ガルシア・マルケスの 『百年の孤独』 をネトフリ映画で観た。面白いのだが一方的な見解も入り込んでいて、内容があざといなとの感想も持った。また同時に出版界やノーベル文学賞選考委員会のあざとさも。なぜ、あざといな、との感慨を持ったのか。『百年の孤独』の内容を紹介することもしない、従ってまとまりはないのだが記してみた。
この『百年の孤独』の原稿を書き上げたとき、ガルシア・マルケスは借金に追われ、 出版の見通しもなかった。(ハリーポッターもそうだ)だが、出版されるや 、そしてさらにノーベル賞受賞で予測不能な熱狂 を生んだ。まるで 物語そのものが運命を支配 したかのようだった。 誰も計算できなかった奇跡つまり不条理 が、文学の世界では起きるのだ。
文学が 不条理な力 を持つのは、物語が 人間の内面そのもの を扱うからだろう。社会は表向きどれだけ条理的に見えても、 人間の心は不条理 だ。感情、愛憎、孤独、欲望、偏見すべてが論理とは無縁の世界に属している。文学はその 心の予測不能な部分 に触れるからこそ、人々の心を動かすのだがその裏でほくそ笑む出版業や映画業界のあざとさも見え隠れする。
出版業界の 商業主義的条理 と、 文学の不条理な力。この両者は対立するようで、実は 不可分の関係 にある。出版社は 売れる本 を求め、マーケティング戦略を立てるが、 計画的に売れる本は存在しない。物語が心に響く瞬間は、誰にも 予測できない不条理な現象だ。潜在的な迎合や偏見が文学や映画という免罪符のもとであたかも真実の如く喧伝されることも多い。風とともに去りぬ」は典型だろう。この「百年の孤独」も魔術的幻想の名の下に表現されるがおそらく歴史の真実は違うところにあるような気がする。
このバランスは、人間社会そのものの 縮図 でもある。 法や経済、制度 がすべてをコントロールしているようで、歴史の中では 戦争、災害、革命、技術革新 という 予測不能な出来事 が常に起こってきた。ロシア侵攻をみよ、 条理だけでは人間社会は回らず、 不条理だけでも崩壊する。両者がせめぎ合いながら、 ギリギリの均衡 を保っているのが現実だ。
物語は、 予測不能な感情 を持つ人間が読む限り、 不条理な形で響く。誰もが期待していなかった作品、虚構だろうとうっちゃっていた作品が 歴史を動かす瞬間が訪れる稀なケースがある。これこそがある種の文学の奇跡であり、 条理と不条理が共存する社会 の 本質的な力学なのだと思う。条理と不条理。この二つの力が、常に緊張関係にあるからこそ、 人間社会は動き続ける。文学もまた、この 危ういバランス の上に立っている。
すべてが 計画通りに進む社会は、 想像力と自由を失うだろう。一方、すべてが 不条理に支配される世界 は、 無秩序な混沌 へと陥る。だからこそ、 条理と不条理の間 で 揺れ続けることこそが人間の宿命なのかもしれない。「華麗なるギャツビー」の最後の文はこの辺りの感情に呼応する。
文学はその バランスを象徴する存在 だ。 商業主義の条理 を受け入れながら、「百年の孤独」の不条理な物語のあまりの偏見に満ちた物語を疎ましく思い、かつ面白がって読む。これが人間社会の宿命であり、私たちが 物語を必要とする理由 なのだろう。
考えてみれば、 人間社会そのもの が 条理と不条理のせめぎ合い によって成り立っている。どこかに 完全な秩序 を求めて制度を整え、ルールを設け、計画を立てるのが古来からの人間の習いだ。しかし、現実には、どれだけ周到に計画を立てようとも、 思いがけない出来事 が常に起きる。これを「不条理」と呼ぶ。人生も社会も、そして古今の文学も、 条理と不条理の危ういバランス の上に立っている。だが、そうしたバランスが成り立つのは、 合理性への信頼と予測不能な偶然への諦観 が共存しているからだろう。そう、ロシア侵攻の理不尽を諦観に持っていく心が世界を覆い始めているのがその証だ。
人間は秩序を愛する。合理的で計画的な生活、数値化された成果、安定した制度。 条理 とは、 予測可能な未来 を生み出すための人間の知恵 と言える。 市場原理、法律、行政、そして 出版業界の商業主義 はすべて、この 条理の世界に属しているように見える。出版業界を例に考えてみよう。書店に並ぶ本はすべて 売上予測 に基づいて配置され、受賞作は マーケティング戦略 によって拡販される。ノーベル文学賞の発表の瞬間から、出版社の 販売計画 が動き始める。どの本を多く刷るか、どの国に何冊輸出するか、いくらで売るか、すべてが 条理の支配する世界 の出来事だ。
文学は、 一見条理的に見える世界の中で 不条理な力 を発揮するものだ。計画的に売り出された本が 必ずしも成功するわけではない。予測されたベストセラーが まったく売れず、逆に 誰も注目していなかった作品 が内容の真実性に遠くても思いがけず心をつかむことがある。
こうして考えてくるとあざとい商業主義が見え隠れしようとノーベル文学賞は政治的すぎると非難されようと爆発的に支持される作品はそれなりのバランスの上に奇跡として成り立っているのかもしれない。