中学2年にわたしは突然ラジオ少年になった。鉱石ラジオを兄に倣って作ったのがきっかけだった。同級生にラジオ少年がいた。藤井君だ。
彼は顔つきも大人びており、早熟なラジオ少年で中学2年で既にハムを開局していた。自宅に遊びに行き、窓際にある彼の部屋に呼びかける。
「藤井君」と道路沿いから窓に向かって呼びかけると窓ががらりと開く。部屋に入り込むと彼は「CQ CQ」とコールを送っている。机の上には送信機や受信機が設置され、屋根の上には背の高いアンテナが立っている。机の前には世界中のアマ無線家との交換カードが貼ってある。
わたしも見よう見まねでラジオを制作することにした。藤井君から中古の真空管やシャーシなどを買ったりしながら5級スーパーならぬ8級スーパーに挑戦した。
なぜ8級スーパーにトライしたのか、このあたりにわたしの当時からの性格が表れている。つくるなら並みでないものをつくりたい。基礎知識のほとんどないわたしはスーパーヘテロダインの階数が多いほど優秀な受信機が作れると思い込み、中間増幅ように3段も積み重ねるという、今にして愚挙を試みた。
ダブルスーパーヘテロダインが現在一般的だという。発想としてはトリプルスーパーヘテロダインに近いところまで迫っていたのかもしれない。しかし無線の知識がそこまで全くと言ってよいほどに至っていない。どのようにして8級スーパーヘテロダイン受信機を設計し作り上げたのかは忘却のかなただ。
学校に行く以外はほとんどの時間と小遣いを費やし、ハンダごてを握り奮闘し完成した。完成品は自己満足の域をでない代物だったがその後長い間愛用した。
当時のわたしは街でテレビ受像機の壊れたのが家先にごみとして出してあるともらい受け、真空管や部品などを集めて喜んでいた。そしてラジオ少年がこうじて大阪箕面市に創立したばかりの箕面高校に進むところが香川県の国立詫間電波高校に進学することになる。
ある日にぱらぱらとめくっていたハム関係雑誌「電波と受験」のページに高校募集広告が飛び込んできたからだ。
人生の分岐点は意外なところから訪れ、それがその後の人生すごろくを大きく変えることになると実感する。思い返してみると岐路はそんなにあるものではない、せいぜい10か20ほどではないか、そのうちの一つが藤井君との出会いだった。
その後わたしは四国の詫間電波高校に行ったため以降60年藤井君とは合っていない。どうしているのだろうか。