長男ドミトリーは、冤罪のシベリア送りを原罪を償うためにという理由で納得する。この男の宗教観は、世界に不幸な子供達が存在する事が自らの罪と考える原罪意識をもつ男で、イワンと対照的に自分の罪として引き受けてしまう。長男、次男で全く異なるタイプに描かれるが実は彼ら兄弟の不幸の原因は両者ともに深層に漂う罪の意識なのだ。直情型で高潔の長男と知性型の次男は表出の仕方が異なるだけで根キリスト教に深く影響されている点では同じだと言える。
ゾシマ長老がドミトリーに拝跪するシーンがある。原罪意識をもつドミトリーに高貴な精神を見出すとともにその原罪意識故に凄まじい苦悩を予知して共感する複雑な思いがこの跪拝だろう。父親殺しの冤罪を甘んじて受けるのも、乱痴気騒ぎにうつつを抜かすのも、餓鬼子の夢をみるのも、この原罪意識から出ている。ゾシマ長老が臨終に挑んで周りを囲む僧たちに向かって罪びとであることを強調するが、ドミトリーがその現在意識を強く持つことをみぬいて尊敬の念からの跪拝だ。
もう一つはゾシマ長老がドミトリーにかつての自分、乱暴者で部下を殴ったり決闘したりする若き日のゾシマを見たのだろう。
「美の中じゃ、川の両岸がひとつにくっついちまって、ありとあらゆる矛盾が一緒くたになっている。・・・おそろしいくらいの秘密が隠されているんだ。・・・理性には恥辱と思えるものが、こころにはまぎれもなく美と映るもんなんだよ。・・・美の中じゃ悪魔と神が戦っていて、その戦場が人間の心ってことになる」 pxxx
グルーシェニカに対する恋情を美と表現している。この場合の美は結末が常に悲劇的なオペラの美を思い浮かべると理解しやすい。あるいは美を精神の興奮と捉えると、「薔薇の名前」では次のように非常にわかりやすく語られている。
「快楽以上に人間を興奮させるものが一つだけある。それは苦悶だ。 真っ赤に灼いた鉄を押し付ければ真実がつくり出せると思い込んでいる者たちの群れのなかに、わたしも入っていたときがあるから。・・・そうだ苦悶の欲望というのがあるのだ。・・・彼ら(悪人たち)の弱さが聖者たちの弱さと同じだと知ってしまったからには」 「薔薇の名前」 上巻p100
精神の高揚つまり美の瞬間での悪魔と神の相克は次の文章にも見ることが出来る。
「おれはあのとき三秒から五秒くらい、恐ろしい憎しみを感じながら相手をにらんでいた。・・・気が狂うほどの激しい恋と、紙一重の憎しみをかんじながらだ!・・・お前にはわかるか。ある種感動の極みでも人は自殺できるってことが」
「アリョーシャ、じつはこの二ヵ月間、おれは、自分のなかに新しい人間を感じているんだ。・・・もしあの雷みたいな一撃がなかったら、ぜったいに外に姿を現すことはなかったものさ。恐ろしいことだよ。」 p229
雷みたいな一撃でそれまでの放蕩の人生が人類愛と、人類の愚行への償いにめざめる。「あの雷みたいな一撃」は次の餓鬼の夢をさすのか、あるいはフョードル邸の事件をさすのか、あるいはまた・・・よくわからないところだが。
「どうしておれはあのとき、あの瞬間、餓鬼の夢なんて見たんだろうな?「どうしてああも、餓鬼はみじめなんだ?」あれが、あの瞬間、このおれの予言になったんだ。餓鬼のために、おれはいくのさ。だって、だれもが、だれに対しても罪があるんだから。すべての餓鬼に対してな」 4巻 p229
ドミトリーは夢で焼け出された子供を抱く母親を見て自らの原罪に目覚め、それを償うために冤罪も受け入れることにする。焼け出された子供の苦悩を冤罪によるシベリア送りの苦役で償おうとする。ドミトリーらしい短絡とも読めるが、カテリーナが評するドミトリーの高潔性とはこのように親子の苦しみを感じ、我が原罪と結びつける彼の人柄にある。
これはドミトリー自身が幼児期の母親の家出という子どもにとっては最大の悲哀を経験し、父フョードルが彼を下男グリゴーリーに預けっぱなしでその存在すら忘れるほど、一向に面倒を見てもらえない自らの幼児期の悲哀とが深層で重なりあってみた夢だろう。とすると彼の子供時代の不遇は自らの罪が因となっていると感じる原罪意識であり、前世、今世、来世をつなぐ「因果応報」という仏教的な思想がほのかにしてくる。