まさおレポート

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紀野一義の研究 2 あるブログで氏のリアルに迫る

2021-02-23 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義には多くの著作があり、講演録もyoutubeで多く残っている。しかし他人が氏の晩年の日常を書き留めているブログがあることを発見した。http://www.smile-stone.com/noda-blog/index.htmlです。このブログには氏の晩年が目に見えるように記されている。

最近、紀野先生の「生きるのが下手な人へ」という本が復刊されたが、その冒頭の一章のテーマは「人間いかに生きようが、何をなそうがなすまいが、たいした違いはない」ということであった。
山本周五郎の「虚空遍歴」という作品が紹介されているのだが、周五郎の座右の銘である「人間の価値は、何をなしたかではなく。何をなそうとしたかである」に対する紀野先生の山本周五郎へのメッセージでもある。山本周五郎は、紀野先生のメッセージを知り、是非紀野先生に会いたいという電話をなさったが、会う直前で病に倒れられてしまった。

「人間いかに生きようが、何をなそうがなすまいが、たいした違いはない」は氏のしばしば引用される法華経の「唯仏与仏」から来る考えと思われる。たいした違いのある人生とは「唯仏与仏」だけなのだとの意味の裏返しでもある。

紀野先生は、その通達も無視して、農民のためにも、不発弾の処理を行いました。
その数1752発。特殊な爆弾もあったようですし、それでなくても一発の爆弾の処理は命がけです。三度ばかりは、爆弾の信管をぬいた瞬間にグサリと信管の針が紀野先生の指に突きささったことがあったようです。

わたしも講演で不発弾処理を部下と一緒に題目を上げながら行ったところ奇跡的に爆死を免れたと聞いていまだに耳朶に残っている。「三度ばかりは、爆弾の信管をぬいた瞬間にグサリと信管の針が紀野先生の指に突きささったことがあったようです。」はこのブログで初めて知った。

紀野一義先生の師である朝比奈宗源老師の晩年「紀野さん、生きるってことは大変だな」とおっしゃった。
「その時、風が吹き抜けた。その風をおやじの風という。」と、紀野先生は書き留められた。

氏が「唯仏与仏」の二人の一人に上げられる朝比奈宗源老師でさえ「紀野さん、生きるってことは大変だな」と感嘆される。信仰の極致に至った人でさえただ常時が極楽のような現実は存在しないことを「おやじの風」という表現する。

我師がお亡くなりなる2、3年前のことだが、良寛の漢詩集にサインを求めたら「迷っても悟っても 仏のいのちの中 死んだらまた会おうな」と書いてくださった。

芭蕉にもさとりすました僧を茶化す句がある。「迷っても悟っても 仏のいのちの中」はいいなあ。「死んだらまた会おうな」これはブログ氏は紀野氏のすきな懐かしい人に准ぜられたということだろう。

紀野先生のお話しや著書にも出てくる、大正、昭和に活躍された浄土宗の僧である弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はまします・・・衆生はそのことを知らない・・・弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」だとお聞きしています。
文化勲章も受賞した世界的な数学者であった岡潔先生は、弁栄聖者を尊敬され、定期入れには弁栄聖者の信仰する阿弥陀如来の写真が入っていたそうです。
その写真を時々出しては、眺めていらしたとのこと。そして、「私が悪いことをするのも、良いことをするのも阿弥陀如来がしていらっしゃるのだ」と、そのようなことをおっしゃていたらしい。

ここで岡潔と弁栄聖者さらには紀野氏が連なることを発見した。

紀野先生は、工兵の下士官として出征し、13隻の船団が12隻撃沈され、魚雷がすぐそばをかすめていくのも目撃されました。撃沈された船の乗組員を救助しようにも救助できない。海に漂う兵士達は、救助しようとすると、先に行けと手を振る。停船したら、敵戦艦にたちまちに撃沈されることを知っているからです。
1隻残ったサマラン丸という船は台湾に上陸したものの、激しい空爆に襲われます。
不発弾の数も相当なもので、軍の不発弾処理班は誤爆で壊滅しました。
台湾の農民は不発弾を恐れて仕事ができません。爆弾に触るべからずとの軍命令が出ていましたが、農民のために軍命令を無視して紀野先生は、一人で不発弾の処理をしていきました。その数1752発。どう考えても、誤爆しなかったのが不思議です。
実際に3度、信管をはずした瞬間、撃針が先生の指につきささったことがあったようです。アメリカ軍の爆弾ですから、その構造がわからないものがあります。そんなときには、爆弾の側で坐禅して思案したこともあったようです。

わたしが講演で聞いた話を一層リアルに語っている。

先生の晩年は月の十日前後は、足が不自由になられた先生のお供をするようになりました。先生のお側にいたおかげで、仏様はいらっしゃるということが自然に信じることができるようになったようです。私の師である良寛と紀野一義先生も、最近の坊主は私利私欲にはしって、仏の道を学ぶことを忘れている者が多いと痛烈な批判をしています。

ブログ氏は月の十日前後も足が不自由になられた先生のお供をして師に尽くされている。「先生も、最近の坊主は私利私欲にはしって、仏の道を学ぶことを忘れている者が多いと痛烈な批判をしています。」これは氏の著作のいたるところに出てくる。美輪明宏が宗教はビジネスで信仰が大事といっているのと同じ意味だ。

 

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