◻️新192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

2020-08-06 08:19:20 | Weblog
192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)

 竹内文(たけのうちあや、たけのうちふみ、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)に開校された時習(じしゅう)小学校に学ぶ。それを卒業後は、津山中学校にいく。

 その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」、また「学制頒布(はんぷ)に付布告」(1872)での「以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なかりしめん」、さらに「人間の道男女の差あることなし」(「学制施行に関する文部省の計画」、1872)などという言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。

 それからは、大阪府立中学校に入学して6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。

 そして迎えた1884年(明治17年)9月には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校(現在の神戸女学院)に入学する。その時の新聞には、こんな祝辞が載る。

 「作州津山伏見町森本宗吉長女フテは・・・父母に乞い学友竹内フミと共に奮発して終に神戸英和学校へ入学したりしはツイこの程の事なりとか」(10月7日付け山陽新報)

 その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を熱心に学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。

 ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。

 その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。

 翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。

 そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
 「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
 その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。


(続く)

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◻️160の1の2『岡山の今昔』岡山人(16世紀、竹内久盛)

2020-08-05 20:46:47 | Weblog
160の1の2『岡山の今昔』岡山人(16世紀、竹内久盛)

 竹内久盛(たけのうちひさもり、1503~1595)は、戦国から安土桃山時代にかけての武士、武術家として知られる。
 美作国久米郡の荘園、垪和荘(はわそう)があった場所に生まれる。「并」は土が一面に現われている、一帯が荒地であったと推測され、また「和」とは輪のような地形といったところか。
 やがて、一之瀬城主となる。天文元年、同地の垪和三宮の山中ですででの武術の修行にいそしむようになったとか。
 具体的にいうと、捕手(とりて)、それに腰廻(こしのまわり)などの技を繰り出す、これを編みだし、竹内流を創始する。
 のち、南から進んできた宇喜多直家に城を攻略され、城は落城するも、なんとか逃げる。一説には、美作の大原(現在の美作市大原)の新免家(しんめんけ)に身を寄せたという。その間に、宮本武蔵の父の新免無二斎と親交があったというのだが。
 やがて、角石谷に居を構えて、質素に暮らしたという見方もあるようだ。おのが工夫を凝らした武道については、そのみ切磋琢磨を続けたのではなかろうか。長生きをしたのは、長らくの鍛練と自由な暮らしぶりにあってのこと、というのは、想像するに難くあるまい。
 晩年は、これまた一説によると、稲荷山城の原田氏のもとに身をよせたという。やがての家訓として後代に伝えるべきは、「以後は農業を生業として子々孫々に至るまで仕官することのないように」ということで、それが本心からの戒めなら、なんとも清々しい話ではあるまいか。


(続く)


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◻️195『岡山の今昔』岡山人(20世紀、法華滋子)

2020-08-04 22:30:50 | Weblog
195『岡山の今昔』岡山人(20世紀、法華滋子)

 法華滋子(ほっかしげこ、1912~?)は、真庭郡川上村(現在の真庭市)の生まれ。このあたりは、蒜山高原が広がる。父の職業は、特定郵便局の局長で、しかも牛を近隣の農家に貸し付けていた「牛持ち」でもあった。
 地元の小学校を出ると、長兄の法華義一と同じく教師を目指して、岡山女子師範学校の一部に進学を果たす。
 学生寮に入って勉学に励む中、次兄の法華暉良(てるよし)の影響でエスペラント語の勉強を始める。

 ところが、彼女が卒業する頃は、1930年代の不況期であって、彼女は暉良のいる東京に出て、喫茶店に勤める。エスペラント仲間ということでは、左翼の人達との交流があり、その分官憲ににらまれることにもなっていったようだ。
 その頃の知人によれば、「はなやかで、おっとりした滋子のエスペラントの会話は京浜の若い労働者のあこがれの存在であり、エス語の講師もしていた」(「エスペラントの女がー法華滋子の生涯(3)」、雑誌「人権21」2004.2)というから、もはやその筋のベテラン格になっていたのかもしれない。
 その頃には、この国はもはやエスペラントを喋べり、広め、世界平和を口にするだけで、「非国民」扱いのみならず、治安維持法違反に問われかねない時代になりつつあったという。
 これなどは、もはや、国民一般の人権などは、風前の灯火に近くなっていたのかもしれない。
 なお、滋子を見送ってからの兄、法華暉良は、1955年から郷里の川上村長となり、1965年に、多彩な人生の幕を閉じたという。


(続く)

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◻️176の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岸本武太夫)

2020-08-04 22:01:37 | Weblog
176の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岸本武太夫)

 岸本武太夫(きしもとぶだゆう、1742~1810)は、美作の東南条郡押入村(現在の津山市)の庄屋、彦左衛門の5男として生まれた。名前を、武太夫という。地元では、比較的裕福ということであっても、塾に通うのはかなわなかったようで、幼い頃から父や祖父より漢学を習う。
 15歳になっては、英田郡倉敷(現在の美作市)代官の下役、つまり下僕が募集されているという話を聞きつけ、応募となる。幸い、採用となり、父の許しをもらって、務めを始める。
 当時の藤本甚介代官の下には、手代、手付、書役までが役人待遇、その下で役人を手助けする働き手(下働き)が7、8人はいるのが通例であったという。
 代官所に入りたての時の彼は、いちばん年下であったが、懸命に働いたという。それが上役にだんだんに認められていく。
 そして迎えた1759年(宝暦9年)、藤本代官が江戸に転勤になるとき、藤本は武太夫に一緒に来ないか、と誘う。18歳の武太夫にとっては、渡りに船、目の前が開けたような話であったに違いあるまい。


 さて、江戸にあっては、同代官の手代として働くうちに、当時の老中、田沼意次の政策に人材募集があるのを好機とし、受験し、7人の合格者の中に入る。28歳の時のことで、勇躍して飛躍を志したのであろうか。
 その田沼だが、武太夫を勘定奉行手付とした。旗本となって、主な仕事としては、貨幣をつくることであった。武太夫たちは、新しい銀のお金をつくり、貨幣の円滑な流通を目指す。
 そんな武太夫に、やがて、転機がやってくる。1780年(安永9年)には、勘定所詰普請役として美濃、伊勢、武蔵、常陸、甲斐を巡視する役柄となる。
 1780年(安永9年)には、佐渡勤務に転じる。上から2番目の奉行支配広間役となり、11年間の在任の間に、国府川に堤防をつくり、灌漑を整え、農民に喜ばれる。武太夫としては、それらのことが、金山経営にも益すると踏んでいたのであろう。
 1792年(寛政3年)には、江戸に呼び戻され、支配勘定、つまり勘定方の筆頭となる。1793年(寛政5年)には、下野(しもつけ、現在の栃木県)、6万8000石地域を支配する代官となる。そして、下野国都賀郡藤岡(現在の栃木県藤岡町)陣屋に赴任する。
 同国の芳賀郡東郷村(現在の栃木県真岡市)を出張陣屋とし、働く。ここでも、利根川沿いの湿地帯を田園に変える改革を担う。
 1799年(寛政11年)には、東郷陣屋に移る。小児養育、荒地起返しのための手当支給から、堕胎や子間引きの防止に至るまで、幅広で取り組む。
 1809年(文化6年)には、関東取締の役につくものの、ここまでくるのに、かなり疲れていたのではないか。

(続く)

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◻️194『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)

2020-08-03 21:19:01 | Weblog
194『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)

 山上喜美恵(やまがみきみえ、1898~1976)は、上道郡古都村大字宍甘(現在の岡山市)の生まれ。人力車夫の清水留吉と伊勢の長女であり、家計は貧しかったにちがいない。
 小学校卒業後は、将来に備え、裁縫塾に通う。14歳になると、女中に出る。翌年には、帽子組み兼女中となる。
 やがて、農家の長男東原猪久太と結婚し、3年目に男児を出産するも、1923年(大正12年)に離婚し、子を連れて実家に戻る。
 それからは、一念発起して、助産婦になるために産婆足助に住み込む。1年間夜学にも通い、看護学や産婆学を学ぶ。また、キリスト教の洗礼を受けたのは、その頃ではなかったか。
 1924年(大正13年)には、農民運動のリーダー山上武雄と再婚する。夫からの影響であろう、助産婦として働くかたわら、農民組合婦人部の組織拡大に奔走していく。

 おりしも、1925年の日農岡山連合会第一回大会において、山上は、こう提案したという。
 「私達の運動は合理的合法的運動であります。(中略)又各個人の自由を尊重する運動でもあります。然るに私達は、地主と男子と此の両方から長い間屈辱と蹂躙に甘んじて来ました。
 私達の運動は婦人の努力にまつ者が最も多いのであります。私達は此の点を総合して婦人の執行委員を選出しなければならないと思います。」(坂本法子「山上喜美恵の生涯」第三回、雑誌「人権21」2006.8)

 1943年(昭和18年)には、62歳の夫と死別する。それからも、ハンセン病病院、各種地域活動などの奉仕活動を行う。


(続く)


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◻️160の7『岡山の今昔』岡山人(18世紀、松平康哉)

2020-08-03 08:51:16 | Weblog
160の7『岡山の今昔』岡山人(18世紀、松平康哉)

 松平康哉(まつだいらやすたか、1752~1794)は、津山藩の4代藩主・松平長孝の長男として生まれ、1762年には、父の早すぎる死により跡を継いで5代目の藩主となる。早くから、その英明さが際立っていたと伝わる。
 やがて、一人立ちすると、先代の長孝が行った「新法」を吟味してみたという。先代では、庄屋制度を廃するなど藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したという。けれども、実績が上がらないまま、重臣たちがとりあえず続けたのかもしれない。

 そして迎えた1771年(明応8年)の康哉は、父が始めた新法による改革を一旦廃し、新たな決意で藩政改革を行う。先代改革の全てが失敗したというのではなくても、踏襲するのべきでないとしたのであろう。

 その正式な触れ、それに家中向けとしては、「申渡十一時箇条」、「問九ケ条」と「郷中御条目」なりが出ていて、なかなかの体裁にちがいない。なお、詳細な内容及び氷解については、例えば、瀬島宏計「津山藩の安永改革」がネットにて拝見できることから、参照されたい。


 これに至るまでには、江戸にいるときは、上杉治憲や細川重賢らに教えをこう。彼らに倣い、機構改革、それに大村庄助や飯室武中といった、家柄にとらわれない有能な人材を登用したりで、藩政の刷新を目指す。
 また、税徴収の増加を目して、社倉や義倉孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、いわゆる社会福祉的な政策を中心とした藩政改革を断行し、この方面に限っては某かの成功を収めたという。ほかにも、藩校を整え、学問を奨励、武道を励ますなど、多様な取り組みを行う。
 しかし、上意下達の感じもしており、バランスがとれていたのか、どうか。結果として、なかなかに短期での成果は上がらなかったようだ。1783年(天明3年)初夏には、天明の大飢饉による米価高騰により、領内で打ちこわしも起った。

 その人となりについては、有能かつ大胆なところが際立つ。家柄が、それを、あれこれで後押ししたこともあろう。「肝胆相照らす」というか、同時代の幕府老中で康哉と親交のあった松平定信の著書中に、こんな康哉評がある。
 「人となり博学弁才無双、相学、天学をなして高談をよろこぶ。 いかがしけん、予をば至って親しみて、常に来り訪ひ給ふ。相客あれば来り給はず。これ又偉人なり。」
 その定信においては、文芸にも秀でている康哉には、一目も二目もおいて、清談を楽しんでいたのではあるまいか。


(続く)

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◻️198『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、巌津政右衛門)

2020-08-02 22:23:17 | Weblog
198『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、巌津政右衛門)

 巌津政右衛門(いわつまさえもん、1893~1989)は、新聞記者で、郷土史家でもある。 児島郡赤崎村(現・倉敷市)の、脇坂家で生まれた。
 小学校の代用教員を務めたのち韓国に渡り、実業に従事する。しかし、間もなく病気になり、やむなく帰国する。
 大正10年に山陽新報社(のちの山陽新聞)に入社する。新聞記者として、関東大震災などを取材する。
 のち同社が合同新聞社に併合されると、取締役編集局長に就任する。1946年(昭和21年)には「夕刊岡山」を創刊し、専務理事に就任する。
 ようやくのことであったろうか、記者生活の傍らで郷土史研究を進める。古建築物や石造美術を中心に岡山県内の各地を調査する。
 24年には、新聞界を引退する。それからは、研究に専念し、県史跡名勝天然記念物調査委員や県文化財専門委員・倉敷市文化財保護委員などを歴任していく。1951年(昭和26年)には郷土研究誌「岡山春秋」を創刊する。
 著書としては、「岡山県美術名鑑」「岡山県古建築名鑑」「岡山の石仏」など、極めて多数。
 それというのも、新聞記者としての名声をさることながら、郷土史家としては、極めて多くのジャンルの論評を手掛けた。しかも、手抜きがまるでないと聞く。
 例えば、彼の『岡山の石造美術』(日本文教出版、1973年刊)とは、岡山文庫の中の一冊にして、岡山県内の石像を、層塔・宝塔・多宝塔・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔・板碑・方柱碑・笠塔婆・無縫塔・石幢・石室・石仏・石鳥居・その他に分類し、紹介しているという。しかも、本人が訪れた藤戸寺五重塔や備前国分寺七重塔、総願寺跡宝塔、五流尊龍院宝塔、法界院石灯籠などを含むとか。
 これらにあっては、常々のメモもあってのことなのだろうが、「素晴らしい」の一言に尽きる、その丁寧さにも脱帽のほかないように思われる。

(続く)

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◻️193『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田白印

2020-08-02 10:05:37 | Weblog
193『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田白印

 津田白印(つだはくいん、1862~1946)は、笠岡の浄土真宗浄心寺住職、津田明海の二男だという。19歳にて、豊前国(現在の福岡県豊前市)の浄土真宗大教校・乗桂校において、仏教学と漢学を学ぶ。次いでであろうか、長崎派の鉄翁祖門の門下、成富椿屋(なりとみちんおく)に南画を学ぶ。
 のちに奈良監獄の教誨師となる。少年囚徒の教育を担当する。彼らの社会環境を研究するうちに、慈善社会事業家になる決意を固めたという。
 1900年(明治33年)、孤児収容施設の甘露育児院を笠岡の本林寺に設立。やがて、育児院を浄心寺に移す。主に、自らの画料や浄財によって同院の経営を行う。
 この育児院は1924年(大正13年)まで継続し、地域の福祉に大きく貢献したのは、想像に難くない。ほかにも、この前年に私立淳和女学校を設立して、校長としても女子教育にあたる。

 その画業としては、「蒲に蟹」(1928)、「養真」(1935)、「双竹」(1941)など多数と聞く。それらのかなりは、概ねインターネットでも、そこそこのレベルでの閲覧が可能で、便利ではないだろうか。その作風については、「伝統的でありながら時代を超えた瑞々しさを備える」とも評されるのだが、確かに、「さらり」とした雰囲気の中にも何かが「キラリ」と光っているようにも感じられるのだが。
 その人となりは、柔らかと伝わる。名前というのは、なかなかに複雑であり、幼名は峯丸、のちに明導。別号に白道人、吸江山人、黄薇山人、甘露窟主人などがあるというから、果たして、変幻自在を理想としていたのであろうか。

(続く)

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◻️165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

2020-08-01 13:35:53 | Weblog
165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

 江戸時代の享保年間には、西日本でも凶作による飢饉が相次いでいたという。そうした中で、大森代官として現地に赴任していた井戸平左衛門(いどへいざえもん、1672~1733)をまつった「井戸神社」(島根県太田市)内に建立されている顕彰碑(1872年設立)には、平左衛門の功績が刻銘され、その事績についての次の説明文が刻まれているとのこと。

 「時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。」

 ここに「甘藷」(かんしょ)というのはサツマイモのことで、当時薩摩藩領内で栽培されていたのを伝え聞いた平左衛門が幕府に頼み込んで、種芋(100斤=約90キログラム)を手に入れたという。これより前の1731年(享保16年)に、彼は60歳にして石見国大森の代官(第19代石見銀山領代官職)に就任していた。翌年には、備中国笠岡代官を兼務するのであった。
 そして迎えた春以降において、西日本を襲ったのがウンカ発生などによる未曽有の稲など穀物の凶作に連なっていく。この時、代官の平左衛門がとったのは、様々な農民救済策であった。
 その極めつけとされるのが、後段に述べるように、甘藷栽培の奨励・導入と、豊かな者から募った資金で米を買って配給し、また陣屋の蔵を開く、年貢の減免などでの緊急救済であったと伝わる。その効果がいかばかりであったかは、彼の支配地内での餓死者がいなかったことで広く地域の人々に伝わる。

 ところが、翌1733年(享保18年)には、仕事先の備中笠岡の地で死んだという。これには、幕府の許可を得ないで蔵を開いたことで責任を取らされての自刃説と、病死の説とが拮抗しているようだが、確かなところは今日までわかっていないようなのだ。

 その彼は、武蔵野国の下級武士の家に生まれ、それから後に生家の事情によるのであろうか、井戸正和の養子に入る。1692年(元禄5年)には21歳で井戸家の家督を引き継ぎ、小普請組に属する。1697年(元禄10年)になると、表火番といって、江戸城内において火災の防御に当たる役職となる。その5年後には、一転、勘定役に昇進する。
 以来、30年ほどはその職に在ったという。この間の1721年(享保6年)には、日ごろの勤勉をたたえられ黄金2枚を贈られたとのこと。と、ここまでは、「まずは、めでたし」ということであったのだろう。
 その実直な仕事ぶりから、今度は60歳という、当時としては高齢にもかかわらず、石見代官に任命され、政務に励む毎日に没頭するのであった。まさに、第二の人生ともいうべき大仕事がここに始まった。それからの生きざまについては、例えば、笠岡市の成徳寺に墓、また井戸公園に見える顕彰碑文には、こうある。

 「井戸平左衛門は幕臣である。享保16年(1731)、60歳で石見国大森代官となった。翌年、備中国笠岡代官が病没したため、笠岡代官も兼務することになる。
 このころ、西日本一帯は雨やイナゴの大発生によって大飢饉となっていた。そこで平左衛門は幕府の命令を待たずに年貢を減免するとともに私財や官金を使って領民を救済し、餓死者を最低限にくいとめた。
 また平左衛門は幕府に願い出て薩摩から甘薯(サツマイモ)の種芋を取り寄せ、領民に栽培させて飢饉をしのいだため、いも代官、とも呼ばれている。
 享保18年(1733)笠岡の陣屋において発病し、ついに不帰の客となった。法名を、「泰雲院義岳忠居士」という。
昭和49年7月30日 笠岡市教育委員会」

 およそ彼の「希有」ともいえるく生涯は、このような次第にて、なんとも清々しい話ではないか。果たして、相当に異色の経歴であったにちがいないものの、特段の書き物などを残していないなら、なんとも惜しい。
 その分、一人その赴任地での代官にとどまらず、それを起点に稀代の名代官として、方々の地にて額に汗して働く人々の方々に顕著な影響を及ぼしたことでは、日本歴代の「大人物」の列に悠々加えない訳にはゆかないであろう。

(続く)

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◻️171の5『岡山の今昔』岡山人(18世紀、岡雲臥)

2020-08-01 10:00:39 | Weblog
171の5『岡山の今昔』岡山人(18世紀、岡雲臥)

 岡雲臥(おかうんが、1713~1773)は、江戸時代中期に活躍した医師だ。備中の窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。生家は「俵屋」だという。
 家を出て、京都で松岡恕庵(じょあん)に本草学を学ぶ。それと、堀元厚らに医学を学ぶ。家からの援助があってのことだろう。
 やがて、郷里の倉敷村にて、医業を開業する。珍しいのは、それでいながら、かたわら私塾をひらく。
 1769年(明和6年)には、地主、庄屋などの有力者などの協力をえて、「義倉」を創設する。彼らとともに出資し融通し合うことでの金融機関であったのだろう。
 それからは、数度の凶作があった。そして、かかる事業の幅広さにより多くの窮民が救済されたという。
 その事業にこめられた高い志は、近隣を越えて聞こえていたのであろう。ちなみに、現在の倉敷市本町の鶴形山、阿智神社の社務所の東には、犬養木堂が寄与しての「岡雲臥翁顕彰碑」がしつらえてある。
 それに、「初名は武韶、のち藤馬。字(あざな)は汝粛。別号に九畹」というから、名前にはなかなかの思いがあったのかもしれない。さらに儒学者としての心得も名高く、それでいて、とうやら、なかなかの好人物であったようだ。


(続く)

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