192の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大西祝)
大西祝(おおにしはじめ、1864~1900)は、日本の哲学者にして、教育家だ。
岡山城下の西田町の生まれ。親の関係であろうか、幼い頃からキリスト教に親しむ。15歳のとき母方の大西家を継ぐ。
1881(明治14)年同志社普通科卒業後、同神学科に入学。同志社英学校在学中に新島襄から洗礼を受ける。
1885(明治18)年東京大学の大学院生となり、倫理学を専攻し、「良心起原論」を研究テーマに励んでいた、という。
1891年 (明治24年)には、早稲田大学の前身、東京専門学校の講師陣に就職する。まだ帝国大学の大学院生だったというのに、彼を早稲田に招いたのは、文学者の坪内逍遙(つぼうちしょうよう)だというから、驚きだ。
同学校では、前年に文学科を開設したばかりであったという。哲学・倫理学・心理学・美学などの講義を一手に引き受ける。
そのうちには、人気が出たようで、岡山出身の綱島梁川(つなしまりょうせん)も聴講していたという。
一方、言論活動にも精力的に取り組む。持ち前の真面目さ、正義感潔もあってのことだろうか、内村鑑三不敬事件を発端とする「教育と宗教の衝突」論争では、自由主義の立場から論戦を挑む。
1898(明治31)年、ドイツへ留学するが体調を崩し、翌年研究を中断して帰国する。それからは、京都、岡山などで療養する。
かくて、学問の道では、日本人の手になる初の本格的な西洋哲学史、倫理学を著わしたことがあろう。 それもさることながら、思想や宗教の自由を、国家という権威を笠に着たナショナリストたちと渡り合う。
その前からの病と闘いつつも、自由と人権のための活動をためらわなかったのは、その先駆者であることを何かしら自覚していたのではないだろうか。
(続く)
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大西祝(おおにしはじめ、1864~1900)は、日本の哲学者にして、教育家だ。
岡山城下の西田町の生まれ。親の関係であろうか、幼い頃からキリスト教に親しむ。15歳のとき母方の大西家を継ぐ。
1881(明治14)年同志社普通科卒業後、同神学科に入学。同志社英学校在学中に新島襄から洗礼を受ける。
1885(明治18)年東京大学の大学院生となり、倫理学を専攻し、「良心起原論」を研究テーマに励んでいた、という。
1891年 (明治24年)には、早稲田大学の前身、東京専門学校の講師陣に就職する。まだ帝国大学の大学院生だったというのに、彼を早稲田に招いたのは、文学者の坪内逍遙(つぼうちしょうよう)だというから、驚きだ。
同学校では、前年に文学科を開設したばかりであったという。哲学・倫理学・心理学・美学などの講義を一手に引き受ける。
そのうちには、人気が出たようで、岡山出身の綱島梁川(つなしまりょうせん)も聴講していたという。
一方、言論活動にも精力的に取り組む。持ち前の真面目さ、正義感潔もあってのことだろうか、内村鑑三不敬事件を発端とする「教育と宗教の衝突」論争では、自由主義の立場から論戦を挑む。
1898(明治31)年、ドイツへ留学するが体調を崩し、翌年研究を中断して帰国する。それからは、京都、岡山などで療養する。
かくて、学問の道では、日本人の手になる初の本格的な西洋哲学史、倫理学を著わしたことがあろう。 それもさることながら、思想や宗教の自由を、国家という権威を笠に着たナショナリストたちと渡り合う。
その前からの病と闘いつつも、自由と人権のための活動をためらわなかったのは、その先駆者であることを何かしら自覚していたのではないだろうか。
(続く)
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