ニメス湖は南米アルゼンチンの南端カラファテにある湖で、朝6時にこの湖をホテルの部屋から見ると夜明け直後でほの暗いそらに茜色の雲がうっすらとかかり、覚醒前の湖はさざなみさえ見えず、手前の街はまだ熟睡している。
見とれているうちに荘厳なシンフォニーの序章と例えるのがふさわしい、冷涼だがすこし温かみを含んだ荘厳な色に染まっていく。どこかで見た懐かしい夜明けだ。しかしどこでみたのか思い出すことはできない。
「どう、この世の人生は苦労は多いがこんな景色に出会うとまんざら捨てたものではないだろう」と隣のテラスからこの景色をみていた初老の男性が語りかけてきた。不意を打たれて答えに窮していると
「俺はあんたがこの景色にみとれているのをみていて嬉しくなった。それで声をかけて見たんだ」
何者かよくわからないこの男に適当な返事も見当たらない。
「あんたはこの景色がどこかでみた景色に似ているか、名画のなんとかに似ていないかなどを考えていただろう」
図星だ。
「そんなことはやめたほうが良い。ただ心を空っぽにしてこの光景を愉しめばいいんだ。言葉で表現しようとも思わないほうが良い。光景は音楽と同じで言葉とは次元の違うものだ。しかし時間の助けを借りれば自ずから言葉は出てくる。時間が必要だ」
それだけ言うと男は出窓から姿を消し部屋に戻った。
朝食を取りにレストランへ降りていき、さきほどの男がいるかと見渡すが姿は見えない。さらに二泊するが出会わなかった。
チェックアウトが終わったあとに思い切ってスタッフに203号室の隣のおじさんはもう発ったのかと尋ねてみた。
スタッフは一瞬怪訝な顔をして、とまどったスマイルを浮かべた。何かいいたいが言えないとでもいったふうだ。それを見てひょっとしてあのおじさんは・・・幽霊ではないかとの想いが脳裏をよぎる。
「お隣のおじさんは絵描きさんで夏の間はずっとニメス湖の絵を書いている方なんです。ときどきテラス越しに皆さんに突然話しかけるので有名なんです。皆さん驚かれるようです」
さてこの時2007年から10年経った。しかしこの光景の美を表現する言葉はまだ見つかっていない。