平成テレコムの立役者は真藤、稲盛、孫氏だとして稿を進めている。孫正義氏はADSLの時代つまり2001年平成13年から通信事業に登場したように思われているが実はこの13年間は通信事業の胎動期といって良い。そして今日、孫正義氏はシンギュラリティーへの到来へと97%の情熱を傾けるが3%を占める通信事業がこれからも中核であることは変わらない。
孫正義氏の胎動
1977年の孫正義と西和彦の出会いは電子翻訳機の売り込みだった。
最初に会ったのは、1977年くらい。彼が松下電器に自分のところで 開発した電子翻訳機を売り込みに来てて、松下電器の人が引き合わせてくれた。
孫さんが売り込んでいる最中、まだ私は学生でしたが、松下電器の人から「西君、本当にすごいかどうか見てくれないか」と頼まれて立ち会った。孫さんは険しい顔をして座っていた。変なことをいったら殺すぞという感じだった。僕は「なかなかすごいけど、高かったらだめやな」西和彦https://biz-journal.jp/2012/05/post_169.html
1981年ソフトバンクの創業時はソフトウェアの卸売り流通業、1982年には出版業と通信事業を横目で見ながら足元を固めている。
1983年の孫正義はソフト流通に傾注していた。西和彦とはライバルになった。
僕がビル・ゲイ ツや日本のメーカーと一緒に、MSXという家庭用コンピューターの統一規格を提案しました。それに対して、孫さんが別の規格を出して対抗してきた。西和彦https://biz-journal.jp/2012/05/post_169.html
1985年、20代後半の孫正義氏は通信自由化の中で京セラの稲盛氏などの巨人や江副氏には相手にもされなかった。しかし第二種通信事業者の第一号事業者となって日本で初めてのインターネットサービスを立ち上げた江副氏の姿を勉強会などで間近にみている。あまりにも遠く仰ぎ見る巨人達の戦いを潜在的な願望で眺めていたに違いない。この頃に「ぞろ目会」という勉強会があり、孫正義や西和彦、千本倖生など各氏が顔を出していた通信事業に多大な関心と興味を持っていたことがわかる。
1987年にはB型肝炎で生死の淵をさまよう病気の時に雑誌を出版したり、データベースシステム事業に進出するなど個人で10億円もの借金ができたそうだがこれを返済するためにダイヤルアダプターのLCR Least Cost Routingの発明をする。
1985年4月1日NTT民営化後、第二電電、ニッポンテレコム、日本高速通信が相次いで設立された。しかし、割安な新電電を使おうとすると事業者識別の4桁例えば0077などを電話番号の前に余分にダイヤルしなければならない。LCRを電話機に設置すると、自動的に新電電を選択して接続し、割安になる。タイミングよくLCRを発明した孫正義氏はこれによってこの個人の借金10億円を返済したという。
LCRそのものは通信事業民営化のおこぼれ的な産物であるが通信自由化の流れの端緒を見事に捉えて必要な金を捻出している。シャープへ売った電子辞書は知られているがLCRの発明もその後の発展の基礎という点では双璧をなす重要な発明だ。
電子辞書の発明でソフトバンクの1億7000万円の契約に成功しその後の軍資金を得るが大学の教授を使って製品を完成させたエピソードを残している。実弟の孫泰蔵氏が講演で詳しい紹介をしている。
「おれのすごい発明があるから作ってくれ」といって先生に普通「来いよ」って言ってくれるわけないんです。先生は「でも、僕はコンピューター関係だけど、ソフトウェアなんだよね。ハードウェアだったらあの先生がいいんじゃないかな?」と言って先生が先生に「おもしろい学生が来てるんだけど、何か聞いてやって」それで別の先生の所へ行って何回か辿っていくうちにモーズ博士というその当時NASAで弾道計算のコンピューターを作っていてCPUを設計したり、すごい最高峰級の方「おもしろいじゃないか?」と言ってくれて、じゃ僕の友達とかと、研究の合間でしかできないから、いつになるかわかんないよ、と言われて「それでも、かまわない。但し、やってくれるんだったら有難いのでちゃんと何時間やったか、どういうふうな貢献をしたとか控えといてくれ。もしそれが出来上がって僕がビジネス化したら、それを報いたい。事後報酬でしか払えないけど」「わかった」と先生は言って気軽につけておこうということになって「できたら彼が売ってくれるらしいよ」とかいって、その当時NASAとか何とか最高峰の人たちが面白いといって手伝ってくれたらしいです。孫泰蔵ビジネスアイデアコンテスト2002記念講演
稲盛氏との間では苦い思い出を作ることになるLCR(新電電として3社が参入し、市外電話はNTTも含めて4社から選ぶ装置)はフォーバル会長大久保秀夫氏との共同開発だ。
「その晩は、魂を売ったという気持ちでいっぱいでした。『本当にこれでよかったと思う?』と孫さんに聞くと、彼は『みじめですね、大久保さん』とつぶやくだけでした」
こうして2人は意を決する。翌朝、稲盛の出社を待ち構えて契約の破棄を直談判したのだ。稲盛は激昂したものの、書類は返してくれた。PRESIDENT 2014年8月4日号
この話は実はあまり語りがらない、つまり相当に苦い経験だったと憶測できる。それはそれとして多くの人の力を集めるというのが彼の発想の原点にある。人によっては竜馬の薩長同盟を思い浮かべるかもしれない。
自分のアイデアや作品1つに頼るよりも、世の中の多くの知恵のある人々、開発できる人々、彼らの力を全部集めて、その開発したプログラミングやデータなりを何千万人の人々に共有してもらう。
そういったプラットフォームを作ったほうが、自分の知恵がボトルネックになるよりは良いじゃないかと思った。そういうプラットフォームを作ろうということで、「ソフトのバンク」、ソフトバンクを起こしたわけなんです。ソフトバンクキャリアLIVE講演
1990年つまり平成2年 日本ソフトバンクがソフトバンクへ社名変更し30代になったばかりの孫正義氏は韓国籍から日本に帰化するがその1年前平成元年に米国ではIT時代の幕が開いていた、つまりあえて平成にこだわると元年にインターネット時代が到来したことになる。孫正義氏のストイックな刻苦勉励もさることながらそれだけではない、これは実に強運であると思う。
以降「インターネットが使えないと頭が真っ白になる」「目が冷めてから寝るまでパソコンに向かっている」とまさに孫正義氏の身体の一部に化したような存在となる。
次に述べるADSLとの出会いやマイクロチップも含めてが30代前半の出会いとすれば60代で軍資金が世界一潤沢に使えるようになって再びシンギュラリティーの幕開けにも立ち会っていることは2度めの出会いといえるだろう。世界の文明史的な変革期に2度も立ち会えるとはよくよく強運の男と言わざるを得ない。
東西の冷戦が終結した1989年つまり平成元年にアメリカの国防総省が政府の主要国防機関とその多くの関連研究機関とを結んだ回線のどこを攻撃されても必ず別のルートを通して相互にコミュニケーションを保てるように開発していたクモの巣状のネットワーク機能、つまりWorld Wide Webインターネットを世界の商業にも無料で開放したのだ。1993年にインテルが Pentiumを、1995年に マイクロソフトが Windows95を発売するとワークステーション全盛時代が終焉し PCとインターネットの全盛時代へ突入する。
1994年孫正義氏は米国のベル・アトランティックにある電話局でDSLによるVODを見学して激しく感銘を受けている。後のADSLに始まる通信事業のトリガーになった出来事として特筆すべきだろう。その翌年1995年に ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロがYahoo!を設立し孫正義氏のソフトバンクが出資し株主となることでIT事業成功の第一歩を踏み出すことになる。
1994年と言えばソフトバンクを店頭公開した頃であり、1996年Yahooジャパンを設立する前だ。既にこのころからADSLに興奮していたと下記の記事にあり、半導体チップに涙を流して感激したエピソードと合わせて後の通信事業やシンギュラリティーへとつながるトリガーの一つとなった瞬間ではなかろうか。ちなみに半導体チップに出会ったときは次のように感激している。
「何だろう?」と、とっても不思議に思ったんです。そして、それを1ページめくってみると、指先の上にのったマイクロチップの写真が現れた。なんと、この小さなチップがコンピュータだというんです。マイクロコンピュータが生まれたばかりの時だった。当時の私は、IBMなどの大型コンピュータのプログラミングを授業の一環として勉強していました。しかし、まさかどでかいコンピュータがこんな小さなワンチップに化けるなんて、当時はまったく思いもよりませんでした。
このことを知った瞬間、私は雑誌を握っていたんですけど、両手の指がジーンと痺れたんです。手足の指が全部痺れてジーンときた。ソフトバンクキャリアLIVE講演
(孫正義が半導体チップに魅せられたのはあるいは少年時代にアマチュア無線愛好家でおそらくラジオ製作に夢中になっていたことと関係があるのだろうかと推測する。あるとき孫泰蔵氏がテレビ出演で語っていた。)
それらがすべてのものが、すべての人に加えてつながり合う。我々が寝てる間も世界中でつながっている。リアルタイムにつながる。そういう世界を作ろうとして考えているわけです。
つまり、それらのモノとモノが通信が通信し、ヒトとモノが通信をする。そこにはデータが生まれます。チップのないところにデータはない。
データが生まれるときには、必ずそこにはチップがある。そこには90パーセントの確率でARMのチップがある。そこから生成されるデータがARMのビッグデータのクラウドにつながっていく。自動的につながる。
それを人工知能で解析し、お互いをどんどん賢く鍛えていく。そういう時代を我々は構想しているわけです。
つまり、私はシンギュラリティは必ずやってくると信じている人間であります。まあ30年後ぐらいにはやってくるでしょう。SoftBank World 2017
このベルアトランティックでのADSLとの出会いは孫正義氏の仕事の歴史として半導体チップとの出会いと双璧をなす重要な場面だろう。ADSL技術がこの1994年頃に米国で台頭してこなければ、またNTT石川氏が孫正義を現地に案内しなければ現在のソフトバンクに通信ビジネスは無い、従って今日の孫正義氏もいないことになる。
この興味深い話の筆者石川宏氏は1994 年当時元NTTネットワーク部長であり新電電とのVPN信号網の相互接続問題でNTT側を代表して相互接続のオープン化を進めた。かつてVPN交渉の場で一度お目にかかったことがある。相互接続のオープン化など敵に塩を送る行為であるとのNTT社内反対派の批判の中で苦労されたと推測する。業界誌の寄稿で当時の孫正義の興奮ぶりを記している
1994 年に技術調査部の飯塚久夫君とともに,ワシントンDC郊外のベルアトランティックの電話局にDSLによるVOD の見学に行ったことがあります.その際,孫正義(ソフトバンク社長)を御案内しました.私も感動しましたが,そのときの孫さんの興奮の様子が忘れられません.ソフトバンク社のADSL 事業による大発展の原点はここにあると思います.石川宏 通信ソサイエティマガジン No.16 2011
この会社(NTT)が独占的にネットワークの、インターネットの、独占的な市場支配を持っている。当時は99.9%、NTTのメタル回線を使わないと、インターネットのサービスができない、ということだったんですね。私はNTTの社長に何度か会いに、直接会いに行ったんですよ。ブロードバンドを始めてください。ADSLを始めてください、と。NTTとしてやってください。そうしないと日本が困るんだ、と。そしたらNTTの社長は「いや、NTTとしてはISDNをやると決めてるんだ」と。
1995年12月9日NTT東西がADSLサービスの試験提供を発表。ADSLはNTTの電話回線に重畳するがその重畳費用であるNTT回線利用料が800円と設定される。(重畳とは電話回線に音声より高い帯域のデータを乗せること)この800円という価格水準は日本のADSL事業者にとって際めて大きな障壁になる。その後一気に180円と下がり、この価格ではもはや障壁ではなくなった。NTTはこうしたときとして禁止的料金設定を行い、その後郵政の介入で値下げするという行動パタ-ンをとるため新電電各社等から見てNTTの接続にかかる費用算定、特に最初に出てくる価格は信頼できないという新電電側の心情を形成していくことになる。
東京メタリック創設者の一人小林博昭氏は孫正義がADSL一式を買ってくれた第一号の顧客だと記している。
1995年、都内のホテルでADSL実験による映画を送信する公開実験を行い、その年の暮ADSL一式を買ってくれたのは孫さんで、NTT大岡さんと神戸大学平野先生と三人で行った。調査の結果最初は800円が160円になった。(小林博昭 淡交会報)
ここで紹介されている「NTT大岡さん」は後にNTT東の相互接続推進部長に就任し再び孫正義と接続交渉を繰り広げることになる大岡氏である。
孫正義は1994年7月の店頭公開以降に次々とM&Aをしかけた。1994年11月に発行元の米コンピューター関連出版のジフ・デービス・パブリッシングを総額2100億円で買収し次いで展示会運営の米コムデックスを8億ドルで買収、買収した企業は合計5社、約3000億円の資金を企業買収につぎ込む。
1995年11月、米シリコンバレーに飛んだ孫正義は4月に会社組織にしたばかりのヤフー創業者、27歳の若者ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロと会い
「ネクタイを外し、ピザを食べながら深夜まで議論し」
計200万ドル2億円を出資した。
スタンフォード大学の大学院生だった2人がネット上からウェブサイトのリンクを集めて作った「ジェリーとデビッドのワールド・ワイド・ウェブ・ガイド」が94年にはガリバー旅行記に登場する野蛮人の名「ヤフー」と変えておりホームページアクセスは一日1000万件になっていた。シリコンバレーのホテルで興奮した孫正義がはだしで廊下を歩いていたとの逸話も当時の幹部から聞いたことがある。
ヤフーはビル・ゲイツに教えられた雑誌の記者から教わったという 。(筆者の在職当時もビル・ゲイツ来日時は連れ立って京都に湯豆腐を食べにいくなど折に触れて旧交を温めていた)
1996年1月12日ヤフー・ジャパンを設立する。その後の安定した収益はブロードバンドや携帯電話への参入など2000年代に入ってからの孫正義の挑戦を支える。ヤフー1社によってそれまでの失敗(総額5000億円の売却損)を帳消にした。西和彦氏は当時を回想してスポーツカーで僕のポンコツを追い越していったと述べている。
昔は競争相手だったけど、彼がヤフーに100億円投 資した頃からは、イメージとして、彼がアメリカ製のスポーツカーに乗って僕のポンコツを追い越していった感じですね。西和彦https://biz-journal.jp/2012/05/post_169.html
しかし又バブル崩壊で100分の1に落ちたことを孫正義自身が語っている。
1年間でソフトバンクの株式価値が、100分の1に落ちた。100分の1ですよ。バブルの頂点の時、実は僕は3日間だけビル・ゲイツよりお金持ちになったことがある。世界一になったことがある。お金いらなーい、と思ってたのが、直後にネットバブル崩壊で、ドーンと100分の1になったら、もう犯罪者扱いですよ。ソフトバンクキャリアLIVE講演
1996年12月17日にはジェイ・スカイ・ビー株式会社を設立し代表取締役会長はルパート・マードックが、代表取締役社長に孫正義が就任するがその後社長の座を降りることになる。しかしテレビ朝日株も取得時と同額で売却するなどほとんどが損切りで売却に失敗する。
1996年にはパソコン用メモリーモジュール大手の米キングストンを買収している。当時として過去最大の外国企業買収だったが、これは失敗に終わり、1999年にソフトバンクは持ち株を手放した。
ついで1999年9月10日にソフトバンク、東京電力、マイクロソフト社が2000年夏にサービス開始を予定してスピ-ドネットを設立する。東京電力の光ファイバを利用して基地局に接続し、そこからは2.4GhzのFWA方式で顧客の設置したアンテナと結ぶ。当時ブロ-バンドの切り札として期待され2000年夏の開業予定であったが電波の干渉問題でサービス開始が遅れ2001年5月のさいたま市でのサービス開始までずれ込む。
孫正義氏は通信事業への絶好の足掛かりと見て共同出資に参加したが東京電力の企業体質があまりにも違い、意欲をそがれたことも大いに関係がある。その後、ことあるごとに東京電力の電柱賃貸の手続きについて、月まで届く申請書類が必要と批判をし続けることになり、福島原発事故では一層東電批判が強まるが、この当時の共同事業で接した体験がベースになっていると推測する。
このスピ-ドネットは2006年5月にサービスを終了する。このスピ-ドネットやあおぞら銀行への見切りの速さに社内外で
「飛びつくが熱中した後にすぐにあきる」と評されていた。