まさおレポート

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記憶の断片 オヤジの勇姿

2015-12-12 | 心の旅路・my life・詫間回想

72歳になる現在でも親父はいまだに理解できない存在でいる。一体何者なのだろうと長年考えるともなく考えているが腑に落ちる解釈はいまだにない。9歳の時に亡くなっているので記憶に残っていないと言えばそうなのだが。

 

1964年の夏、初老の男性が家の縁側に座り50代の女主人と茶を飲んでいる。八尾と名乗るこの男性は近くの農業用溜池の跡地にできた箕面高校の教員をしている。私の父と従弟だという。随分とあっていないが、高校への通り道とあってふと寄って話をしてみたくなったとのことだ。

八尾さんは父方の祖父(つまり八尾さんの祖父でもある私のひい爺さん)は池田で大きな銅を扱う商家を営んでいたが、ばくちで身上をつぶしたと、わたしがはじめて聞く話をした。一晩で一軒の家を失うぐらいの掛けごとを平気でやっていたとその祖父の愚かしさを語っている。典型的な道楽息子だったのだろう。

 

1956年頃のある銭湯での記憶を思い出す。銭湯の一番風呂で彫り物をした職人が二人で話を咲かせている。競輪か競艇での勝負の結果を話し終わった後に「あいつは極道しよったからな」の言葉がふと耳に入る。この極道しよったとは今でいうやくざのことではどうもなさそうだった。賭け事で身を滅ぼすことをいうらしい。当時でさえそんな話が銭湯で聞けた時代だ、ましてや明治の初頭であればごろごろとことがっていたに違いない。

父方の祖母の兄弟でかつて明治の初めに池田の伍伍長という職にあった八尾伝吉という人物の話もした。明治時代に運送業で成功し、伍伍長という今でいえば市会議員にもなり、同時に大阪の侠客のっぽの松と難波の福の喧嘩を仲裁したことでその道にも顔の利く人物だったとか。この時代ならあり得る話だ。

八尾さんはよもやまの話のついでのように八尾城主八尾顕幸の末裔で八尾正治に連なるとも明かした。宮崎に嫁いだ父の妹の臨終に立ち会った際に彼女も同じ話をしたので多分本当なのだろう。

 

1970年の春、宮崎市内に住む老女が高齢のため危篤状態になっている。兄の息子の顔を死ぬ前に見たいと家族に懇望し、23歳になる男性に手紙を出して呼び寄せ、その男は枕頭に座っている。男性は1954年と1958年に一度この老女とあっているがほとんど記憶にない。なぜか理由はわからないが、行ってみようと思い、宮崎市に向かい、そしてこの老女の枕元に座っている。

老女はほんの少しだが最後のともしびが消える前に意識がはっきりとして、昔話を始める。生家で父親が賭け事で家をつぶしたあと、止むを得ず神戸の花隈で芸者になったことや、花隈で九州宮崎の青島出身の大物実業家と知り合い結婚して宮崎に渡ったこと、結婚後は不自由ない暮らしをしてきたことなどを語る。老女は自分の死を目前にすると来し方を語りたいのだ。リューマチで固まった手を23歳の甥(私)の手にあててどこにそのような元気があるのか、一時間以上も話し続ける。突然思いついたように生まれ故郷の池田に連れて行って欲しいと無理とわかっている要求を口にする。

老女は甥の名前を尋ねるので、甥は老女の意識が混濁しているのかといぶかしむが、どの漢字を当てるのかと尋ねていることを理解する。突然、湊川で最期を遂げた武将の一人である矢尾正春と云う武将が遠い先祖にあたるのだと、どこかで聞いたことがある名を口にする。老女はひと月後に亡くなる。

 

1973年の初春、26歳になる私はパリへの旅行のチケットを受け取るために旅行会社の男と渋谷の東急プラザの下にある喫茶店で会っている。40歳はこえている旅行会社の男の名刺には八尾忠雄と書かれている。26歳の男は八尾忠雄から一通りの説明と航空チケットを受け取ってビールを口にしている。八尾忠雄の名前からの連想でふと八尾(矢尾)正春の名前を思いだし、男に南北朝時代に生きた矢尾正春の事を知っているかと尋ねた。八尾忠雄は「八尾話ですか」と苦笑いをして、それ以上は答えずに次の予定があるのでと立ち上がってさっさとレジに向かい勘定をすませて去っていく。

26歳になる私は井の頭線で帰宅する電車の中で、八尾忠雄が「八尾話ですか」と苦笑いした理由を考えている。日々の生活に忙しい40男からみればつまらない先祖話の一種で、色々と聞いてはいるがその手の話に興味はないと言いたげだ。

1336年前の先祖話にいかほどの意味があるのか、630年も前のこととなると一体どれだけの先祖がいるのかと電車のつり革にぶら下がり、流れる夜景をみながら考えていた。平均25歳で子供を作りそれが630年を経ると、25代続くことになる。25代前の先祖は何人いるのか、10代で1024人、20代さかのぼると100万人だから25代前では3千2百万人の先祖がいることになる。当時の日本人はそんなにいたかどうか。26歳になる男は、確かにこの手の先祖話は無意味だとの結論に達したころに電車は当時住んでいた三鷹台に到着した。

楠木正成とともに自害した八尾正治の子孫が生き延びて江戸時代まで伊丹で酒屋として続き、後に池田に移って銅を扱う商いをしていたが父方の祖父の代に没落した。そんな物語が頭に浮かんだ。この手の話はなにかしら愚かしい先祖の自慢話に聞こえてあまり好きではないが子孫に語り継ぐことも何かしら有用ではないかと思いなおし記してみた。「先祖の足跡を追うなどやめときなはれ。何が出てくるかわからしませんで。」30年以上前に足跡を訪ねて訪れた池田のとある家の女性に言われた言葉が忘れられない。確かにその通りだと思う。先祖には輝かしい人物もあれば表に出したくない人物もいる。

 

池田の顔役八尾伝吉の甥ということで勝手気ままなブリキ職人として暮らしていた親父は子から見てよく理解できない存在だった。しかしささいなある出来事はいまだに脳裏に焼き付いて理解不可能な親父の思い出を輝かしいものにしてくれる。

当時煙草屋も営んでいたが、近所に住む酔った極道が何か因縁をつけて店を乗り越えて家に侵入してきた。親父が頑丈な五つ玉そろばんを片手に若い極道に立ちはだかった。既に60を過ぎている親父は若い極道に一歩も引かない、五歳の俺を必死で守ろうとしている、若い極道はその気迫に押されたのか、五つ玉そろばんでぼこぼこにされたのか記憶にはないが、わたしが隠れていた部屋から顔を出したころには何事もなかったようにわたしを抱き上げた。今から65年も前の記憶だ。未だによくわからない親父は晩年は病気がちで子供の目から見てもあまり格好良くなかった親父だが、この一幕の記憶の映像で親父はわたしにとって輝かしい至上の存在になっている。

幻視する記憶 延元元年(1336年)の湊川

湊川神社

 


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