今読み返してみると驚くべきことが書いてある。
アリョオシャはリザと結婚するが、グルウシェンカの誘惑から、リザを捨て、「人生否定と犯罪との荒々しい生活期を経て」僧院に逃れ、多くの子供達を相手に静かな生を終える。また堕落させるつもりだったらしい。
そういえばリザに対するあやしい感情が記されていたな。
ドストエフスキーは知られるところでは善人ではない。従って最後の作品で宗教的決着をつけようとしたのだろうと推測する。そしてこの作品を書き上げて3ヶ月後に死んだ。
ドストエフスキーのカラマゾフの兄弟は親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」と共鳴しているなと深く思う。もしもはありえないがなんらかの事情で親鸞の書に触れていればあるいは別のストーリーができたのではなかろうか。(もっと自信を持って悪人アリョーシャの改心を描いたのではなかろうか)
紀野一義の膨大な録画をYouTubeで何回も見通した後にそんな感想を持った。
初稿 2017-12-26 22:34:05
ドストエフスキーのカラマゾフの兄弟で著者はまえがきでながながとアリョーシャが主人公だと説明し、最後まで読んでもらえばわかるともったいぶりながら、最後まで読んでもアリョーシャは善人でさほど陰影のある人物でもなく、なぜドストエフスキーはこのような前口上を延々と述べたのかわからないままに終わる。むしろイワンが主人公だと思ったが、次の小林秀雄の続編説をみるとなるほどなとも思う。しかし書かれなかったものまであれこれ想像させる作家はドストエフスキーだけではなかろうか。
小林『もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない、また堕落させるつもりだったらしい。』小林秀雄・岡潔「人間の建設」
『今日、僕等が読むことが出来る「カラマアゾフの兄弟」が、凡そ続編という様なものが全く考えられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思われる。・・・ドストエフスキイは、妻や友人達に、続編の腹案について屡々語ったそうである。僕の読み得た限りの文献では、N・ホフマンが、「ドストエフスキイ伝」のなかで、その事について書いている。アリョオシャはリザと結婚するが、グルウシェンカの誘惑から、リザを捨て、「人生否定と犯罪との荒々しい生活期を経て」僧院に逃れ、多くの子供達を相手に静かな生を終える、というのだ。(中略)いずれにしても、僕の考えは変わらない、続編は、全く別の作品になったであろう、罪人という永遠の題材を前にして、彼は又新しく始めねばならなかったであろう、と。』小林秀雄「カラマアゾフの兄弟」