日本人のあの世観 梅原猛より デカルトのメモ。
『方法序説』や『哲学の原理」で、神の存在と魂の不死の証明を行う。しかし まったく論理の遊戯にすぎないように思います。
デカルトはあの世について、天国や地獄について、何も語っていません 。彼はキリスト教が語るような天国や地獄を信じていなかった。
近代人は多かれ少なかれ、デカルトの徒です。そして彼は神や不死のこと 天国・地獄のことを信じず、この世の人間の理性と、この理性による物質 支配、すなわち自然科学と技術を信じたのです。
デカルトの理性信仰が、徐々にキリスト教の神の信仰を崩壊させ、天国や地獄を語るのが恥ずかしいという風潮を生じさせた。
以下は日本人のあの世観 梅原猛より芥川から「カラマーゾフの兄弟」へと神なき現代文明に関する新たな視点を発見したメモ。
芥川龍之介の自殺する一年前に書いた作品である「河童」 河童の国へ行った主人公が河童の国の友達に、「この国にも宗教があるか」と聞きます。すると河童の友達は、「この国にも仏教、キリスト教、回教などがあるけれど、いちばんさかんなのは近代教だ」と言います。そして河童の友達は主人公を 壮大な近代教の神殿に連れていくわけですが、その寺院はゴシック風、イスラム風、 仏教風などのさまざまな様式がまざった建物であるということです。ここにもさま ざまな文化の雑然とした混合である近代日本文化の鋭い風刺が見られるのです。
この近代教というのはいったい何か。それは生活教であるともいわれま すが、「クエマラ教」ともいわれるというのです。クエマラ教というのは、「食う」 と「魔羅」からつくった芥川の造語だと思いますが、それはよく食い、よくセックスする点が特徴です。
まさにこのクエマラ教の無神論であるかのように見える近代人は、実は一つの強い信仰を描く。よく食べ、よくセックスをする信仰だと言うの ですが、まさにこのクエマラ教こそ、現代人の信仰ではないでしょうか。よい生活 をすること、それは結局おいしいものを食べ、よくセックスをすることにほかなら ないと芥川は言うのです。いま芥川がいたら、よく食い、よくセックスをすること の上に、よくゴルフをし、よくカラオケを歌うという条件を加えたかもしれません。 たしかに芥川は現代文明について鋭い批判を加えましたが、現代文明に対して芥川よりもっと深い批判を加えた人がいます。それは芥川と同じような職業の小説家 のドストエフスキーです。
私は若いときに、このドストエフスキーの小説を何度も何度も読んで、ドストエフスキーによって人間というものはどういうものであるか を教えられました。特に私が愛読した書物は、ドストエフスキーの最晩年の小説で ある「カラマーゾフの兄弟」です。
「 カラマーゾフの兄弟」日本の小説家にはそういうやぼなことを問う人は少ないのですが、ドストエフス はこの小説で、真正面から神とか不死とかいう問題を扱っているのです。人間 ははたして宗教なくして、天国や地獄なくして、やっていけるのであろうか。
当時のロシアにはすでに後年のレーニンのような無神論の社会主義者が出現していまし た。社会主義者は神を信じません。ドストエフスキーは社会主義も無神論の帰結で あると言います。そのような社会主義者のように、人間ははたして神なくして、あ の世なくしてやっていくことができるか、それが『カラマーゾフの兄弟」でのドス トエフスキーの問いであります。
「カラマーゾフの兄弟」というのはフョードル・カラマーゾフの三人の息子のことです。長男をドミートリイといい、彼はロシア的素朴さをもった直、「情倒行な人間 です。次男をイワンといい、無神論者です。たいへん思弁的能力に恵まれているけれど、行動はできない人間です。
いまのロシアはイワンの帰結をたどりました。無神論の支配の下に、人 間の理性と科学と進歩のみを信じて、社会主義社会をつづける。
この小説は未完で終わります。その後はどうなるかよくわかりませんが、ドストエフスキー の覚え書きによれば、その後はアリョーシャが中心になるということであります。
救いの方向はアリョーシャにあるということは確実であるとしても、アリョーシャがどのように登場してくるのか、まったくわからないのです。ほんとうにこの世界にアリョーシャのような男が存在し、それが活躍することができるのかと疑われるのです。
イワンに代表される無神論の論理的帰結が父殺しになり、暗い結末に終わります が、そのような世界を救うものとして、アリョーシャという神と不死をかたく信じ る人間が登場するわけです。アリョーシャは神と不死とともにあの世、天国や地獄 を強く信じていたに違いない。そのようなアリョーシャがドミートリイやイワンたちをどう救うか、興味は尽きないのですが、私は「カラマーゾフの兄弟」が未完で終わったことに深い意味を見出す。
それはロシアばかりではありません。世界中がロシアほどでなくとも イワンの苦悩の中にあるといえます。ドストエフスキーは芥川龍之介よりはいま少し遠いところを見ています。芥川は現代人の宗教の本質を鋭く摘出したわけですが、未来の救いの方向を見ていません。 それに対してドストエフスキーは、未来の救いがどのようにして現れるかはわかっていないにしろ、近代文明の行き詰まりと、未来の救いの方向をかすかながら見ているのです。
もう一度、神の問題やあの世の問題を考え直す 必要があります。 これが現代文明の問題であり、最近日本の若者のあいだに、宗教やあの世に対す る関心が生まれたのも、このような文明の動きと無関係ではないと思われるのです。
この世だけを信ずる文明、科学と理性、進歩のみを信じてきた文明の意味が、いま 問われていると私は思うのです。 それゆえにあの世を考えることは、そんなにおかしいことでも恥ずかしいことで もないわけです。
日本人は、死んで極楽浄土へ行きたいと願う。ところが、日本人はほんとうに死 んでから極楽浄土へ行くことを信じていたかというと、柳田はそうではないと言う のです。なぜかというと、極楽浄土は十万億土の遠いところにあって、もう二度と 帰れない。そういうことを日本人は信じていなかった。日本人は、死ぬと近くのお 山に行くという、そういうことを信じていたと言います。
以下は佐藤優の著作よりメモ
『異端は楕円の焦点のうち一つだけが真理だと思ってしまう』と ロマートカは強調していました。『ドストエフスキーを読めば、真理が楕円だと。
「そう、こんなふうな終わりにしようと思っていた。審問官は口をつぐむと、囚人が自分に答えてくれるのをしばらく待つ。相手の沈黙が自分にはなんともやりきれない。囚人は自分の話を終 始、感慨深げに聴き、こちらを静かにまっすぐ見つめているのに、どうやら何ひとつ反論したがらない様子なのが自分にもわかる。老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから聞かせてくれ」
「で、兄さんの物語詩は、どんなふうにして終わるんです?」下を向いたまま、彼はいきなり たずねた。 「それとも、もう終わっているんですか?」
「フロマートカは、共産主義者を大審問官として理解していた。そして、イエス・キリストが大審問官に接吻して、大審問官の心が熱く燃えた。そのことによって、大審問官の心が変化する可能性に賭けたという理解で間違いないだろうか」と私は質した。
『カラマーゾフの兄弟』における大審問官伝説の結末はこうなっている。まずフリョーシャが兄 のイワンに尋ねる。 ところが彼は、無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇 に、静かにキスをするんだ。これが、答えのすべてだった。そこで老審問官は、ぎくりと身じろ ぎをする。彼の唇の端でなにかがうごめいた。彼はドアのほうに歩いて行き、ドアを開けてこう 言う。『さあ、出て行け、もう二度と来るなよ・・・・・・ぜったいに来るな・・・・・・ぜったいにだぞ。
ソシマの説教にある反キリスト教的要素んついてメモ
ソシマの説教にある反キリスト教的要素にすぐに気づく。 例えば、以下の動物 崇拝の記述だ。狭量なフェラポント神父が、ソシマ神父を異端者と 宣言したのは、全く根拠がないわけではない
わたしの青春時代、かれこれ四十年も昔の話だ。わたしはアンフィーム神父と、修道院への喜 捨を集めるためにロシアじゅうを巡礼したことがある。あるときわたしたちは、船がとおる大き な川のほとりで漁師たちと一夜をともにした。わたしたちのとなりに、上品な顔だちをした一人 の若者が腰をおろした。
見たところ十八、九の農民で、次の日に商人の船をロープで曳く仕事が 急いでいるところだった。その青年がじつに晴れやかな顔をして、感慨深そうに前方を見つめている。静 かな、暖かい七月の明るい夜だった。広々とした川の水面から立ちのぼる露がなんとも爽やかだ った。小魚がぼんと跳びはね、小鳥たちは囀りをやめ、あたりは静寂につつまれ、荘厳の気がみ なぎり、万物が神に祈りを捧げている。眠りについていないのはわたしたち二人きり、わたしと その青年であり、二人は、神のものであるこの世界の美しさや、その偉大な神秘について語りあった。 ほんとうにそう」とわたしは彼に答えた。「なにもかもすばらしい。荘厳だね、だって が真実なんだから。馬をごらんよ、人間のそばに立っているあの大きな動物さ。でなきゃ、あっ ちの牛をみてごらん。人間を養い、人間のために働きながら、あんなふうに考え深そうに頭を垂 れている。馬や牛の顔をよくごらんよ。なんて優しい表情だろう。自分に無慈悲な鞭をくれる人 間に対して、あんなに愛着を示している。顔にはほら、なんという温和と信頼、そしてなんとい う美しさがあるんだろうね。あの動物たちにどんな罪もない、そう知るだけでなにか胸に迫って どんな草も、甲虫もも、金色の蜜蜂も、生きとし生けるものが、およそ知恵などというもの を持たず、驚くばかりに自分の道をわきまえ、神の奥義を証明し、倦むことなくその成就につと めている。こんなことを話すうち、愛すべき青年の心が熱く燃え立っているのがわかった。青年 は、森や森の小鳥たちが大好きだとわたしに話してくれた。鳥をつかまえるのが上手な彼は、ど んな鳥の鳴き声も聞き分け、どんな鳥でも呼び寄せることができるらしかった。森の中にいると きほどすばらしいことは何ひとつ知らない、ほんとうにすばらしいと、彼は話した。 すべて 「 くるよね。だって万物は完全なんだし、人間をのぞけば罪がなくて、動物たちには、ぼくらより すると も んですね?」 わたしは答えた。「もちろんそうに決まっているさ。だって、生きとし生けるもののために神 の言葉はあるのだし、すべての創造物、すべての生きものは、木の葉っぱ一枚にいたるまで神の 言葉をめざし、神を誉めたたえ、キリストさまのために泣き、自分でも気づかぬまま、罪のない 先にキリスト様がついておられるんだから」 青年はたずねた。「それじゃ、ほんとうに動物たちにもキリストさまがついておられる。