192の4の13『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、竹内文)
竹内文(たけのうちあや、たけのうちふみ、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)に開校された時習(じしゅう)小学校に学ぶ。それを卒業後は、津山中学校にいく。
その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」、また「学制頒布(はんぷ)に付布告」(1872)での「以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なかりしめん」、さらに「人間の道男女の差あることなし」(「学制施行に関する文部省の計画」、1872)などという言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。
それからは、大阪府立中学校に入学して6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。
そして迎えた1884年(明治17年)9月には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校(現在の神戸女学院)に入学する。その時の新聞には、こんな祝辞が載る。
「作州津山伏見町森本宗吉長女フテは・・・父母に乞い学友竹内フミと共に奮発して終に神戸英和学校へ入学したりしはツイこの程の事なりとか」(10月7日付け山陽新報)
その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を熱心に学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。
ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。
その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。
翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。
そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。
(続く)
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竹内文(たけのうちあや、たけのうちふみ、1868~1921)は、教育家だ。父は津山藩士で、柔術師範として禄を食(は)んでいた。1874年(明治7年)に開校された時習(じしゅう)小学校に学ぶ。それを卒業後は、津山中学校にいく。
その頃既に、福沢諭吉の「男も人なり、女も人なり」、また「学制頒布(はんぷ)に付布告」(1872)での「以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なかりしめん」、さらに「人間の道男女の差あることなし」(「学制施行に関する文部省の計画」、1872)などという言葉に感銘を受け、女性の自立を模索していたのであろうか。
それからは、大阪府立中学校に入学して6か月を過ごし、翌年郷里に六郡共立中学校ができたことから、津山に帰郷して、入学をはたす。
そして迎えた1884年(明治17年)9月には、人生の転機が訪れる。神戸の神戸英和女学校(現在の神戸女学院)に入学する。その時の新聞には、こんな祝辞が載る。
「作州津山伏見町森本宗吉長女フテは・・・父母に乞い学友竹内フミと共に奮発して終に神戸英和学校へ入学したりしはツイこの程の事なりとか」(10月7日付け山陽新報)
その翌年にはキリスト教の洗礼を受ける。この間に、英語を熱心に学ぶ。1889年(明治22年)にそこを卒業すると、札幌独立教会伝道師の馬場種太郎と北海道で所帯を持つ。
ところが、1893年(明治26年)に夫が死に、子供二人と残されてしまう。それからは京都に行き、下宿屋をしたりで暮らしていたという。さらに、1894年(明治27年)には、津山に帰り、南新座の自宅で裁縫の塾を開く。
その頃にはもう英語の塾をやりたい気持ちがあったようで、まずは1897年(明治30年)に、津山女学学芸会(津山女学校)を開校する。同年9月に文部省に設立認可を願い出たものの、うまくいかない。
翌年には、同じ津山で裁縫が中心の淑徳館が認可を得る。竹内の女学校は、私塾として続けるしかなく、なかなかに経営が大変だったらしい。そんな中でも、授業前には皆で賛美歌を歌い、体操にはダンスを採り入れ、家事や育児に時間を設け、さらに英語は竹内自らが教えるなど、斬新な授業であったという。
そしての1901年(明治34年)、津山を訪れた薄田泣菫は、かかる女学校校長の竹内を励まそうとしたらしい。後に設けられた詩碑「公孫樹下にたちて」(長法寺)には、その一部がこう記されている。
「銀杏よ、汝常盤樹の神のめぐみの緑葉を、霜に誇るにくらべては、いかに自然の健児ぞや。われら願はく狗児の乳のしたゝりに媚ぶる如、心よわくも平和の小さき名をば呼ばざらむ。絶ゆる隙なきたゝかひに、馴れし心の驕りこそ、ながき吾世のながらへの栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。」
その同じ1901年には、津山に県立の女学校の設立が許可されており、1903年(明治36年)に県立津山女学校として開校する。竹内は自らの学校を閉じ、単身で東京へ出る。津山の松平家の家庭教師を務める。その後の1921年(大正10年)に波乱の人生を閉じたのは、いかにも惜しい、せめて自ら育み、培ってきた大いなる夢を某かの手記にして後世に総覧してほしかった。
(続く)
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