◻️192の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大西祝)

2021-05-13 15:18:38 | Weblog
192の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大西祝)

 大西祝(おおにしはじめ、1864~1900)は、日本の哲学者にして、教育家だ。  
 岡山城下の西田町の生まれ。親の関係であろうか、幼い頃からキリスト教に親しむ。15歳のとき母方の大西家を継ぐ。

 1881(明治14)年同志社普通科卒業後、同神学科に入学。同志社英学校在学中に新島襄から洗礼を受ける。


 1885(明治18)年東京大学の大学院生となり、倫理学を専攻し、「良心起原論」を研究テーマに励んでいた、という。


 1891年 (明治24年)には、早稲田大学の前身、東京専門学校の講師陣に就職する。まだ帝国大学の大学院生だったというのに、彼を早稲田に招いたのは、文学者の坪内逍遙(つぼうちしょうよう)だというから、驚きだ。 


 同学校では、前年に文学科を開設したばかりであったという。哲学・倫理学・心理学・美学などの講義を一手に引き受ける。

 そのうちには、人気が出たようで、岡山出身の綱島梁川(つなしまりょうせん)も聴講していたという。


 一方、言論活動にも精力的に取り組む。持ち前の真面目さ、正義感潔もあってのことだろうか、内村鑑三不敬事件を発端とする「教育と宗教の衝突」論争では、自由主義の立場から論戦を挑む。
 1898(明治31)年、ドイツへ留学するが体調を崩し、翌年研究を中断して帰国する。それからは、京都、岡山などで療養する。

 かくて、学問の道では、日本人の手になる初の本格的な西洋哲学史、倫理学を著わしたことがあろう。 それもさることながら、思想や宗教の自由を、国家という権威を笠に着たナショナリストたちと渡り合う。
 その前からの病と闘いつつも、自由と人権のための活動をためらわなかったのは、その先駆者であることを何かしら自覚していたのではないだろうか。

(続く)

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◻️192の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、戸塚文海) 

2021-05-13 15:17:21 | Weblog
192の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、戸塚文海) 


 戸塚文海(とつかぶんかい、1835~1901)は、日本海軍の医師だ。浅口郡玉島村(現在の倉敷市)の生まれ。


 やがて、請われてであろうか、医師の戸塚静海(17991876)の養子となる。静海は、伊東玄朴・坪井信道とともに、江戸の三大蘭方医と呼ばれる人物である。


 その後は、緒方洪庵の適塾に入る。また、シーボルトに学び、将軍の侍医となる。
 
 明治時代に入ってからは、医学静岡病院頭となる。1872年(明治5年)には、軍隊の医者を志し、海軍省5等出仕の待遇となる。

 それからは、出世コースをたどっていく。軍医寮学舎長、海軍省医務局長兼本病院長、本病院長などを務めていく。

 1876年(明治9年)には、海軍軍医総監になる。翌年には、初代医務局長となり、随分と出世したものだ。

 めでたく退官した後には、高木兼寛(たかぎかねひろ)らと共立東京病院(後の東京慈恵医院)を設立し、1882年(明治15年)からは、同共立東京病院長を務める。


 その後も海軍との関係が続いたようだが、1895年(明治28年)12月、後備役となり、1900年(明治33年)には、ようやく退役する。


 この間には、海軍軍医制度創設に貢献したことで、広く知られる。色々な場面に登場していたようなのが、例えば、こんな話が伝わる。

 「例えば、江戸時代の医学生がストライキを起こしたという話があります。学生のストライキは1960年代の大学紛争だけではありません。江戸時代や明治期に何度も起こっています。長崎の医学所(精得館)では、松本良順が江戸に帰った直後に、館長の戸塚文海が月謝、畳代、障子代を学生から徴収しようとしたところ、校長排斥運動が起こりました。松本良順が長崎へもどり説得し収拾しましたが、松本が江戸に戻ると、今度は江戸の医学所で騒動が勃発します。
 この騒動の原因は松本良順によるカリキュラム改革です。当時の学生たちは医学だけでなく、兵書も学んでいました。そこで医学の学習に専念させようとしたところ、30名の学生が一斉に退学届を出しました。その理由は、兵書を訳すと、御大名から声が掛かる。月に6回ぐらい講義に行けば、1~2ヶ月分の修学費用が出て、その上、着物の拝領があるという事情がありました。それを良順が禁止したため反発を招いたということです。学生には適塾出身者が多かったため、良順は適塾の先輩である福沢諭吉に学生の説得を依頼しましたが、それでも3分の1の学生は退学しました。」(文部科学省高等教育局医学教育課編集「2015年度医学・歯学教育指導者のためのワークショップ記録集」2015.7.29)


(続く)

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◻️211の41『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山祐士)

2021-05-10 22:15:27 | Weblog
211の41『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山祐士)

 小山祐士(こやま ゆうし、1906~ 1982)は、劇作家・脚本家だ。 広島県福山市笠岡町生まれ。
 誠之館中学校に入る。1931年(昭和6年)には、慶應義塾大学法学部を卒業する。
 1932年(昭和7年)には、仲間とともに同人誌「戯作「を創刊する。1933年(昭和8年)には、戯曲「十二月」を発表する。そして、築地座で上演を行う。
 1934年(同9年)には、「瀬戸内海の子供ら」で劇作家としての地位を確立する。
 この作品は、チェーホフに学び、陰影の濃い台詞を福山地方の方言で描く手法で、先の戦争期、瀬戸内の鬱屈した青春を描く。
 1937年(昭和12年)には、文学座の創立に脚本家として参加する。1942年(昭和17年)にはNHK嘱託となり放送劇も書く。
  戦後は、1956年(昭和31年)に、「二人だけの舞踏会」を発表する。叙情的作風に、原爆や公害問題を織り込む作風で活動。原爆の傷跡を描く。他にも、大久野島の毒ガス製造問題を告発する
 1962年(昭和37年)には、「泰山木の木の下で」を発表する。  1965年(昭和40年)には、「日本の幽霊」を発表する。戦争や原爆の惨禍にみまわれた人々を描く。


(続く)

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◻️211の39『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進) 

2021-05-10 22:13:58 | Weblog
211の39『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進) 

 河野進(こうのすすむ、1904~1990)は、詩人にしてキリスト教の牧師でもある。
 和歌山県の生まれ。満州教育専門学校、神戸中央神学校で学ぶ。
 やがて、日本基督教団玉島教会において牧師となる。賀川豊彦より、長島と邑久郡(おくぐん、現在の瀬戸内市邑久)のハンセン病療養所での慰問を行う。身近に接した地元では、「玉島の良寛さま」という通称をもらっている。


 キリスト教でいうところの人類愛の精神に則り、世界にも目を向ける。インド救ライセンター設立に向けて、またマザー・テレサに協力する一環として「おにぎり運動」に取り組むみ、インドに献金を届けに赴いたという。

 日本キリスト教救ライ教会理事、それに社会福祉法人恵聖会(養護施設岡山県立玉島学園、保育施設富田保育園)理事長を務める。


 その詩には、独特の透明感が漂う、その中から幾つか紹介しておこう。

「花」
 「花は/自分の美しさに気がつかない/自分のよい香を知らない/どうして人や虫が/よろこぶかわからない/花は自然のままに咲くだけ/かおるだけ」

「ぞうきん」
 「こまった時に思い出され/用がすめば/すぐ忘れられる/ぞうきん
/台所のすみに小さくなり/むくいを知らず/朝も夜もよろこんで仕える/ぞうきんになりたい」

「使命」
 「まっ黒いぞうきんで/顔はふけない/まっ白いハンカチで/足はふけない/用途がちがうだけ/使命のとおとさに変わりがない/ハンカチよ/たかぶるな/ぞうきんよ/ひがむな」

 何かしら宗教観の感じられるものとしては、次に掲げるものが有名である。

 「不平の百日より感謝の一日を/ 憎しみの百日より愛の一日を/ 失望の百日より希望の一日を/ 悪口の百日よりほめる一日を/ 戦争の百日より平和の一日を/ 罪の百日より赦された一日を/ 悪魔の百日より天使の一日を 」

(続く)


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◻️211の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、中塚一碧楼)

2021-05-10 22:12:54 | Weblog
211の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、中塚一碧楼)

 中塚一碧楼(なかつかいっべきろう、1887~1947)は、自由俳句草草期の旗手の一人だ。

 玉島市羽口(現在の倉敷市玉島羽田)の生まれ。名は直三という。
 早稲田大学に入り、その在学中に俳句を志す。自由俳句の碧梧桐に師事して、心と技術というか、その道を学ぶ。
 それからは、だんだんに独自の俳句の道を切り開いていく。

 倉敷市玉島勇崎に、碧楼句碑公園があり、そこに中塚一碧楼の句碑と説明碑 が並んであるという。句碑によると、「病めば布団のそと冬海の青きを覚え」とあって、何やら人生航路の厳しい一面を冬の海の波しぶきになぞらえてのことだろうか。
 説明碑には、経歴を述べた後に、こうあるという。

 「(前略)その天賦の詩魂は新傾向の俳句を大成し俳句「海紅」の主催者をして全国に門人を擁す。(中略)天才詩人の光芒はここに餘光となって永遠に輝くことになった。郷土の有志相計りその絶句を刻んで一碧楼の名を止めんとす。」

 その俳句の独特なスタイルについては、人智の前の自然体というのが、ふさわしい。まずもって口語調の簡明な文体とあって、これに詠もうとする事象のエッセンスに対する認識を入れ込む。次に、それでいて定型俳句にこだわることがない。

 どうやら、その時々の人間の精神の形を、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせたのだと、大方には評価されているようだ。その中から、幾つか拾うと、こうある。
 「鏡に映ったわたしがそのまま来た菊見/掌がすべる白い火鉢よふるさとよ/胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり/秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る/単衣著の母とあらむ朝の窓なり/刈粟残らずをしまって倉の白い/赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け/畠ぎっしり陸稲みのり芋も大きな葉」

 と、少々難し気の表現も垣見られるようなのだが、多分に巧みに執着しないのが新鮮で、そのことが「新境地」と言われるなら、それに従いたい。

(続く)

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◻️192の4の10の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鎌田玄渓)

2021-05-10 22:11:38 | Weblog
192の4の10の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鎌田玄渓)

 鎌田玄渓(かまたげんけい、1818~1892)は、 備中松山藩士にして儒学・漢学者だ。
 下道郡新庄村(現在の総社市新本)の生まれ。医師鎌田由斎(毅)の長男。父は、医師にして漢学にも通じる学者であって、幼少より弟玄淑と二人に、厳しく教養を施したらしい。

 1838年(天保 9年)の20歳のときには、大坂に出て、藤沢東がいの塾に通って陽明学を学ぶ。次いでは、江戸に出て昌谷精渓(さかやせいけい)に朱子学を学ぶ。


 翌年には、学がひとまず峠を越えたのであろうか、帰郷して家業を継ぐも、医師を継ぐことはしなかったようだ。


 1843年(天保14年)には、家を弟に譲り、学問に生きようとしたようだ。かねてから、知己(いき)を得ていたのだろうか、柚木玉州(ゆのきぎょくしゅう)や(竹叟(ちくそう))らに招かれて玉島の団平町に私塾・有餘館(ゆうよかん)を開き、近辺の子弟を教える。


 この時、門弟のうちに川田甕江(かわだおうこう)や柚木玉邨もこの頃入門学ぶ。それというのも、玄渓は、甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めたという。かくてその甕江は、江戸では佐藤一斎らの下で学ぶ。学費を含んでの生活費は、蔵書を売ったり、家庭教師をするなどして捻出していたようだ。


 1853年(天保6年)には、備中松山藩が玉島に郷校として藩校有終館の分校を設置することになり、請われて教師となる。
 これには、事情かあってのようで、初めは近江大溝藩の藩儒として100石で登用することで誘われていたのが、備中松山藩の山田方谷との関係で50石待遇の同藩に就職を決めたという。


 1866年(慶応2年) には中小姓に昇り、藩校有終館の督学、藩主板倉勝静(かつきよ)の侍講(じこう)を務める。備中松山(現・高梁市)に移り住んだことで、玉島分校は廃校になる。


 明治時代にはいってからの1869年(明治2年)には、閑谷学校から話が来て、1年ばかり、そこの責任者となって、かつ教えていたという。

(続く)

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○170『自然と人間の歴史・日本篇』本能寺の変(1582)

2021-05-09 19:12:49 | Weblog
170『自然と人間の歴史・日本篇』本能寺の変(1582)

 信長は、毛利輝元の勢力下の備中にある、毛利氏攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するように、これまた家臣の明智光秀を派遣することにした。これを光秀に命令し、自身は上洛し、この日、1582年6月21日「天正10年6月2日」(✳️)は本能寺に宿泊していた。


(✳️)この場合、当該年をどう表記するかは、悩ましい。なぜなら、本ブログで主に用いているグレゴリオ暦で天正10年6月2日を換算すると、1582年6月21日に当たるという。その同じ1582年に、ローマ教皇グレゴリウス13世が、古代ローマ時代に出来たユリウス暦を改良して、新たな暦をつくったことになっているからだ。

 とはいえ、かかるグレゴリオ暦は、現在の世界がほぼ一致して第一のものとして使用している年号(暦法)に他ならず、その意味あいでは「西暦」の域を越え「世界暦」として認められているとの認識から、こちらを主に据えて表記したい。

 以下、一説についていうと、信長に、備中高松城(備中国賀陽郡中島村高松、現在の岡山市北区高松)を囲む秀吉軍の加勢に行くよう(そののち信長も当地への含みあり)命じられた光秀は、かかる情報を入手ののち、坂本城(近江国滋賀郡坂本、現在の滋賀県大津市下坂本)の西方に位置する亀山城(丹波国桑田郡亀岡、現在の京都府亀岡市)を出てからは備中には向かわず、まずは愛宕神社(あたごじんじゃ、現在の京都市、交通の便は、表参道登山口まで京都バス「清滝」下車すぐ)に上り戦勝祈願を行う。


 そして迎えた運命の日の出陣前、これより前本心を打ち明けた重臣以外にも、主だった者に「敵は本能寺にあり」と本能寺に向かう旨を告げたと伝わる。
 はたしてこの寺は、現在とは異なる場所にあって、しかも、石垣や堀を擁する城郭寺院で、それなりの防御力をもっていたという。

 それでも、約1万3000人もの兵士が押し寄せたからには、100人程度の従者で防げる訳は到底ない。しかも、門外に立ち並ぶ軍旗を問うた近習から「水色桔梗」とのしらせが耳に入るや、「是非に及ばず」と慨嘆したのかどうか、光秀の有能さを認めている信長は、もはやなす統べなしと認識したことだろう。かくなるうえは、首を取られる前に炎に巻かれて自害する、その事で死体の形跡をとどめない道を選んだというのが、大方の見方なのだろう。

 よしんば、助かる道があったとしても、極めて限られた状況下しか、思いつかない。いち早く光秀の奇襲を6時間前位までになんとか察知したとしても、その動くを見抜かれるや追っ手が追い付くと考えるのが、自然だろう。しかも、畿内には光秀の軍勢をしばしであれ止める兵力は存在しておらず、安全地帯に逃げおおせるまでには至らなかったのではないかと推察されよう。

 重ねて、光秀にとってつごうの良かったことには、信長の跡取りの信忠も京都内の手に届く場所にいた。こうなると、光秀は労せずして織田家の大黒柱の二人を、味方はほぼ無傷にして討ち取ることができよう、光秀にとって誠に降って沸いたような「千載一遇」の機会が訪れた訳なのだ。


 それもそれ、本拠地からなるべく近道をとって、迅速に京都に入り、不意をつくという戦術である。これだと、山間を歩かないだけに道中で発見されやすいが、そんな場合は斬り捨てて先を急いだという。
 しかして、光秀の軍勢が本能寺を包囲したのは、午前6時頃のことだったから、まだ夜が明けやらぬうちからの「朝駆け」であることも、敵はまだ目覚めていない、それゆえ覚醒して防御を固めるまでにはそれなりの時間がかかろう、光秀軍にとっては都合が良かったであろう。

 
 それでは、元来が慎重な性格であったろう、その光秀がこの挙に至った動機なり背景は、何であったのだろうか。これについては、おそらくは複数の理由なりがあったのではないだろうか。

 それらで後世の者から観ていて、何かしら頷けるものを数えると、さしあたり次の三つを思いつく。その一つとは、1575年(天正3年)頃の信長は、長宗我部元親を四国で使える武将としていた。そこで、元親に四国を「切り取り次第」といい、励ました。そして、これを仲介し、まとめたのが光秀なのだった。

 ところが、1581年(天正9年)の後半にさしかかる頃には、土佐と阿波半国しか領有を認めないとした。心変わりということか。信長は、以前より「天下賦武」に自信をつけており、元親に対しても、言うことが辛くなったものと見える。
 さらに、元親がこれに承知しなかったことがあり、そのことは、それを諫めるために腹心の斎藤利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと旨の記述が、「長宗我部元親記」(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や「南海通記」(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にあるという。

 しかも、2019年には、新たな文書が見つかる。斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した林原美術館所蔵の書状が見つかり、その本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したものではないか、という。

 いずれにせよ、これで光秀の面目が潰れたのみならず、信用が失われただけではない、ひいては自分の現在の地位とて、崩れだしたらはやいのではないかと心配が増すのが流れというものであろう。


 二つ目は、家康を招いての接待に関連しての話として、何かの理由で蹴されるなりの暴力を振るわれたという。その理由を窺わせる一説としては、例えば、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」には、光秀が家康の接待役を解任される前の出来事として、こうある。

 「このたびは、(中略)三河の国主と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。
 これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々の語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。」(ルイス・フロイス「完訳フロイス日本史③安土城と本能寺の変-織田信長編Ⅲ」(中央公論新社)より)


 また、本能寺の変の当日における明智軍の動向につき、一旦西へ向かっていたのが途中で引き返したことにつき、こんな話も伝わるという。

 「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるかを訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主を殺すつもりであろうと考えた。」(同)

 もしそのことが本当なら、その場は主君のやることにてやり過ごしていたものが、振り返ってはやはり許せないと思い直したからではなかったか。その際、かねてから怨恨が重なっていたところでの所業というのでは、たぶん当たらない。
 なぜなら、それまでの光秀は、事あるごとに、一回りも年下の「上様」に対して感謝や忠誠心を公の場で繰り返し述べており、それらが演技というにはかなり唐突なことになろう。

 そのあたりは、たぶんに、かの浅井長政(あざいながまさ)が義理の兄の信長に命令口調で軽んじられることに対して、怒り、反旗を翻したのと、似通っていたのではないだろうか、光秀もまた長政と同様に領民一般に慕われていた面が伝わっていて、そうであればこそ、光秀が自らを頼む自尊心には、信長や長政に劣らず高いものがあったのではないたろうか。

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 かくして、主君の信長を倒した後の光秀軍は、その日のうちに安土城(現在の滋賀県近江八幡市)をめざして進軍するも、敵方武将、瀬田城主の山岡景隆が「瀬田の大橋」(現在の滋賀県大津市唐橋町瀬田の瀬田川に架かる)を焼き落とし、仕方なく坂本城にひきかえす。
 安土城には、信長の金銀財宝などの貴重な品々が蓄えてあるのは、いうまでもなく、光秀としては、これらを是が非でも手にいれ、政治工作や兵を集めるのに役立てなければならない。しかるべく、壊れた橋を整え安土城を落としたのは、本能寺の変から9日目と大きく遅れる、そのことで光秀は相当の時間をロスしたことになったことだろう。

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 それから三つ目としては、2021年2月7日に放映されたNHK大河ドラマの最終回「本能寺の変」が参考になろう、少なくとも、その糸口を与えてくれるのではないか。
 この説によると、信長が光秀に対して、毛利氏の庇護の下にあった足利義昭(あしかがよしあき)を亡き者にすることを命じ、さすがにそれはできぬと思い至った末の謀反なりクーデターであった、というもの。
 こちらは、話としては興味深いものの、これといった真偽を裏付ける書き置きなりが見当たらないので、現状では、信憑性としてはかなり証拠が足らないのかもしれない。

(続く)

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♦️279の11『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとカナダの先住民族、アイヌ民族、オーストラリア先住民族などへの弾圧、~19世紀)

2021-05-08 19:32:34 | Weblog
279の11『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ、カナダの先住民族、アイヌ民族、オーストラリア先住民族などへの弾圧、~19世紀)


 さて、「移民でつくられた国」といわれるアメリカにも、かなりの数原住民がいたことは、様々に言われている。例えば、こうある。

 「もちろん、原住民として、かなり多数のアメリカインディアンが植民以前にこの土地に住んでいた。南西部、つまりこんにちのテキサスあたりからメキシコにかけての中米(mesoamerica)には、かつて高度の文明が支配的であった時代もある。
 考古学者のフレデリック・ピーターソンによれば、15世紀の南北両アメリカは合計1300万ないし1500万の人口をもって、いた、と推定されているし、また、こんにちの合衆国には10万にのぼるインディアンの土墳がのこっている。
 しかし、主としてヨーロッパ大陸からの大規模な移民が、ここを占領してしまった。移民としてアメリカにきたという、事実だけがアメリカ人にとっての共通の経験なのであって、それ以外にアメリカ人をアメリカ人たらしめているものなにもない。人種・民族に関係に、かかわりなく、この大陸に、きた人間がアメリカ人なのだ。」(加藤秀俊「アメリカ人」講談社現代新書、1967)  

 それが、19世紀も後半になってはどうであったのだろうか。こちらも、残酷な出来事に事欠かなかったことが、知られている。しかして、近年の研究を踏まえては、例えば、こう解説されている。

 「西部開拓の終わりは、そこに住む先住アメリカ人(インディアン)およびメキシコ系などの先住入植者の掃討や征服も、完遂されたことを意味していた。西部の先住民は白人による西部の鉱業開発や農業開発に押されて後退を重ねた。
 彼らの生活はすべてバッハァロー(野牛)に依存していた。白人たちがバッハァローの猟場を、あらし、乱獲したために、バッハァローの数はほとんど絶滅に近い状態に、まで激減してしまった。
 連邦政府は、生活手段を奪われた先住民たちを保留地に囲い込んで管理する政策をとった。これに抵抗する者にたいしては。たび重なる掃討戦が強行された。彼らは白人の圧倒的武力の前に敗北を重ねたが、時に相手に大きな打撃を与えることもあった。
 しかし1886年、アパッチ族の指導者ジェロニモの降伏をもって、先住民の武力による抵抗は終わった。さらに1890年、サウスダコタのウィーンデッドニーにおいて、騎兵隊は女性、子ども、老人を主としたスー族の一団のほとんどを全滅させた。これをもって先住民の虐殺も終わりを告げた。」(紀平英作編「アメリカ歴史」上、山川出版社、2019)


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 一方、カナダにおいて先住民族といわれるのは、イヌイットとは北極地方の人々、それにファーストネーションズと呼ばれる北米インディアンの人々、それにヨーロッパと先住民を先祖に持つ人々をメティスという。
 先住民族が暮らしていたカナダに白人たちがやって来たのは、1500年頃てあったという。17世紀に入ると、イギリスとフランスが、この地方に相次いで入植してくる。彼らは、圧倒的な武力で先住民族を圧迫し、植民地をひろげていく。
 1857年からは、カナダとして、同化政策が行われていく。先住民族に対し、資産と公民権を与える変わりに彼らを部族から離れさせ、無理やり白人支配に従わせようというものだ。また、カナダ政府のむき出しの暴力は後ろに退くものの、不平等な条約により先住民族たちの土地は少額で奪われていく。

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 次に、日本では、アイヌの人々の暮らしがあって、さしあたり、17世紀の状況については、例えば、こうあったという。


 「1618~21年ごろに、北海道に渡ってキリスト教の布教をこころみたイエズス会の宣教師、シチリア人のアンジェリスの報告によると、そのころのアイヌは活発な商業交易民で、ヨーロッパと同じような馬をもっているといわれている。そのころのアイヌは、前述したように、河川の流域の聖地であり城であるチャシを中心に統合体を形成している。
 これに対し、北海道南部をおさえていた松前氏は、この段階では、自らの支配する地域を「日本ではない」、「天下」の外と考えていたことも、アンジェリスの報告によって知られるが、やがて松前氏は「蝦夷地」と呼ばれるようになった北海道での交易の独占を幕府に保障され、日本国の境界の特異な性格を持つ大名という立場を固めていくことになる。」(網野善彦「日本社会の歴史」下、岩波新書、1997)


 とはいえ、それよりもう少し前の蝦夷(現在でいう東北・北海道)を見ると、アイヌと倭人・日本人との間に平和が続いていた訳でなない。そこには、既に大規模なアイヌと和人との勢力争いがあった。
 1456年(康正2年)には、アイヌの青年が和人に道南の志濃里(しのり、または志苔)で殺害される事件が起きる。
 背景には、和人は製鉄の技術がありアイヌ人にはなく、アイヌ人は猟に欠かせない鉄製品を、和人から購入していた。ところが、このアイヌの青年と和人とが、マキリ(小刀)の取引で揉めて、和人がアイヌを殺してしまう。
 これがきっかけで、翌1457年(長禄元年)には、アイヌ東部の首長コシャマインが中心となり、和人に対し蜂起する。年来の不公平貿易の不満が爆発したのだ。
 この「コシャマインの戦い」で、アイヌは道南の和人の拠点12館のうち志苔館(現在の志館町)や箱館(現在の函館市)など10館を陥落させる。花沢館(現在の上ノ国町)と茂別館(現在の北斗市)のみが残る。


 しかし、潜在的な武力では、日本側が圧倒的なのであって、花沢館の武田信広(近江武田氏の子孫にて、客将扱い)が、コシャマイン軍を討つ。和人勢力は、拠点の函館を退いて大館(松前)に移る。
 その武田信広については、「その後、蠣崎季繁の養女で、じつは安藤政季(師季)の娘であった人を妻としてもらいうけて蠣季氏をつぎ、近世大名松前氏の祖になった人物である」(大谷直正「北の周縁、列島東北部の興起」、大谷直正外編
「周辺から見た中世日本」講談社、2001に所収)という次第であった。


 それでも、和人間の勢力争いも引き続きあったりで、花沢館に拠った蠣崎氏が有力にならんとしていた。そこへもってきて蠣崎氏は、青森の十三湊(とさみなと、現在の青森県市浦村十三、津軽半島西海岸よ港町)を拠点に日本海交易を支配していた安東氏(現在の青森が拠点)に取り入り、蝦夷の代官となる。
 1593年(慶長4年)、蠣崎氏は、秀吉から蝦夷島首としての朱印を得、1599年(慶長4年)には家康に謁見し、松前姓に改称する。

 17世紀半ばになっても、先に江戸幕府から蝦夷交易独占権を承認されていた松前氏と、これに従属的交易を余儀なくされてアイヌとの勢力争いが頻発すしていた。
 おりしも、アイヌの首長同士では、大きな対立が起きていた。シベチャリ(静内)て石狩から白老あたりまでの西のアイヌ人勢力(シュムンクル)と、静内から釧路あたりの東のアイヌ人勢力(メナシウンクル)との間で、狩り場をめぐっての紛争が起きる。 
 かくて、西のオニビシ軍が、東の勢力のシャクシャイン軍の攻撃を受け、敗れる。


 これに敗れたオニビシ側は松前氏と結んで、シャクシャインに対抗、
1669年(寛文9年)には、シャクシャイン軍は、オニビシ側に味方する松前藩と戦う。
 その際には、全アイヌの大同団結を全アイヌモシリ(アイヌ語で「北海道」をいう)に呼びかける。


 かくて、両者は激しく戦う、これを「シャクシャインの戦い」と呼ぶ)。これは手強いとみた松前藩は、シャクシャインと和睦する。それもつかの間、油断したシャクシャインを酒宴の席で、毒殺する。アイヌ側は、総崩れとなる。
 以降、アイヌに対する松前藩による収奪や搾取が続く。

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 今度は、オーストラリア大陸で、どのようなことが起こったかを、簡単に見ていこう。
 1520年代には、ポルトガルの船団が、大陸東部を探検したとされる。当時はヨーロッパで珍重された香辛料などを求める大航海時代だったというのたが、確かなことはわかっていないようだ。
 1606年には、スペイン人のトレスの船団が、オーストラリアとパプア・ニューギニアの間の海峡(現在のトレス海峡)を通過する。

 17世紀になると、オランダの探検家はタスマニア島を発見する。そして、オランダ人がオーストラリア大陸を最初に発見する。その頃、先住民族としてのアボリジニは、500とも700ともいわれる部族に分かれて暮らしていた。
 1770年4月、シドニー湾岸近くに上陸したイギリスのキャプテン・クックの船団は、シドニー湾岸から上陸地を窺ううち、上陸を果たし、その地点をボタニー湾と命名する。蛇足ながら、筆者も21世紀初頭にこの地点に立ったことがあるものの、絶壁、不毛の大地と言えなくもない印象であった。
 1788年1月には、アーサー・フィリップの船団は、シドニーのボタニー湾に到着の後、数キロ北上してポート・ジャクソンに植民地を建設する。
 そこでこの年、イギリス人のアー サー・フィリップが、初代総督によって、大陸東部全土をイギリスが領有すると宣言する。

 一方、現地に住んでいる人々に対しては、圧倒的な武力を前にまるで眼中になかったのではあるまいか。
 1700年代後半には、イギリス政府の後押しによる東海岸から始まった入植運動は、オーストラリア大陸を徐々に内陸部、それに西へ移行していく。現地に元々いる人々に対する迫害は、こうした脅威を受けて西へ南へと具現化していったのであろう。
 1829年には、西オーストラリアも正式にイギリスの領有と宣言される。その後、流刑者ではなく純粋な開拓民による植民地移住が認められ、1836年にはマレー川河口に南オーストラリア植民地が形成される。
 それからは、イギリスから入植する者が日増しに増えていく。そのうちには、羊の飼育による羊毛の生産や鉄鋼石の採掘、それに19世紀半ばのゴールド・ラッシュがあったりで、植民に拍車がかかる。
 そこでイギリス政府は各植民地に、イギリス式の憲法や議議会をつくって、植民地支配を固めていく。



(続く)


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◻️234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

2021-05-07 21:08:05 | Weblog
234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

 阿部知二(あべともじ、1903~1973)は、勝田郡湯郷村大字中山(現在の美作市中山)の生まれ。父は、中学校の教師。生後2か月にして父の転勤で島根へ、さらに9歳の時には、姫路へ転居したりで、落ち着かない日々であったろう。その姫路で姫路中学(現在の姫路西高校)から第八高等学校(現在の名古屋大学)へと進む。

 さらに、東京帝国大学英文学科に入学してからは、文学熱が増していく。1930年(昭和5年)には、雑誌「新潮」に「日独対抗競技」を発表する。そして迎えた1936年(昭和11年)には、代表作の一つ、「冬の宿」を発表する。その一節を紹介しよう。

 「私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。」

 その後も次々作品を作っていたらしいのだが、戦争中は軍部との関わりを深くする。ある日、召集令状が届いて、入営するしかなかった。陸軍部報道班員としてジャワ(インドネシア)に行く。そこで、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また日本にとって都合の良くないものを没収したりする仕事の体験をする。

 戦後は、戦争に加担したことを恥じたらしい。一転して進歩派として左傾化していく。

 ちなみに、「冬の宿」は、左翼運動退潮後の知識人の混迷を浮き彫りにしたものであった。その戦後になってのあとがきには、こんな話がなされている。


 「また、これを書いた昭和十一年といえば、それが二・二六事件の年だったといえば、もはや多言を必要としないだろう。大正末から昭和初めへの恐慌から抜け出ようとする日本は軍事體制というものをしだいに取ってきた。そのとき、あらゆる進歩的な運動や思想がむごたらしく踏みにじられた。そのようなことにかかわりなかった私のようなものにも、いいようのない暗い気持を、それらの光景はあたえた。一方、皮肉なことには――軍需景気というようなものであろうか――消費的な生活はかなりはなやかになってきており、しかもそれが眼前に見る二・二六事件のようなものを同時に伴っていた。その矛盾は心をいためつけた。また眼を未来に向けようとすれば、――私は歴史的な眼を持っていたのでないから、ただ漠としてしか感じなかったのだが、何か恐るべきことが起るという豫感があった。(中略)
 私は、こういう作品を書いてから二十年ほど過ぎてから、ようやく、現実というものを、こういう作品のように傍から感覺的に心理的に見るだけでは、人間らしく生きたということにならず、私たちは現實の中に生きながら、すこしでもそれをあらためてゆくようにするべきであり、文學はそのようなことと無関係であるはずはない、と思うようになった。まったく鈍いことであった。」(「冬の宿」の、戦後の「あとがき」より)


 戦争下の長編「風雪」(1938~1939)にかけては、ファシズムに対する自由主義の立場からの抵抗を示す。


 戦後になっては、他の自由主義作家と同様に、それまでにたまっていた思いの発露を得て、さぞかし奮起したのではないだろうか

 かくて、社会主義者というのではない、自由主義者として。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。

 この間、メルヴィルの「白鯨」やブロンテの「嵐が丘」の翻訳を手掛けるなど、多彩な活動で一世を風靡(ふうび)したようなのだ。1971年(昭和46年)。食道がんになって、その翌年4月に退院するも、2年後に再発する。そんな中でも、5月から哲学者の三木清を題材にした「捕囚」(未完)を口述筆記するという具合で、最後まで創作に取り組んだ、不屈の人であった。

(続く)

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新◻️265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

2021-05-07 09:31:43 | Weblog
265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)

 尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)は、明治から大正にかけての歌人、国文学者、書家。本名は八郎という。津山市田町の旧津山藩士、北郷家の生れ。三男であり、家庭環境は学問に理解があったのではないか。上京して、東京府立一中学校に入る。在学中に、旧津山藩の尾上家を継ぐ。東大国文科を卒業する。


 東京女高の教師から学習院などの教授まで歴任していく。1895年には、落合直文のあさ香社に加わる。1902年には、金子薫園と結んで叙景詩運動をおこす。一説には、「明星」と対立する。1905年には、車前草社(しゃぜんそうしや)を結成する。


 作品は、歌集「銀鈴」(1904)、「静夜」(1907)をへて「永日」(1909)から、「日記の端より」(1913)へ。有名なものでは、「つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき」(伊藤城跡歌碑)、「生きぬくきにほひみたせて山ざくら咲き極まれば雨よぶらしも」(津山城跡歌碑)など、温雅にして古典的作風な句が含まれる。

 その作風としては、かなりの小さな字を連ねたりで、そのため、気概がいま一つ、との評価もあったらしい。ところが、1956年(昭和31年)に日展に出した作品(絶筆)、「道」では、「我みちは人のみちとしことならぬ我たどること人はたどらず」の大文字を披露し、実は変幻自在であることを演出して見せた。その生涯に、実に七千余りの歌をよんだといわれ、また書でも一家をなしたあたり、芸術への情熱は限りなく続いたのであろうか。

 今にしてまた一コマ、なにかと人懐っこい表情の写真に映る作者にして、付録として、その作品集「日記の端より」(約600首を収録、1913)から、これぞ楽しい、元気がでる、もしくはほのぼの系のものを幾つかお目にかけようと、書き出してみた、御照覧あれ。

○「みづからの生けりと思ふこの心確かになりぬ海にむかへば」
○「春風に吹かるるごときいと軽きこころを得むと旅に出でしを」
○「さはあらじあるに血湧きしわかき日の顔の色など思ふ夜半」
○「あしたふと口に上りぬむかしわがうたいなれたるよろこびの歌」
○「春くれば心をさなしふくらめる桃の蕾をあさゆふに見る」
○「満員の電車のなかにゆくりなくすこしの席をえたるよろこび」
○「今日もまた昨日と同じ道をゆくこの平凡の中に生くるみ身」

○「よきことはありげなけれどわが明日をわが明日をわが明日として残し置かまし」
○「日を経たる林檎(りんご)の如き柔らかさ今日の心のこの柔らかさ」
○「新しき縁の日向に椅子すえて新聞よまむ冬は楽しや」
 (なお、出所は、「現代歌集」筑摩書房文学体系94、1973による。)

 更に言うと、短歌やその周辺の関係での評論(「歌の変遷」「紳士道の建設と短歌」など)をよくしているのであって、ここでは、その一片なりとも紹介しておきたい。

 「此上に、また従来の自己を無視し蔑如する風を捨てて真面目に自己を描き、自己を発揮して、専ら自己にのみ忠実ならむと欲した。これ自己に忠実なる所以は、真に到達する最良の方便であるからである。
 自己も宇宙の一片である以上は、それに忠実なのは、乃(すなわ)ち宇宙に忠実なる所以、更に宇宙の間に存在する真に忠実なる所以であるからである。
 この故に、真の意味を有する歌には、特に挙ぐべき美がない。しかも、そこに自己がある。その自己は、人によっては平凡であり、人によっては怜りであり、賢でもあり、不肖でもあり、種々様々であるけれども、それは何の煩(はん)にもならない。
 却って、その一々が、平凡で怜りぶらず、不肖で賢者ぶらず、各その風を守って、その感情をありのみに発揮するところに、真に到達する大道が存するのである。(中略)
 つまるところ従来の歌は、美の希求の歌故に、浮世離れがしている。即ち天上の歌である。新傾向の歌は、真の希求の歌、しかも自己発揮の歌である、故に、地上にくっついている。もし前者を、飛行機的といはば、後者は、自動車的とも言えるのである。」(尾上紫舟「歌の変遷」)

 その眼差しというのは、いかにも、21世紀の現代にも通じる絶え間ない息吹きというか、私たちにとって大切なものが何であるかを語りかけてくれているように、感じられる。

(続く)

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◻️171の14『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、早川正紀(早川八郎左衛門))

2021-05-06 11:09:27 | Weblog
171の14『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、早川正紀(早川八郎左衛門))

 早川正紀(はやかわまさとし、1739~1808)は、笠間藩主・井上河内守の家臣・和田市右衛門直舎の二男として、江戸の生まれ。

 幼少期から、泰然風なところがあってらしい。幼名は岩之助。後に伊兵衛、八郎左衛門と改めていく。

 その後、徳川御三卿の一つである田安徳川家家臣の早川伊兵衛正諶の養子となる。
 1766年(明和3年)には、28歳にして、幕臣の早川宗家に跡継ぎが無いため、幕府に許されて宗家・旗本を継ぐ。

 1769年(明和6年)には、勘定奉行所勘定役に出世する。1781年(天明元年)まで恙無く務める。その間、財政、土木上の貢献が大きく、中でも、関東諸国の河川工事に指揮を奮う。1775年(安永4年)には、幕府から某かの報奨を受ける。なにしろ、諸事において「できる人物」であったらしい。

 1781年(天明元年)には、出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)の代官に任命され、赴く。1787年(天明7年)まで務める間には、1783年(天明3年)からの天明の大飢饉に見舞われる。

 それというのも、特に東北地方にあっては、飢饉の規模が甚大であった。早川は、これを人災と捉え、当該幕府領の人々に色々と構えることによりなんとか切り抜けたらしい。その際には、次の「6本の戒」のような訓戒も用いたらしい。

 「深酒をすごすは病を生ずる本なり。言を敬まざるは災いの本なり。
思案せざるはあやまちの本なり。私慾深きは身をころす本なり。倹約ならざるは困窮の本なり。怒をこらえざるは争の本なり。」

 かくて、早川の考えというのは、凶作の対応に留まらず、百姓たちの生き方にまで及んだという。

🔺🔺🔺

 1787年(天明7年)には、羽州尾花沢から作州の久世に転入してくる。以来14年の間、同地の代官職にあり、この間、備中笠岡代官と倉敷代官も兼務する。

 かかる時期には、「久世条教」を著し、その中で、主に農民向けに、次の七つを奨励している。

 その一は、勧農桑(のうそうをすすむ)。その二は、敦孝弟(こうていをあつくす)。その三は、息争訟(そうしょうをやむ)。その四とは、尚節倹(せっけんをたっとぶ)。その五とは、完賦税(ふぜいをまっとうす)。その六として、禁洗子(せんしをきんず)。その七は、厚風俗(ふうぞくをあつくす)。」とある。

 これらのうち3番目の「禁洗子」においては、次のような注釈が付けられている。

 「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。」

 「家業を勤め倹約を専らにするは天の道に従うなり、天は人の為に万物を生き生き給うなり、凡そ人一萬あれば其一萬の用をなす者を生ず、此故に分をこえて奢(しゃ)をなし、天下の物を余計に遣(つか)い捨つれば、それ程よ天下の用不足する理なり、(後略)」(早川八郎差衛門「尚節険」、野村完六編集「美作郷土読本」・中巻、津山高等女学校国語科発行、1937より引用)


 「善き事を見れば必ず行え、過を聞けば必ず改めよ、能く其身を修めよ、(中略)能く廉介を守れ、能く施恵を廣くせよ、能く寄託を受けよ、能く過失を規せ、能く人の為に謀(はか)れ、能く衆の為に事を集めよ、能く闘争を解け、能く是非を決せよ、能く利を興し、害を除(の)け、官に居ては職を挙げよ。」(早川八郎差衛門「徳の条目」、同前掲書)


🔺🔺🔺

 1801年(享和元年)には、またも転出する。早川が63歳から70歳まで(1801年~1808年)までの間は、武蔵の久喜(現在の埼玉県久喜市)で代官を務める。同地は、約10万石の幕府直轄領である。
 そして、ここでも建学、治水、公平な裁きを主にして、民生の向上に取り組む。
 具体的なところでは、郷学遷善館の設立(1803)や、利根川や荒川の治水、また、サツマイモの栽培を奨励している。
 その仕事人生において、富貴を求めることなく、また常に人の人たるを心掛けた人物として、官僚としても一世人としても、並外れた見識そして心情を兼ね備えていた、当代希有の人であったのではないか。


(続く)


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◻️28の2『岡山の今昔』身分統制令(1591)、人払い令(1592)と三国

2021-05-05 21:11:40 | Weblog
28の2『岡山の今昔』身分統制令(1591)、人払い令(1592)と三国


 まずは、遡っての1591年(天正19年)に出された、豊臣政権による身分統制令は、次のような居丈高な内容であった。

 「定
一、奉公人、侍、中間、あらし子に至る迄、去七月奥州へ御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切をくへからす、若かくし置ニ付てハ、其一町在所可被加御成敗事、
一、在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩之者、そのものゝ事ハ不及申、地下中可爲御成敗、幷奉公をも不在、田畠をもつくらさるもの、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、爲町人百姓かくし置ニおゐてハ、其一郷同一町可爲曲言事、
一、侍小物ニよらす、其主に暇を不乙罷出輩、一切不可拘、能々相改、請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、前之王の所へ可相渡、若此御法度を相背、自然其ものにがし候ニ付てハ、其一人ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへ、三人の人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、
右条々所被定置如件
天正十九年八月廿一日 ○(秀吉朱印)」(引用:北島万次 「豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「小早川家文書 天正十九年八月二十一日 豊臣秀吉朱印状」」2017年 平凡社)

 この法令に対しては、その通りの名前がある訳ではなく、あくまで通称であり、また内容からしても、一説には、身分を統制するというよりは、朝鮮侵略に備えて、兵力と兵粮米の生産者の数量の確定を目指したものであるとも、言われている。そのような考えの元に、戸口調査が翌年に行われた。結果として、これが、兵農分離の確立、体制化の端緒となったのである。
 これに関連して、「人掃令(ひとばらいれい)」というのがあって、こうある。

 「急度申し候
一、当関白様従り六十六ケ国へ人掃の儀仰せ出され候の事。
一、家数、人数、男女、老若共ニ一村切に書付けらるべき事。付、奉公人ハ奉 公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ書出すべき事。(中略)
  天正十九年三月六日」(「吉川家文書」)

 こちらは、1592年(文禄元年)3月頃に、関白豊臣秀次の指令によって全国一斉に行われた家数・人数の調査とセットで考えるのが、一般的だ。
 そこでは、一村ごとに家数・人数・男女・老若を割り出し、その際には、奉公人・町人・百姓・職人・僧侶・神官などの身分にも注意が払われている。
 これを実際に行うのは各地の大名などであり、例えば、毛利氏の領国の場合、家ごとに男女別の人数を数え、男の場合は年少者や高齢者などを注記することによって、実際に夫役(ぶやく)徴発に耐えうる人数とを明らかにしているのであって、さしあたり朝鮮侵略向けにどのくらいの幅で動員できるかを割り出そうとしたことになっている。

(続く)

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◻️17の2『岡山の今昔』「三好清行意見封事十二箇条」(914、備中下道郡)

2021-05-05 09:59:11 | Weblog
17の2『岡山の今昔』「三好清行意見封事十二箇条」(914、備中下道郡)


 当時の都・京都では、朝廷や取り巻きの貴族、関係する寺社なども、地方からの年貢や役務に頼ることで、生活が成り立っていた。そのことの変化をうかがわせる文書が、現地の下道郡の国司から届け出されていた、醍醐(だいご)天皇の求めい応じて書かれたその文書には、こうある。

 「臣(三好清行・引用者)、去る寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここに彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(660年・引用者)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣わし、救はんことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひ、将に救の兵を出さんとす。 (中略)

 路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(中略)


 天平神護年中に、右大臣吉備朝臣(吉備真備(きびのまきび))、大臣といふを以つて本郡の大領を兼ねたり。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔に課丁千九百余人ありき。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣、彼の国の介たりし時に、(中略)大帳を計ふるの次でに、その課丁を閲するに、七十余人ありしのみ。

 清行任に到り又この郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云はく、「一人もあることなし」と。

 謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、また既にかくのごとし。一郷を以てこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。」(「三好清行意見封事十二箇条」)


 これの中程に、「路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ」とあるように、飛鳥時代には2万人もの兵を集めることができたという。
 それが、奈良時代後期の天平年間になると、この村の課税可能な人口が「課丁千九百余人」に成り代わり、さらに今では一人もいないことになっている、というのだ。

 続けて、朝廷に対して、こう建言しているという。

 「意見十二箇条(中略)
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる。(中略)」
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
  延喜十四年四月廿八日  従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行 上る」

 これらのうち、3番目の「一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる」との下りに、主張のエッセンスが宿されているようであり、これだと、「今では国司は役立たずの土地・人民台帳持っているだけで、富裕な者はますます土地を広げ、利益を上げることになっている。これは、国家の損失というに止まらず、国司の職務遂行を妨げることにもなっている」と結論付けている。

(続く)

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新◻️211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

2021-05-04 22:29:43 | Weblog
211の12『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、久原茂良との清田寂担)

 久原茂良(くはらもりょう、1858~1927)は、洪哉の二男として津山で生まれる。1884年(明治17年)、東京大学医学部を卒業する。順天堂病院等で臨床研究を行う。1886年(明治19年)に、津山に帰る。そして、帰郷 津山二階町(現在の津山市二階町)で医院を始める。

 やがて、苫田郡(とまたぐん)の医師会の初代会長に就任する。そればかりか、1919年(大正8年)には、津山町西寺町大円寺境内に、診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれる。なお、彼の他に、津山市内で開業していた宮尾守治と宮城守治郎も参加してのことである。

 これの由来だが、1918年(大正7年)、津山町の天台宗大圓寺住職の清田寂担(きよたじゃくたん)が、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施するも1918年(大正7年)、津山町大圓寺住職清田寂担、町内極貧家庭百余戸に浄財による施餅を実施する。

 その悲惨な状況に驚嘆した結果、彼らの病を救うべく、無料診察事業の創設を発願する。1919年(大正8年)大圓寺元三大師堂に「津山施療院」を設立する。

 その志に至った理由については、こうある。

 「社会は貧富の懸隔日に甚しく、富めるものは富むに任せてしゃしに耽(ふけ)り、遊惰安逸止(とど)まる処(ところ)を知らず。貧しきものは衆を恃(たの)んで反抗是れ事とす。
 斯くて貧富賤日に相反目乖離して、偶々落伍者中病を得て医薬を求むるに道なきも、世人の多くは棄てて顧みざる状態であって、国家の前途は真に寒心に勝へないものがある。
 此秋(このとき)に当って宗祖最澄(さいちょう)阿闍梨(あじゃり)の真精神と其の事業を現代に復興し、行路難に悩める落伍者諸君の肉体的疾患を除き、然る後、徐(おもむ)ろに上下和順・貧富相扶の常道に復帰するの一助たらしめんとするのが、本院創立の主眼である。」(「衛生相互新聞」)

 しかして、当面の資金には、伝教大師最澄千百年の遠忌にあたり募金で集まった浄財の1割を充てることにしたという。

 1922年(大正11年)になると、新たに児童健康相談部及び助産部を設ける。1923年(大正12年)になると、さらに施薬救療部、児童健康相談部、産院部、窮民救済部を開設する。1925年(大正14年)からは、岡山県より補助金を受ける。その精神と事業の幾らかは、戦後に社会福祉法人広済会に引き継がれていると聞く。

 これにあるように、この施設では、人民に奉仕する医療を目的する。貧しい人からは治療費をもらわないなど、地域の医療の発展に貢献していくのであるから、久原医師らの現場関係者の苦労は並大抵ではなかったのであろう。

(続く)

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新◻️192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

2021-05-04 21:37:06 | Weblog
192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

 衣笠豪谷(きぬがさごうこく、1850-1898)は、窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。名は済という。いつの頃からか、号が、備中の景勝地の豪渓にちなんで豪谷と号したという。

 幼い頃から、絵に興味があったという。たぶん、家族の後押しが必要であったのでは。まずは、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学ぶ。ついで、興譲館に入って阪谷朗廬に師事する。

 それでは満足できなかったのかもしれない。その後、江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学ぶ。
 それでも、安住できなかったみたいだ。今度は、京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねていく。1872年(明治6年)になると、絵画研究のため清国に渡る。

 ところが、である、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中するのであった。1876年に帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめる。内務省、農商務省にも勤務するかたわら、「清国式孵卵図解」を著す。

 ほかにも、耐火煉瓦の研究、水蜜桃の栽培などの紹介にも努める。こちらの両者については、こんな話が伝わる。

 「画家で名高い衣笠豪谷翁が、農商務省の役人だった時分、中国を漫遊せられて、あちらで初めて食べられた水蜜桃が、余りに美味なので、帰朝の際、その種をそっと竹の杖の中に忍ばして持って戻られ、岡山で植えられたのが、そもそもの発端だというのだ。
 この説を信用すべき理由が外にもある。(中略)やはり、衣笠豪谷翁の達識に由縁しておることは、間違いなき事実として認められておる。あちらの瓦の精雅なるに驚ろかれた翁は、直に瓦の研究を思いたたれ、色々製作に腐心した末か、中国製の耐火煉瓦を参考として沢山に持って帰えられた。
 それを伊部の職人に見せ、自ら指図して、和気郡焼山の白亜を原料として模造品として焼かされたものである。不幸、この計画は失敗に終った。
 しかし、耐火煉瓦というものに対する知識の啓発と、企業心の刺激とには、大いに力があったといわれておる。
 つまり、三石煉瓦の誕生には、これが産婆役となった理なのである。こんな具合に、豪谷翁という人は、周密な観察力を以て、日本の文化の上に何物かをもたらそうと常に試みたのである。」(岡長平「岡山の味風土記」日本文教出版、1986、岡山文庫121)

 かくて、絵の作品には、1881年に開催の第2回内国勧業博覧会には、「豪渓ノ真景」「花卉禽鳥ノ図」を出品する。ネットでは、「桃花春水図」に出ている桃の枝がかなりの細やかさで描いてある。同じネットにて、他にも、「芭蕉に鶏図」(1896、岡山県立美術館蔵)や「牧牛図」(1896、旧野崎家住宅)が簡易的に拝観できるようだ。

 と、まあ、慌ただしいかの人生を繰り広げるも、48歳の諸事半ばで亡くなったのはいかにも惜しい。察するに、天才たる者は、あれもこれもで鋭敏な頭脳が立ち止まり、休むのを許さなかったのではないだろうか。

(続く)

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