まさおレポート

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ゾシマの言葉

2015-11-30 | 小説 カラマーゾフの兄弟

ゾシマの感動手記引用メモ


もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つ者がお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。そのときでも、ただ一人残ったお前が、犠牲を捧げ、神をたたえるのだ。かりにそのような者が二人出会えば、それが全世界であり、生ある愛の世界なのだから、感動して抱擁し合い、主をたたえるがよい。たとえそれが二人であっても、主の真理は充たされたからだ。
もし自分が罪を犯し、おのれの罪業や、ふと思いがけず犯した罪のことで死ぬまで苦しむようであれば、他の人のために喜ぶがよい。正しい人のために喜び、たとえお前が罪を犯したにせよ、その人が代りに行いを正しくし、罪を犯さずにいてくれたことを喜ぶがよい。
「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにも楽園が生まれるにちがいないんです!」ああ、はたしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。ことによると本当に、わたしはすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばんわるい人間かもしれない!

わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成をさまたげるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」などと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう。

 

もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。

「本当にね」わたしは答えた。「何もかもがすばらしく、美しいからね。それというのも、すべてが真実だからだよ。馬を見てごらん、人間のわきに寄り添っているあの大きな動物を。でなければ、考え深げに首をたれて、人間に食を与え、人間のために働いてくれる牛を見てごらん。牛や馬の顔を見てごらん。なんという柔和な表情だろう、自分たちをしばしば無慈悲に鞭打つ人間に対して、なんてなついていることだろう。あの顔にあらわれているおとなしさや信頼や美しさはどうだね。あれたちには何の罪もないのだ、と知るだけで心を打たれるではないか。なぜなら、すべてみな完全なのだし、人間以外のあらゆるものが罪汚れを知らぬからだよ。だから、キリストは人間より先に、あれたちといっしょにおられたのだ」

兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる、悪人でも愛するだろう。青年だった私の兄は小鳥たちに赦しを乞うたものだ。これは無意味なようでありながら、実は正しい。なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。小鳥に赦しを乞うのが無意味であるにせよ、もし人がたとえほんのわずかでも現在の自分より美しくなれば、小鳥たちも、子供も、周囲のあらゆる生き物も、心が軽やかになるにちがいない。もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい。それを知ってこそ、小鳥たちに祈るようになるだろうし、歓喜に包まれたかのごとく、完璧な愛に苦悩しながら、小鳥たちが罪を赦してくれるよう、祈ることができるだろう。たとえ世間の人にはどんなに無意味に見えようと、この歓喜を大切にするがよい。

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代りに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできるかぎり、この精神で行うことだ。なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりもずっときびしく自分を裁くにちがいないからである。かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れていないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。このことを信ずるがよい。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。
 倦むことなく実行するがよい。夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思いだしたなら、すぐ起きて実行せよ。もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら……


 もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。地位高き者をも、力強き者も恐れてはならぬ、だが、賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

 わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成を妨げるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」なとと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう。ところが、自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ。

「ああ、これがはたして嘘だというのだろうか? 泣きながらわたしは思った。もしかすると、このわたしこそ、すべての人々に対してほかのだれよりも罪深く、地上のだれにもまして悪い人間なのではないか?」

「あの晩、真夜中にわたしが二度目に訪ねて行ったのを、おぼえているかい? そのうえ、おぼえておくように言っただろう? 何のためにわたしが行ったか、わかるかね? あれは君を殺しに行ったんだよ!」
 わたしは思わずぎくりとした。
「あの晩、君のところから闇の中に出て、通りをさまよいながら、わたしは自分自身と戦っていた。そしてふいに、心が堪えていられぬほど、君が憎くなったんだ。『今やあの男だけが俺を束縛している。俺の裁判官なんだ。俺はもう明日の刑罰を避けることができない。だって、あの男が何もかも知っているからな』君が密告するのを恐れたわけじゃなく(そんなことは考えもしなかった)、こう思ったのだ。『もし自首しなければ、どうしてあの男の顔を見られるだろう?』たとえ君が遠く離れたところにいようと、生きているかぎり、しょせん同じことだ。君が生きており、何もかも知っていて、わたしを裁いている、という考えが堪えられないからね。まるで君がすべての原因であり、すべてに罪があるかのように、わたしは君を憎んだ。そこでわたしは君のところへ引き返したんだよ。テーブルの上に短剣があったのを、今でもおぼえているよ。わたしは坐り、君にも坐るように頼んで、まる一分というもの考えつづけた。もし君を殺せば、たとえ以前の犯罪を自白せぬとしても、どのみちその殺人のために身を滅ぼしたにちがいない。でも、あの瞬間、そんなことは全然考えなかったし、考えたくもなかった。わたしはただ君を憎み、すべての復讐を精いっぱい君にしてやりたかっただけなんだ。だけど、神さまがわたしの心の中の悪魔に打ち克ってくださった。それにしても、いいかい、今までに君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」
(中略)
 ……だが、わたしは沈黙を守り、間もなくすっかり町を離れて、五カ月後には、これほどはっきり道を示してくれた、目に見えぬ主の御指を祝福しながら、主の思召しによって揺るぎない荘厳なこの道に踏みこむ栄に浴した。しかし、苦しみ多かった神のしもべミハイルのことは、いまだに毎日、お祈りの中で思い起しているのである。

 
孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。
かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れていないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。このことを信ずるがよい。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。

 また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。地位高き者をも、力強き者も恐れてはならぬ、だが、賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。

神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば、金持とラザロの寓話に示されているように、アブラハムの懐ろも拝めるし、アブラハムと話もする。天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ』地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。なぜなら、この苦痛は外的なものではなくて、内部に存するからである。また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人々の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見出すことができるはずだからである……諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。

「両親の家庭から、私は大切な思い出だけをたずさえて巣立った。なぜなら、人間にとって、両親の家庭での最初の幼時期の思い出くらい貴重な思い出はないからである。それはほとんどいつもそうなのであって、家庭内にほんのわずかな愛と結びつきさえあれば足りるのである。もっとも劣悪な家庭の生まれであったとしても、大切な思い出というものは、本人の心がそれを探し出す力をもっているならば、心に保たれているものなのである」(14‐264)

「何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。<・・・>少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生をつくりあげるなら、その人はその後、一生、救われるでしょう」(15‐195)

「この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代わりわれわれは他の世界-天上のより高い世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が与えられている。それに、われわれの思想、感情の根源はこの地にはなくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上にまき、おのれの園を作り上げられたのである。そして人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。そのときは人生にたいして冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる」


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