https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57097 にボクについて、そういう使い方があるのかと思った。関西のボクはモボと芸人に源流があるとは、そして厳しい批判をそらすときに使う韜晦の悍ましさを感じさせるとある。なるほどそう言われてみるとそうかな。
それは一人称の問題、それから「笑いと涙」の問題です。
「ボク」と称して、謝罪の会見を行っているのですが、これがもし政治家の謝罪会見だったら、あるいは一般企業で発生した不祥事であったら成立するでしょうか?
関西では「おのれ」「おんどれ」「われ」いずれも相手を指していて、しかも威圧する。しかしもとは「おのれ」とは自分のことである。つまり本来1人称だが二人称に使われる。
他には「自分どこいくんや」の自分は相手の事で二人称となる。「僕いくつになった」もおなじ。
関西だけかと思うとそうではない。関東でも手前を相手のことにつかって「てめぇ」と言い、しかも威圧する。
しかし、私もその変形の「わい」も拙者も「みども」も2人称としての使われ方はしない。かつて女性が使った「うち」も同様だ。
日本語はある種の1人称が二人称にも使われる。こんな使われ方は世界に例をみないのではないか。これはどう考えたらいいんだろう。
「おのれ」「おんどれ」「われ」「僕」は本来は己、我で自己や自我、公僕という熟語で使われ、個々の人をさす客観的な言葉と理解できる。さらに中国からの外来語である。中国からの外来語はそのように変化するのだろうか。しかし「私」は二人称に変化しない。中国からの外来語はそのように変化するという説明はなりたたない。
「私」は確かめたわけではないが明治以前には話ことばでは使われていないのではないか。話し言葉で使われた「おのれ」「おんどれ」「われ」「てまえ」は1人称と二人称双方の意味に使われ、話し言葉ではない私は双方の意味では使われない。
あるいはこうも考えられる。「おのれ」「われ」「てまえ」は本来の個々人の霊魂を指す言葉で、「私」より本質的な自己を指す。「私」は語源からは稲を囲むことで財産をあらわす。これは本来自己を指す言葉ではないので1人称と2人称の双方の意味に使われることにならない。
そうすると本来自己を指す言葉は何故1人称と2人称の双方の意味に使われるのか。日本人は自己も他者も一体のものとして考えていたのではないかと思うがまだ検証はできていない。
2019/02/01追記
貴様も不思議な使われ方だ。元来は丁寧語、尊敬語だが、キサマ!となると親しみや場合によっては威圧、恫喝になる。これってどう説明できるのかな。
2019/7/3 追記
英語ではなんの迷いもなく I と書くが日本語では相当する言葉がない。内容によって使い分けが必要になる。それにしても適当な言葉がないと感じる。
2019/10/18 追記
「おのれ」「おんどれ」「われ」は相手を指す。この言葉、言霊は自分自身に深く入り込む言葉だから、聞いた相手の心にも「自分自身」の中に深く刺さる。その効果を無意識に狙ったものではないか。
2015-12-18初稿
2019/02/01追記
2019/7/3 追記
2019/07/29 追記