2024-02-22 09:30:14追記
親鸞と近いものを感じる。ゾシマ長老は死体が腐臭を発し、イリューシャは病死するが腐臭を発しない。作者はこの腐臭の在りなしで何を言いたかったのだろう。親鸞も自身を鴨川に流せと書き残す。ゾシマ長老も賭博癖や浪費癖に苦しんだ作者ドストエフスキーの分身と言える。
2013-05-15 17:50:05初稿
子どもが領主の大切な犬に石を投げて怪我させたことが領主の怒りを買い、翌早朝、寒い中でその子の母親を含めて領民を並ばせて見学させ、その前で子供を裸にして逃げろとけしかけ、領主が猟犬に追えと命令し、犬たちが子供をずたずたにして殺す。母親はその残虐な光景をただ見ているほかはない。イワンがアリョーシャに、領主は退役将軍で農奴制度廃止も意に介せずで領民の生死を我が物としている実話として話して聞かせ、「神が創った世界を認めない」という理由の一つとしてその話をアリョーシャに聞かせる。
イワンは表面的には知的で極めてクールな男として描かれるが、こうした哀れな母娘に対する深い共感を持つ男でもある。こうした深い共感を持つからこそ、こうした残虐をあえてこの世に存在させる神に不信を抱いている。イワンは神の存在を否定しないが「神が創った世界を認めない」。もっともこの神の存在を否定しないのも頭で考えだしたもので、ボルテールの「神がいなければつくり出さねばならない」を引用するところをみると神の存在の肯定も深い信念から出たものではない。こうした神の知的理解は当時のロシアでは受け入れやすかったのか、コーリャまでその影響を受けて同じセルフをアリョーシャに吐く。(コーリャはどこでイワンの感化をうけたのだろうか。接点は無いように思うので、当時流行りのクールな考え方なのだろう)
イワンは、やがて復活の日がやってきてこの領主も子供も母親ももろともに手をつないで調和の世界を喜ぶことができるかとアリョーシャに問いかける。思わず西洋、ロシアと日本の来世感の違いに戸惑いを覚える。そうなのだ、彼らの来世観には頭から輪廻の考え方がない。長編「カラマーゾフの兄弟」のどこにも輪廻らしき点に言及したところはない。
そしてイワンが受け入れられないのはこの大団円的ストーリーなのだと納得する。演劇やオペラではフィナーレの後に悪役もヒーロー、ヒロインも最大の笑顔で手をつないで拍手に迎えられて登場する。無垢の少年が犬を怪我させたくらいでかみ殺されて、その後にくる復活の日に一挙に「めでたしめでたし」ではたしかに感情の始末に困る。
イワンはその復活の日をこの眼でみたい。きりんもライオンもシマウマもお互いに仲良く暮らす復活の日を目で見たいとも言い、又同じ口から、その日が来ても母親であれば復讐の炎は持ち続けるほうが納得できると述べる。復活の日の存在は認めてもそのありようは認められない。父のフョードルもアリョーシャに酔って「神はいるのか、来世はあるのか」と尋ねるが、イワンは神はいるのかいないのかを超えた複雑な懐疑に陥っている。(このことや金と女に関して、あるいはかしこい人は何をしても許されるという思想も含めてスメルジャコフはイワンとフョードル親子は似ているという)
イワンの述べる大審問官は神を棚上げしてこの世は実権を悪魔と手を組んだ教会のビューノクラートつまり大審問官が握っているという説だ。アリョーシャはイワンの後姿の右肩が下がって見えたことで、イワンは悪魔と手を組んだことを示唆する。大審問官はキリストのキスを受けて彼を火刑にせずに牢から放つが、別段大審問官は狂うわけでもない。神の非難を引きてでも民の生きやすい信仰を与えるという極めて強い信念と決意があるからだ。一方、イワンはゾシマ長老に指摘されるように信念が中途半端で、しかも女と金が実は大好きときている。イワンはその中途半端さで狂い、書かれてはいないがおそらく狂い死ぬ。大審問官はローマ教会の体現者であり、作中で帝政ロシアの警察幹部が最も恐れた「信仰のある社会主義者」を体現したものであるかもしれない。信仰心の篤いリアリスト、これはドストエフスキーの考え方でもあるのだろう。
生まれたてのねばねばした青葉を愛するイワン、天空の星空のもとで大地に伏して聖なる感動にふるえるアリョーシャは素朴な信仰者だが、甘いものを愛する男でもあり、偽善的な愛を本当の愛と勘違いする男でもある。ミーチャはキリストと同じく贖罪のために無実の罪をかぶる、崇高でありでたらめな男である。3人ともまともではない。カテリーナもグリーシェチカも同じくまともではない。これらの「まともでない人々」が運命の波に現れてどこへともなく運ばれていく。考えてみればこのカラマーゾフの兄弟」の登場人物は「まともでない人々」で満ち溢れている。
ゾシマ長老は死体が腐臭を発し、イリューシャは病死するが腐臭を発しない。作者はこの腐臭の在りなしで何を言いたかったのだろう。腐臭を発しないのが民衆の求める奇跡だとすると、信仰と奇跡は全く関係ないのだといいたかったのだろうか、あるいはゾシマ長老は俗に堕しており、イリューシャは無垢の少年故に腐臭を発しなかったのか。これも謎の一つだが私には前者のように読める。
ミーチャの宗教観に注目してみよう。ミーチャは20年前にクルミの実を分け与えられたことを忘れずにいて、老医師ヘルツェンシュトーベを訪ねて往時のお礼を言う。餓鬼子(がきんこ)の夢をみたことで、自らの罪深い人生を顧みて人類に対する普遍的な贖罪の念を強める。冤罪にもかかわらずあえて(キリストのように)罪をかぶろうとする。そんな一面をもつミーチャを初対面でみぬいていたからこそゾシマは足元に接吻した。
イワンはミーチャに対して馬鹿な放蕩野郎としか見ていない。カテリーナを挟んでの嫉妬も含まれているが結局理性のみ発達した近代人であり、ミーチャの聖性には最後まで気がついていない。ミーチャの脱獄計画を練るのも自己の犯した罪の意識を軽くしたいがためであり、深い人間性から発したものではない。
ミーチャのカテリーナに対する許しも尋常ではない。カテリーナは裁判の土壇場で決定的な裏切りを行う。あたかもキリストを売ったユダのような女性カテリーナでさえ許す。一方ではグルーシェニカに対する狂いようや放蕩三昧は半端ではない。半端者の代表のようなミーチャの中に聖性を見出す。まさに歎異抄と同じものをミーチャに見ている。
アリョーシャはどうか。誰からも好かれるのがアリョーシャの特質で、親父のフョードルからでさえ好かれる。ミーチャも信頼を寄せ、グルーシェニカも好意を抱く。(性的な誘惑さえ試みる)コーリャやイリューシャそのほかの子どもたちにも好かれる。例外はイワンでアリョーシャの神がかり的なところを極端に嫌い、一時は絶交する。アリョーシャを受けいれられないイワンは狂う。
アリョーシャの宗教観はゾシマの腐臭でぐらつき、イワンの大審問官に影響されてイエズス会だと口走る。悪魔は甘いものが好きだといわれながら、甘いものが好きであり作者はアリョーシャにも悪魔性があることを示唆している。小悪魔然としたリザベータに魅かれているが、この引かれ方はどうも一般的な引かれ方ではない。アリョーシャは兄弟三人の中で最も聖なるものに対する希求を持っている。しかしそれは母親譲りで神がかり的であり、いびつなものであることを知る。(母親の話を聞いたときの異常な反応でそれがわかる)つまりアリョーシャも半端者であり、カラマーゾフ的なのであり、決して完全無欠の立派な男ではない。
三人の兄弟はそれぞれに半端者でありカラマーゾフだと作者は作中で何回となく示している。カラマーゾフ名兄弟がそれぞれにのた打ち回りながら聖性を求める物語と言えるだろう。それは賭博癖や浪費癖に苦しんだ作者ドストエフスキーの分身たちと言える。
「カラマーゾフの兄弟」イワンの宗教観
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