まさおレポート

紀野一義の研究75  如来寿量品その2

紀野一義講演(youtube)のメモです。


徳島大学の先生が入学試験に大木のスケッチをさせるそうです。根の大きさを感じさせる絵を描けるひとはなかなかいないと。地球の中心に向かって根がそびえているという発想がユニークですね。

わたしのお寺にも大木があり、ぽんぽんと叩いて家に帰ると母は玄関に座っている。どういう仕掛けになっているのか、不思議なんですが。

長浜に秀吉が築いたお城にぽんぽんと叩いたのとそっくりな松がそびえていた。長浜は西田天功の土地ですね。

大木に目に見えない力を感じる。加持力、加護、冥加といいますね、それを如来神通の力という。

遠藤誠は平沢貞則の弁護を引き受けるなど貧乏くじばかり引く弁護士で彼は自称弟子だと称している人ですが。くじけそうになると大木をみて心を励ますのだそうです。


欅の大木や美帆ダムの桜を見て感動することで高崎辰之助を思い出す。電源開発の高崎辰之助総裁が坂部金太郎と言う桜の名人の老人に頼み200m上に38本と42本を移植した。後に花が咲きその電報を高崎辰之助に送り、彼は受け取ったときにそれを握りしめて涙を流した。

さっさと寺をつくって拝観料とっている人は如来の秘密・神通の力を教えてくれるんでしょうかね。別にお坊さんであろうとなかろうと、本当におおきな力に目を開いた人が教えることができるんでしょうね。


 諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。

是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。

我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す


弁栄上人の話。宇宙の中心に一大心霊があり、これが世界を作り それが自然界も衆生もつくる。その中に心があった。その心が主観となって自然を楽しんでいる。人間の心にさずけたので感動することができる。

こいつがわからないといくら如来寿量品を読んでもわからないでしょうね。

今の日本のようにちゃらちゃらした、落ち着きのないことではこういう幽遠な世界はなかなかわからないでしょうね。

秦の始皇帝の咸陽、釈迦の死んだあと100年後に始皇帝がいた。ここでにせものも三代で作っていた。まことに幽遠ですね。こういう人たちをながめていると永遠の昔から説法しているほとけさまはいらっしゃるなとを思い浮かべるんですけどね。


諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。


生き通しのほとけがなぜ死ぬか。いつでもいるといい気になっちゃいますからね、警鐘を鳴らすために涅槃に入ると。

坂村真民さんの詩「今日は涅槃会」を紹介。

とりのなくねにも

かなしみあり

さむきあめふりいで

はやくくれたれば

はやとをしめ

とおきひの

かなしみにひたる

とりよ

なにをわれにかたらんとするか

なべてものはうつろいゆく

おこたらず

つとめよと

なれもまた

いうなるか

 

この詩に全身全霊の悲しみがある。


明恵上人について。これほど美しいところに住んでいた人も珍しい。明恵上人は母に恋慕を懐き、それが仏に対する恋慕とつながっていた。

衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し
  咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず
  衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に
  一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず
  時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず

恋慕を抱きとは経文で珍しい言葉です。


朝比奈老師の母の死んだときの話を紹介。草葉の陰からみているといまわの母に言われて本当に草の間を探して回った。その話をされるとき、小さいお顔のなかに大きな目が涙で一杯だった。

真如会で朝比奈老師にお話をしていただいたとき、出席者にヨガのインストラクターをしている美女が前に座っていた。その方の顔ばかりみていた。きっとお母さんを思い出していたんでしょうね。

あの方の背後にお母さんを見ていたそのまた先にほとけさまをみていた。如来の秘密・神通の力じゃないでしょうかね。


暁烏敏は自らをさらけ出して生きた人です。人によっては暁烏敏のようにさらけ出してしゃべることを暗に非難する方が時にいらっしゃいますが、その方は全身全霊で生きていないから話せないんじゃないでしょうか。ごまかさないで自らをさらけださないでは話は絶対に人の心を打たないですね。


如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。


如来は如実に三界の相を知見すの三界は欲界、色界、無色界のことです。

生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、でこの世界はうたかたのようなものだがこの世界に明るく生きていくしか無いそれがなかなかできないんです。

亀井勝一郎は死んで一年も経たないうちに三越のデパートで本が二足三文で売られていました。この世界はうたかたのようなもの。


あるとき、立派なお坊さんが孤独な生活をされているのを見かねた弟子が自らのお寺に招いてお話をしてもらった。そこでこのお坊さんはなにか質問をした人の言葉を勘違いして怒りだした。聴衆はがっかりしてみな座を去った。

自分の老いを自覚しない人は例え立派なお坊さんでもお婆さんの潔さに劣りますね。


我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽 復倍上数」

「我、もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず。また上(かみ)の数に倍せり」

「また上(かみ)の数に倍せり」というよくわからない言葉もあるんですが、これを一語一語分解せずに読んだのが道元です。菩薩道を行じるとはつまり永遠の生命を生きていることです。


道元は正法眼蔵の法華転法華の章で

法華転とは悟っている時は法華を転じていく。転法華、迷っている時法華に転じられていく。どちらにしても法華の中という意味で、悟っても迷ってもほとけのなかというのがそれにあたります。

この世の中は移り変わるが見失いようにしなさいとの釈迦のことばがありますが、鋭い感覚で道元はこの箇所を本行菩薩道、永遠の生命を生きているととらえた。直観力、壮大なイメージでとらえることが必要です。どちらにしても人は本行菩薩道のただなかにあると解せられた。


イメージでとらえることが必要であることに関して。

山形浩之の絵は実に道元の言う透脱の世界をもっている。山形さんの絵を見てあまりのクリアな、わたしの今までにない美意識も開かれた。毎日眺めていると「あ、こりゃいいな」と思うようになった。

取材に行ったときに山形さんに絵を教えた人に出会った。そこで出会いに大騒ぎしたんですけど、じつはとうの昔に山形さんに会うに決まっているという気がしている。これも本行菩薩道という気がします。永遠の生命が、ほんとうにおもしろい出会い、よかったなという思いをもたらす。これを本行菩薩道と読んでいいのではと思います。


若し仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず。貧窮下賎にして五欲に貧著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来常に在って滅せずと見ば、便ち・恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず。


ここで貧窮下賎とは人間は金の有り無しではない。善根を種えないひとが貧窮下賤の人だと。

厭怠とは正しい行いをしなくなる、意識がマヒして尊敬する行動ができなくなることですね。わたしは自分の子供にいろいろ教えたい。兄の方はなにか十字架を感じているように。下の子はまったくちがうんですがいずれにしても尊敬できないものは人間の屑だと教えたい。

長男なんかは寝床でわたしの顔をみている。親父の話を聞くのが大好きで心の一番深いところに入っていく。マヒしていないので入っていく。

「滅せずと見ば」はいつもいると尊敬の念がなくなるのでほとけは方便として亡くなる。


紀野氏に会いたいと言う人と会ったときのエピソードを紹介する。「ほんとうに会いたい人にあうときはこういうものなんでしょうね。まるで壁にもたれるようにして喜んでいただいた」

日蓮上人が佐渡に流罪になったとき、離婚した女の人が女の子をつれて佐渡の国まで訪ねてくる。

日妙聖人御書
 相州鎌倉より北国佐渡の国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨峨(がが)、海は濤濤(とうとう)、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすく(宿宿)とまりとまり(泊泊)民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふ(経)るか。其の上当世の乱世、去年より謀叛(むほん)の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑいまだ世間安穏ならず。而(しか)れども一(ひとり)の幼子(おさなご)あり。あづ(預)くべき父もたのもしからず。離別すでに久し。
 かたがた筆も及ばず、心弁(わきま)へがたければとどめ畢(おわ)んぬ。
  文永九年太歳壬申(みずのえさる)五月二十五日   日蓮 花押
   日妙聖人


この日妙聖人の中に日蓮というすばらしい人がいる。餓狼のようなおとこどもはどうしようもなかったんですね。日蓮をほとけさまと思って会いに行く。


譬えば良医の智慧聡達にして、明かに方薬に練じ善く衆病を治す。其の人諸の子息多し、若しは十・二十乃至百数なり。事の縁あるを以て遠く余国に至りぬ。

 是の時に其の父還り来って家に帰りぬ。諸の子毒を飲んで、或は本心を失える或は失わざる者あり。遥かに其の父を見て皆大に歓喜し、拝跪して問訊すらく、善く安穏に帰りたまえり。我等愚痴にして誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて更に寿命を賜えと。


様々な事情で投げ出されているのが日本の実情じゃないでしょうか。

お父さんは金曜日になると酒飲んで暴れる。お母さんは自分はうまいもの食って子供にはカレーを作っているだけ。こどもだけで寄り添って助け合って生きている。

わたしの内のアルバイトをするように話している。こういう家庭があるんですね。

本心を失っていないと薬を飲んで治るが心を失っていると飲まない。方便として父が死んだと伝えると目が覚めて薬を飲んで治った。


ヤスパースは仮面をかぶり役割を生きていくと言った。ペルソナ、役割、面が人格そのものになると言うことなんですかね。最後までいければそりゃそれで大したもんでしょうが中途半端では生きていくことは出来ないでしょうね。わたしは役割で生きていくなんて御免ですね。


我今当に方便を設けて此の薬を服せしむべし。 即ち是の言を作さく、汝等当に知るべし、我今衰老して死の時已に至りぬ。是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし、差えじと憂うることなかれと。是の教を作し已って復他国に至り、使を遣わして還って告ぐ、汝が父已に死しぬと。

是の時に諸の子、父背喪せりと聞いて心大に憂悩して、是の念を作さく、若し父在しなば我等を慈愍して能く救護せられまし。今者我を捨てて遠く他国に喪したまいぬ。自ら惟るに孤露にして復恃怙なし。

常に悲感を懐いて心遂に醒悟し、乃ち此の薬の色・香・味美きを知って、即ち取って之を服するに毒の病皆愈ゆ


これも本行菩薩道として読む。


凡夫顛倒は維摩経で有名になった。

良寛 「君看よや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」

良寛 君看.jpg

これも本行菩薩道として読む。

「がんに感謝しましょう」で自分のがんを治してしまった。お寺の娘さんも本当に治ってしまった。これも本行菩薩道として読む。

整然とした曼荼羅であれば本行菩薩道を実感として感じられる。

坂本繁二郎の馬の絵には深い悲しみがある。これも本行菩薩道として鑑賞する。

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