのだろうか。
 1962年(昭和37年)に、愛媛大学を卒業する。おさめた課程は、文理学部の人文学科史学課程 とのことで、さぞかし充実した学生時代であったのではないか。  
 教員となっては、1963年(昭和38年)から1999年まで、岡山県立玉島高等学校で教鞭をとる。

 さりとて、大学教員や専門機関専門職と異なる身分に違いない。それだから、学問に振り向けることのできる時間を得るには、どう対処すればよいのか。いずれにしても、勉強、研究なりは、かなり制約されていたのではないだろうか。

 そんな中でも、渋染一揆を中心テーマに選び、当時の岡山藩の財政状況などもふまえ、厳密な研究を行い、とりわけ、その背景そして社会への影響の全体を明らかにしようと努めたのは、偉大だ。その現代的意義については、こう述べる。


 「渋染一揆の背景には「世直し」をねがう幕末の広範な民衆運動があった。渋染一揆はその一環として闘われた。渋染一揆は(えた)中下層百姓主張のもとに団結し、百姓と同じ扱いをせよとの平等要求をかかげ、上層判頭の指導のもとに村役人・目明しの妨害をこえて藩権力と対決する整然として強訴を成功させ、藩の差別法令を骨抜きにして勝利した。」(大森久雄「概説・渋染一揆」岡山問題研究所、1992)

 
 大森はまた、学問の域よりやや広い意味合いでの社会活動家としても、広く知られる。主には、1990年から2002年にかけて、岡山問題研究所の理事を務める。ほかにも、いつ頃からか、日中友好協会や人権研究センター、倉敷九条の会、岡山県歴史教育者協議会、倉敷の街並み保存など、その活動範囲は、大変広かったようだ。


 これらのうち倉敷の地元、伝統的な町並みが色濃く残る美観地区・本町通りの町屋に住み、そこからの歴代の人々の日常、やがては「備中倉敷学」までを考えてみたらしい。

 珍しいところでは、郷土の写真や、外国の本の翻訳なども手掛けたという。後者での、ナイトリーの「アラビアのロレンス」の翻訳(2002)にも、興味を惹かれる。
 自らの学問に向かっては、渋染一揆の地にある案内板に見える説明の不正確さを指摘するあたり、やや重苦しい雰囲気もありがちな印象ながら、こちらの方面では、かなり気さくな人柄が温かく感じられて、なんとも心地よい。


(続く)

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新◻️232の16『岡山の今昔』岡山人(20世紀、美土路昌一)

2020-08-12 09:37:06 | Weblog
232の16『岡山の今昔』岡山人(20世紀、美土路昌一)

 美土路昌一(みどろますいち、1886~1973)は、ジャーナリストを経て実業家になる。苫田郡一宮村(現在の津山市一宮)にて、中山神社の宮司を務める父の長男として生まれる。

 津山中学時代から文学に傾倒する。小説家になることを考えていたらしい。家は裕福というほどではなく、一時は大学進学を諦めようとしたものの、1905年(明治38年)に、早稲田大学文学部英文科に入学する。

 卒業すると、朝日新聞に入る。1934年(昭和9年)4月26日、朝日新聞の編集局に日本刀を抜いた右翼の暴漢が暴れこんできて、編集総務の鈴木文史郎が斬られて重傷を負う。犯人は「南無妙法蓮華経」を唱える日蓮宗系の右翼だったという。美土路は、4月に編集局長になっていたものの、出張していたらしい。

 1936年(昭和11年)5月には、常務取締役になり、軍制下での社の生き残りを目してか、同じ岡山県出身の宇垣一成(陸軍大将)の「側近」とも。政治力というか、そうしたことでの人脈づくりに、長けていたのではないか。

 戦後になっての1952年(昭和27年)には、日本ヘリコプター輸送株式会社の設立にあたって社長になる。純粋な民間会社を目指す。これに際しては、敗戦の前に朝日新聞を退社し、郷里の津山に帰る。開拓農場を企画したりの毎日であったらしいのだが、この時に色々と人生を、そして日本の今後を考えていたのではないだろうか。

 戦後のまだ落ち着かない中、かつての朝日新聞航空部の仲間から請われて、航空関係者の生活を支えるべく、「興民社」の会長となる。そして、会社に戻る時に仲間に示したのが、今でも全日空に掲げられていると伝わる「現在窮乏、将来有望」というスローガンと、三つの経営理念(いわく、「高潔な事業」、「権威に屈することのない、主体性をもつ企業」、それに「独立独歩できる企業」なのであった。

 それからは、事業に邁進、極東航空との合併をとりまとめ、全日空を立ち上げる。会長まで務め、相談役に。ところが、古巣の朝日新聞社が内紛ですったもんだの中、またもや請われて同社の社長となるあたり、かの孫文の「至誠」にも似て、「頼まれたら断れない性格」であったのだろうか。

 1967年(昭和42年)には、これを退任して郷里に戻り、それからを穏やかに暮らしたという。その晩年に魅せた穏やかで味わいの深い表情にちなんでは、、戦後の日本の立ち上がりを演出した一人の経営者として、また波乱万丈の人生行路であったのは、自他共に認めるところなのであろう。


(続く)


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新◻️211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

2020-08-10 18:08:37 | Weblog
211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

 岡山が生んだ社会進歩の先覚者に、森近運平(もりちかうんぺい、1881~1911)がいる。当時の後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)の生まれ。鴨方の生石高等小学校の後、帰郷して農業に従事。その後、勉学を志し、岡山県農事学校と岡山農学校へと進む。優秀な成績であったという。1901年(明治35年)には、県庁へ入って主に農政を担当する。
 その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
 それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
 1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
 かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、被処刑者の遺体を引き取った。
 そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、次の書き置きが伝わる。

 「(前略)実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思ふて居たのである。併(しか)し滋(ここ)に一言を費やして置かねばならぬのは、自分が罪なしと思った事と裁判官が死に当たると断じた事は、一見妙に感ぜられるかも知らぬが、其実は両者の立場が違ふのであって、矛盾でも衝突でも無い、並立し得べき二箇の真実であると云ふの一事である。
 しかして其結果は裁判官の真実が被告の真実を圧倒する。滋に現時の国家組織の特色を発揮するのである。私は斯(か)の如くして死なねばならぬ。近来少し考へて居った事実があるので、今死ぬのは聊(いささ)か口惜しい。
 けれども致方がない。自然界の理法に従って活き、また之に従って死ぬ。生死も自然であれば、生を喜び死を厭(いと)ふも亦(また)自然である。然り、私は唯だ自然法に支配せられて生死する。(以下略)」

 それに加え、堺利彦の差し入れた本の裏表紙に、彼が爪で書いたという「父上は怒り玉ひぬ、我は泣きぬ、さめて恋しい故郷の夢」との句が、その時の心情を今に伝える。


(続く)
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♦️647『自然と人間の歴史・世界篇』二人目のケネディの闘いと死

2020-08-10 08:37:07 | Weblog
647『自然と人間の歴史・世界篇』二人目のケネディの闘いと死

 顧みれば、1968年6月6日、当時のロバート・フランシス・ボビー・ケネディ)(Robert Francis Bobby Kennedy)が暗殺された(狙撃されたのは5日)。彼が、民主党の西部カリフォルニア州予備選挙で勝利してからは、同党候補指名は有利に展開。大統領候補指名選挙のキャンペーンの熱が上がる中での出来事であった。

 そもそもロバート・ケネディは、兄の大統領の下で、1961年1月からアメリカ合衆国司法長官を務めていた。その彼が、アメリカ合衆国上院議員選に出馬するため辞任するのが1964年9月、1965年1月からはニューヨーク州選出議員として活動を始める。やがて、彼は、兄が辿った大統領への挑戦の道を歩み始める。

 それからは、ハードなスケジュールの中で、試練の日々が続いたことだろう。1868年に入っては、敬愛して止まない、人権活動での同志でもあるマーティン・ルーサー・キング牧師が凶弾に倒れた、この時の大衆向けの演説の一節から紹介しよう。

「We can move in that direction as a country, in greater polarization - black people amongst blacks, and white amongst whites, filled with hatred toward one another.   
Or we can make an effort, as Martin Luther King did, to understand and to comprehend, and replace that violence, that stain of bloodshed that has spread across our land, with an effort to understand, compassion and love.」

 「私たちは国がその方向に、より大きな対立へと動いていくこともできるでしょう。その中では、黒人の中の黒人と、白人の中の白人が、お互いに憎しみ合うのです。

 あるいは、マーティン・ルーサー・キングが行ったように、理解しあい、認め合う努力をすることも、そして理解と同情と愛の努力によって、この地を覆う暴力を、流血を改めされることもできるのです。」(1968年4月4日の演説「キング牧師の死について」、場所はインディアナポリスの黒人街)

 もうひとつ、今度は経済面で、彼の知性の高さを示す話を紹介しておこう。経済指標は、人々の幸福度の高さと噛み合わぬことがあるという。

 「--- Even if we act to erase material poverty, there is another greater task, it is to confront the poverty of satisfaction - purpose and dignity - that afflicts us all. ----- Too much and for too long, we seemed to have surrendered personal excellence and community values in the mere accumulation of material things.----- GNP does not include the intelligence of our public debate or the integrity of our public officials.

It measures neither our wit nor our courage, neither our wisdom nor our learning, neither our compassion nor our devotion to our country.----- It measures everything in short, except that which makes life worthwhile.---- And it can tell us everything about America except why we are proud that we are Americans.----- If this is true here at home, so it is true elsewhere in world. -----」(1968.3)



 「(前略)たとえ物質的な貧困を無くしたとしても、我々はもっと大きな課題に取り組むことになる。我々はみな、満足すると言う事を忘れてしまうからだ。 
 我々はずっと、人や地域の素晴らしさを。ただ物質の豊かさで、はかってきたのではないだろうか。しかしGNP(国民総生産)は、人々の議論における知性や公務員の誠実さをもたらすものではなく、知恵や勇気、思いやりや国を愛する心を表すものでもない。(中略) 
 つまりGNPは、人生で本当に価値の有るもの以外の全てのものを数字で表す。(中略) 
 そしてこのGNPは、アメリカについて全てを語るかのようだが。(中略)   
 我々がアメリカ人である事をなぜ誇りとするのか、そこについては何も語らない。(中略)
 もしこれがこのアメリカにおいて真実であるならば、世界中のどこであっても同じ事だろう。」


 ここで話を暗殺当日に戻して、ロバート・ケネディは、ロサンゼルス市内のホテル内を移動中に、その調理場にいるところを狙われた。彼を銃撃した犯人は特定されたものの、その人物(パレスチナ系移民)は受刑者となってからも「犯行の記憶がない」と言い続けるのであった。また、録音された銃声を分析した音響技師や法医学者からも、当該「受刑者の銃とは別の銃で銃殺された」との主張するなどもあった。 

 この事件の背景には、彼の兄のケネディ大統領が暗殺されたときと同様、闇に覆われてわからない部分が多くあり、2017年の今日でも真相は明らかになっていない。ロバート・ケネディは、当時、国内的にも多くの政治的敵対者と向かい合っていたことがあり、それらの勢力との関係で事件を論じる向きも今なお出されているところだ。

 このロバートの暗殺については、彼が大統領に当選する勢いを増していた時期での出来事であり、それとの関連がないとはいえないだろう。いまだに、CIA(米中央情報局)関与などの陰謀論も根強い。

 米国の民主主義をして、現在そこそこに洗練され、成熟したものであると伝える向きがあるものの、果たしてどうなのだろうか。そしてこのような文脈においてかなりの頻度で見られることなのだが、他の世界観をもつ、例えば、「中国には自由がない」と決めつけてから話を始めるなどは、自身の民主主義への理解についても首をかしげざるを得ない。
 両ケネディの暗殺にみるような米国民主主義の「暗部」にも目を向けていくことが平衡感覚をもった歴史認識というものなのではないか。
 2018年5月、50年ぶりに受刑者と面会したロバート・ケネディの近親者がその時の模様を明らかにしているところでは、彼は真犯人とは思えないとのことであり、大きな波紋を呼んでいるところだ。

(続く)

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♦️608の2『自然と人間の歴史・世界篇』ケネディ大統領の暗殺(1963)

2020-08-09 21:27:01 | Weblog
608の2『自然と人間の歴史・世界篇』ケネディ大統領の暗殺(1963)

 1963年、アメリカのケネディ大統領は、ワシントン大学にて、演説(その演題の略称としては、「平和の戦略」)を行い、その中でアメリカにとっての平和を語りかけた。その一部には、こうある。

 「What kind of peace do I mean? What kind of peace do we seek? Not a Pax Americana enforced on the world by American weapons of war. Not the peace of the grave or the security of the slave. I am talking about genuine peace, the kind of peace that makes life on earth worth living, the kind that enables men and nations to grow and to hope and to build a better life for their children--not merely peace for Americans but peace for all men and women--not merely peace in our time but peace for all time.
I speak of peace because of the new face of war. Total war makes no sense in an age when great powers can maintain large and relatively invulnerable nuclear forces and refuse to surrender without resort to those forces. It makes no sense in an age when a single nuclear weapon contains almost ten times the explosive force delivered by all the allied air forces in the Second World War. It makes no sense in an age when the deadly poisons produced by a nuclear exchange would be carried by wind and water and soil and seed to the far corners of the globe and to generations yet unborn.
Today the expenditure of billions of dollars every year on weapons acquired for the purpose of making sure we never need to use them is essential to keeping the peace. But surely the acquisition of such idle stockpiles--which can only destroy and never create--is not the only, much less the most efficient, means of assuring peace.」(1963.6.10のワシントン大学卒業式での演説から)

 これに、「What kind of peace do I mean? What kind of peace do we seek? Not a Pax Americana enforced on the world by American weapons of war. 」とあるように、彼は、アメリカが戦後世界を支配することでの平和を語ろうとしているのではない。

 そのケネディ(そのフルネームの頭文字を並べて、略称では「JFK」)は、1963年11月22日に南部ダラスで暗殺された。
 その死がアメリカ社会に与えたショックは大きく、かつまた、だれがどのような意図をもってこれを実行したかを巡って、現在まで様々な論調が闘わされてきた。
 それというのも、単独犯としての話は成り立ち難い。そこで、CIA(アメリカ中央情報局)、東部エスタブリッシュメント(後に述べる、利子平衡税などを巡っての対立)、外国関与説など、様々な陰謀説が出されてきてはいるものの、決定打にはなっていない。おりしも、副大統領から急遽昇格したジョンソンによる「70年後に資料を公開する」との声明と相俟って、現在、宿年にわたる国民の関心がぶり返しつつあるという。


(続く)


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◻️199『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、三好伊平次 )

2020-08-08 22:04:41 | Weblog
199『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、三好伊平次 )

 三好伊平次 (みよしいへいじ、1873~1969)は、部落改善融和運動家だ。和気郡藤野村(現在の同郡和気町)の生まれにして、その家は貧しかった。
 小学時代に差別をされ、その執拗さに苦しんだという。その悔しさなりを、「なにくそ、負けてたまるか」の気概をもって、ともあれ、生きる力にしようとしたのではあるまいか。
 1898年(明治31年)には、修身社を結成する。民の苦しい生活を直視して、その生活改善などにのり出す。
 1902年(明治35年)には、備作平民会を結成する。ちなみに、岡山の渋染一揆を全国的に知らしめたのは、三好によるところが大きかったという。その延長であろうか、翌年には、大日本同胞融和会を結成する。その名の通り、緩やかな運動体として。
 1906年(明治39年)には、当時の日本社会党に入党する。1911年(明治43年)に、勃発した大逆事件に、大きな影響を受けたようだ。なお、この事件につき、当時の体制側の一部が深く関与していたのは、想像に難くない。
 それからは、部落改善、同情融和の運動方針を和らげていく。1920年(大正9年)になると、融和団体としての岡山県協和会を結成する。    
 その翌年には、内務省嘱託となってしまう。そのため、全国創立を阻止しようとまでしたという。とはいうものの、その創立後は、基本的に承認するのであったというのだが。
 1925年(大正14年)に中央融和事業会が組織されると、その常務理事となる。1926年(昭和11年)には、同協会を退く。
 戦後は、解放全国委員会中央本部顧問となる。著書に「融和事業概論」「同和問題の歴史的研究」など多数と聞く。晩年には、こんな回想をしている。

 「老生がこの運動に携わった動機は,他の同志の方々と同様,已むに已まれぬ内心の憤懣から、25歳の青年時代に出発して、81歳の今日まで脇目もふらず一業一貫主義を押し通してきた。
 何分最初は60年前の混沌時代、草分け時代のことで、一般にこの問題についての関心が少なく、私たちと行動を共にせねばならぬ筈のの人びとからは、余計なお世話だといって嫌がられ、親族知友からは家業を捨てては家がつぶれると忠告され、世間一般からは分を越えた要求だと罵られ、警察方面からは危険思想の持主としてたえず尾行せられるという有様、それでも屈せずに「備作平民会」「岡山青年同志会」「大日本同胞融和会」「岡山県協和会」など、次から次へと民間団体を設立し、同志の糾合と運動の継続とに全力を傾注したのでした。(三好伊平次「」第45号、1958年8月号)

 たしかに、古今東西、「何事も始めが難しい」の例えの通り、まだ定まらぬ民の解放と生活向上への道を、とにかく懸命に歩いてきた、波乱万丈の人生航路であったのだろう。

(続く)


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○275の2『自然と人間の歴史・日本篇』「徴兵告諭」(1872)と「血税一揆」(1873~1875)

2020-08-08 09:01:55 | Weblog
275の2『自然と人間の歴史・日本篇』「徴兵告諭」(1872)と「血税一揆」(1873~1875)


 まずは、「徴兵告諭」(ここでは、関連文書を含む)には、こうある。

「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(明治5年太政官布告第379号)

 「今般全國募兵ノ儀別紙 詔書ノ通リ被 仰出徴兵令相定候條各 御趣意ヲ奉戴シ末々ニ至ル迄不洩樣布達可致總シテ細大ノ事件ハ陸軍海軍兩省ヘ打合可申此旨相達候事
但徴兵令及徴募期限ハ追テ可相達事」
(別紙)

詔書寫
 「朕惟ルニ古昔郡縣ノ制全國ノ丁壯ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵權武門ニ歸シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ實ニ千有餘年來ノ一大變革ナリ此際ニ當リ海陸兵制モ亦時ニ從ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各國ノ式ヲ斟酌シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ吿諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」


 「我、朝上古ノ制海內擧テ兵ナラサルハナシ。有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壯兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ工タリ又商賣タリ固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ武士ト稱シ抗顏坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス抑 神武天皇珍彥ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後軍團ヲ設ケ衞士防人ノ制ヲ定メ神龜天平ノ際ニ至リ六府二鎭ノ設ケ始テ備ル保元平治以後朝綱頽弛兵權終ニ武門ノ手ニ墜チ國ハ封建ノ勢ヲ爲シ人ハ兵農ノ別ヲ爲ス降テ後世ニ至リ名分全ク泯沒シ其弊勝テ言フ可カラス然ルニ太政維新列藩版圖ヲ奉還シ辛未ノ歲ニ及ヒ遠ク郡縣ノ古ニ復ス世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ刀劍ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ權ヲ得セシメントス是レ上下ヲ平均シ人權ヲ齊一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ從前ノ士ニ非ス民ハ從前ノ民ニアラス均シク。
 皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ稅アラサルハナシ以テ國用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ盡シ國ニ報セサルヘカラス西人之ヲ稱シテ血稅ト云フ其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ且ツ國家ニ災害アレハ人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス是故ニ人々心力ヲ盡シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ苟モ國アレハ則チ兵備アリ兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス是ニ由テ之ヲ觀レハ民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ偶然作意ノ法ニ非ス然而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス西洋諸國數百年來研究實踐以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ其法極メテ精密ナリ然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス故ニ今其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ海陸二軍ヲ備ヘ全國四民男兒二十歲ニ至ル者ハ盡ク兵籍ニ編入シ以テ緩急ノ用ニ備フヘシ鄕長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ說諭シ國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也。
明治五年壬申十一月二十八日」

 かかる内容部分についての書き下し文は、次の通り。

 「我が朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之れが元帥となり、丁壮兵役に堪ゆる者を募り、以て服さざるを征す。役を解き家に帰れば、農たり工たり又商賈たり。固より後世雙刀を帯び武士と称し、抗顔座食し、甚しきに至りては、人を殺し、官其の罪を問はざる者の如きに非ず。(中略)

 太政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳に及び遠く郡県の古に復す。世襲座食の士は、其禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。
 
✳️(参考までに、この節のみの現代訳(例、ただし意訳)は、次の通り)
「この度、政権と諸藩の領土を天皇に返上したことで、四民はようやく自由を得たのである。自由とは、上下の区別がないことであり、これがすべての人に人権を与える道である。このことが兵士と農民が一つになれる基礎なのである。武士も民もこれまでの身分と異なり、万民が等しく皇国の民であり、国に仕える時にこれまでの身分の区別はないのである」。✳️


 是に於て士は従前の士に非ず。民は従前の民にあらず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固より其の別なかるべし。凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり。

 且つ国家に災害あれば、人々其の災害の一分を受けざるを得ず。是れが故に人々心力を尽し、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち兵備あり、兵備あれば則ち 人々其の役に就かざるを得ず。
 是に由てこれを観れば、民兵の法たる、固より天然の理にして、偶然作意の法に非ず。然り而して其の制の如きは、古今を斟酌し、時と宜を制せざるべからず。西洋諸国数百年来研究実践以て兵制を定む。
 故を以て、其法極めて精密なり。然れども政体・地理の異なる、悉くこれを用ふべからず。故に今其の長ずる所を取り、古昔の軍制を補ひ、海陸二軍を備へ、全国四民男児二十歳に至る者は、尽く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし。郷長・里正、厚く此の御趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知るらしむべきものなり。」

 なお、正式には、1872年(明治5年)12月28日に、「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(太政官布告第379号)の形だ。これに基づいて、翌1873年(明治6年)1月10日に「徴兵編成並概則(徴兵令)」が公布される。
 主な内容としては、全国に六鎮台を置き、六軍管区におく。満20歳以上の男子は原則として徴兵検査を受けなければならない。合格すると、3年間の兵役が課せられる。その終了後2年間は家業に戻るも、後備軍として扱われる。なお、官吏、官立学校生徒、戸主、代人料270円の納入者などを対象に、兵役免役への道が付帯されている。
 また、これにまつわる一説には、次のようなエピソード混じりで、徴兵対象を広め(富裕者などに有利か)に紹介する向きもある。
 「徴兵が免除される者は、罪人・官吏・公立学校生徒・洋行学生・代人料270円の上納者・家長・嗣子(あととり)・独子独孫・養子・徴兵在役中の兄弟などであった。合法的に徴兵忌避をはかる者も少なくなかった。たとえば、夏目漱石は、大学生の徴兵猶予が26歳までと規定されていたため、大学卒業の前年の猶予期限切れをひかえた1892年(明治25年)に北海道に移籍して一戸を創立している。」(清水勲編「ピゴー日本素描集」岩波文庫、1986)


 しかして、これの一説にある「凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり」というのは、如何にも「口が滑ってしまった」のかもしれない。かくして、かかる下りが、新たな時代に自分たちの暮らしはどうなるかを注視していた全国の農民を刺激し、全体としての心配を増幅、拡大させたのであろう。


 そして迎えた1873年(明治6年)3月には、三重県牟婁郡神内村において、全国に先駆けての一揆が起こる(以下は、主なものを簡単に紹介したい)。

 次いでの5月26日から6月2日にかけては、現在でいう岡山県において、特に東北部の美作地方では数万人がこの一揆に参加し、2万6906人が処罰(内、死刑15人)された。
 当時のこの地域の大方は、北条県に区割りされていたのを含め、「美作血税一揆」もしくは「北条県一揆」と呼び慣わす。
 なお、ここに北条県とは、1871年(明治4年)11月15日には、第1次府県統合により、それまでの津山県、鶴田県、真島県が統合されて発足したもの。県庁所在地は、西北条郡山下(現在は津山市山下、津山文化センターの地)の津山城内であった。旧津山県の小豆島の飛地も、当面の間管轄することとされた。1872年(明治5年)1月25日には、 かかる小豆島の飛地を香川県(第1次)に移管する。
 1876年(明治9年)4月18日 には、第2次府県統合があり、北条県は廃止、岡山県に編入される。

 これにも触発されたのであろうか、6月19日から23日にかけての鳥取県会見郡の一揆では、約1万2千人がそれに参加し、約1万905人が処罰されたという。

 さらに、6月27日から7月6日にかけては、香川県7郡で同様の一揆が勃発し、これによる処罰者は約2万人(内、死刑7人)に上る。
 それでも収まらなかったと見え、1874年(明治7年)の12月には、高知県幡多郡において、これまた、かかる「告諭」を、人間の血(なお、高知では、むしろ「膏(あぶら)」と言い慣わしていたとのことながら、ここでは立ち入らない)、すなわち農民から血の一滴、また一滴を搾り取る、いわば「血の税金」を天皇の名前をもって政府が言い渡たすものに見立て、これに実力行使で反対する一揆が続く。

 これらで、かれらがほぼ一致して「徴兵制度を廃止すること」の要求を、「地租改正」への反対とともに、「時代がわり」での、他の様々な要求の中心に掲げるに至ったのは、ほかでもない、同告諭に込められる「新たな重税」であったのは、疑いあるまい。

 
(続く)


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新◻️49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

2020-08-06 09:00:12 | Weblog
49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

 時代の変わり目には、よく予想もつかないことが起こるものだ。ここに神戸事件とは、1868年2月4日(明治元年1月11日)、兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍がいた。同藩の家老日置氏が率いて、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社前に差しかかった。
 と、その時、一説には、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったのだという。すると、これに驚いた藩兵が、彼らに向けて発砲し、相手方に負傷者が出る、フランス側も応戦したことで銃撃戦になっていく。

 また、別の一説によると、こうなっていたという。

 「2月4日、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後2時ごろ、その家老某の家来が、行列の前方を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである。
 そのあとで、彼らは出会った外国人をかたっぱしから殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。後に外国人居留地となった場所は、当時は広々とした野原で、その奥の端を大きな道が通っていたが、そこを行進中の備前の兵士が確かに元込銃で突然火ぶたを切ったのである。すると、外国人が平地を横切って、ころげるようにして行くのが見られた。」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳「一外交官の見た明治維新(下)」岩波文庫、1960)

 そのうちに、「居留地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた」として、外国軍が組織され、彼らが神戸中心部を占拠する動きにまで発展する。
 かかる列国で組織する公使団(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ)は、日本の政権交代と幕府が彼らと締結した条約に基づき、発砲を号令した士官の処刑を明治新政府に対し要求してくる。

 この国際間での紛争に驚いたのは明治政府で、なんとか大事にならないように、岡山藩に厳しい処置をもとめる。いわく、「天朝の為、皇国のため、備前一国のため、日置一家のため」、発砲を命じた者の死を望むと。
 結局、岡山藩は「非」を認める。その隊列の隊長であった備前藩士滝瀧善三郎(1837~1868)を切腹させ、これによってなんとか解決を見た。

(続く)

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