まさおレポート

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転職の岐路 3 はざまの旅行 

2021-07-01 | 心の旅路・my life・詫間回想

NTTデータから日本高速通信へ転職が決まり、次の会社まで2か月の休暇をこしらえた。退職時の有給残日数が一か月あり、日本高速通信への出社は退職ひと月後に設定してもらったので合計で2か月ある。

この2か月の休暇は人生の夏休みだった。それまで常にサービス開始日が頭の片隅ではなくど真ん中に居座っていて四六時中解放されることがない5年間だったのでこの解放感はなにものにも変えられない。新しい職場への不安も少しよぎるがそんなものは今までの重圧に比べてものの数ではない。

これまで頑張ったご褒美を自分自身に与え、それに今後の英気も養わなければならない、世界に対する見方が代わり今後の仕事にも役立つだろう。

退職までの一か月はヨーロッパに行くことにした。そして一旦帰国し退職手続きを終えたあとはさらに一か月すきな地方を決めて旅行をし続けることに決めた。つまり後半の旅の行先は未定だ。

転職の岐路に旅行記がなんの関係があるのかとお思いの方はここでストップしてください。


1989年つまり平成元年の7月26日に成田を出発してクアラルンプール経由でロンドンに向かった。

英国では地下鉄に乗りEarls courtで下車してB/Bに泊まる。グリーンパークで行き交う人々を眺める。古いホテルが多い。競争よりも既得権優先の国だ。

イギリス国会議事堂の華麗な建築を眺めているとチェンバロ協奏曲が幻聴で聞こえて来た。

Westminster寺院、London塔に行列ができていてTorture Instrument塔の行列に並ぶとすぐ前に並んでいたアメリカ人が日本語のコーチを頼んでくる。

イギリス紳士は傘を持ち歩くと言うが誰ももたず濡れるに任せている。ビールが日本のように屋外で販売されていないなどに気が付く。

ピカデリーサーカスからSOHOへと歩くとLiveShow BarやPeeping Barなど風俗関係の店が多い。British Museumへ向かう途中の店で学生がきちんと1ポンドのチップを置いて出ていく。チップは一般客にとっては料金の一部であり、貧しい人々はチップなしでつまりディスカウントでべることができるプライドを保った二重料金制なのだ。

ビクトリアステーションから湖水地方Windermereへ列車で向かう500キロほどの旅で、Londonから少し走ると風景が一変する。混雑した大都会がのんびりとした倉庫や工場さらに田園風景へと変わる。

Windermereに到着後、Broad St.で愛想の良い親父が経営するB/Bを見つける。12ポンドと安い。翌日の夕方にWindermereのLakeCruiseでAmbre Sideへ向かうが真夏なのにかなり寒い。船上からはのどかで豊かな遊牧風景が眺められる。ピータ-・ラビットの作者ベアトリクス・ポーターの家とワーズワースの家を訪れる。

ビクトリアステーションから列車と船でフランスのパリへ向かう。小学校の先生4人組(女性)に何故か旅慣れていると見られて頼りにされる。彼女たちが付けた私のあだ名は教授。約5時間後にパリに到着した。

ParisからLyonに向かう列車SNCFで少し眠る。ルンペン風の男が多い。古い建築は駅の周囲には見あたらない。Lyonからマルセイユに向かう途中に工場群を見かける。Lyonは工業都市のようだ。列車の進行方向右手には美しい川が見えるのでご機嫌になる。

マルセイユに夜の8時に到着する。ホテルは”Imperial”と言う名前だがとんでも無く汚い。トイレに入るとペーパーもおいていなかった。今までで最低のレベルに泊まってしまった。しかし受付の男は親切で、ホテルから海岸への道を丁寧に教えてくれる。港まで30分以上かかったが途中では子供たちがサッカーをしているところに出くわしたり、小道をうろついたりで楽しんだ。

港はレストランが並び、観光客と地元の人々でにぎわっていた。そろそろ夕闇が迫り夜景が美しくなってきた。ブイヤベースのスープが実に旨い。155フラン。

朝マルセイユからニースに向かう。地中海の海の色がすばらしい。列車から見る山の地肌が荒々しくなってくる。

ニースに着くとすぐにドイツへ向かう列車の予約をすませる。列車の時間まで荷物を担いで街を散策する。海岸をあるくと女性は老いも若きもトップレスだ。タンニングやマッサージをして寝そべる人々の間を縫うようにマッチョな黒人がジュースを売り歩いている。

ドイツ・フランクフルトに向かう途中にイタリアのVentimigliaで時間待ちをする為駅をでると、イタリア人の若者が金をせびってくる。言葉がわからない顔をして離れる。

フランクフルトへの夜行寝台列車(クッシェ)に乗り込むと同じ箱でイタリア人のおじさんRenatoとドイツへ里帰りする18歳の若者が一緒になった。陽気なイタリア人はドクターストップで禁酒中だがワインはいいと訳のわからない理屈を言ってはぐいぐい空けている。若者はピルスナービールが旨いといい、これまたよく飲む。

若者は父がイタリア人で母はドイツ人、そのためイタリア語も話せる。三人は盛り上がって楽しい時間を過ごした。イタリア人レナートは日独伊三国同盟だとはしゃいでいた。

 

ベルリンの壁が実質的に崩壊する歴史的一瞬の現場に遭遇する。壁のコンクリートを削って記念に持ち帰る人々。屋台風の店で破片をビニール袋に入れて売っていたので一つ購入する。壁の向こうには高層ビルが見える。

ミュンヘンからビラクの町へ。はじめてアルプスの山並みを見て白い山肌を雲と見間違うほど岩肌が白い。森と岩が遠景にまだらに見える川沿いを列車がはしり最高の気分に浸る。夜8時頃にビラクの町に到着する。思ったより大きな町だ。

町にはドラウ川が流れてその川沿いに居酒屋風レストランがある。そこでビールとブランディーさらにワイン2杯飲む。台湾からの女性観光客数名と同じテーブルになり筆談で盛り上がる。

ビラクからウィーンへ向かう前に時間が有ったので昨夜のレストランに行き店員かマスターか不明だが美女の写真を撮らせてもらう。

ビラクからウィーンヘむかう列車からバカンス村が見える。小さなダムのように川の水をためてボートやヨットで休日を楽しんでいる。のんびりと休日を楽しむには最適のスポットだ。いつか再び来てみたい場所だ。

ウィーンではセントステファン教会前の広場にミュンヘン以上の賑わいを見せていた。日本人絵描きのアルバイトが多い。ウィーンでは泊まらずにそのまま夜行列車でベネチュアに行く。

日本人の旅行者Hさん、それに防衛大学生のI君と一緒になる。Hさんは大阪のF会館に勤務だというなかなかの好青年で29歳だという。I君は爽やかな22歳。

Hさんが節約のためにベネチュアで同宿しないかという。適当なホテルにチェックインすると背が高くなく、しかし骨格は頑丈そうなマンマ風の老婦人が経営している。

 

ベネチアから再びミュンヘンに向かう。マリエン広場をぶらぶら歩く。2回目だが相変わらず大道芸が楽しい。ギター・太鼓・シンバルでサイモン&ガーファンクルを歌っている。途中でイタリア人女性二人がダンスの飛び入り。インド系の青年が聞いたこともない旋律を演奏している。ギターを小型にしたような楽器と日本のそう風の楽器を演奏している。エスニックで面白かったが人気は無い。


このように一月にわたるヨーロッパの旅をした。ヨーロッパで毎日石の文化を見て歩き圧倒され反対のものを求めていた。石の文化と真逆のバリで過ごすことに決め再度成田を立ってデンパサールに向かった。

わたしは麻のジャケットを脱いでサマーセーター姿でイミグレーションに向かう。空港ビルは薄暗い。天井扇が回っているのが南国らしい。

すこし進むとガラスの巨大な自動扉があり、出ると大勢の人が手に手に名前を書いたカードを持って出迎えている。車は日本と同じ左側通行で道路は暗闇の中を走り、ときおり店先にうすぐらい明かりが見える。とにかく薄暗い、それが第一印象だった。

クタのホテル・メラステは通りの左側にあり、バリの若者がたむろしている駐車場を抜けると片耳に白い花をさし艶やかな長い黒髪の女性がフロントでチェックインを行う。

海に面した部屋に通される。庭に面した大きなガラス扉を遮っていたカーテンを開くとガラスの向こうにクタビーチが見えた。風にそよぐ椰子の長い葉が南国だと実感させてくれる。

朝になりガラス扉を開けると強烈な直射日光と心地よい風が吹き抜ける。ビーチ側には気持ちのよさそうなあずまやが見える。朝食をとるためにロビーに向かう途中にスイミング・プールが眼に入った。

バティックの看板の店、頭に荷物をのせた婦人たち、朝市、竹で編んだ畳大の日よけが広場を覆い、1本の竹で支えた日除け傘の下は野菜、果物、雑貨、魚、鶏肉、豚肉が竹ざるに並ぶ。日用雑貨屋と荒物屋、銀製品を売る店、すこし離れた場所にナシゴレンなど食べ物と飲み物を飲ませる店、自転車の修理屋が目に入る。建物の先には、道をおおいかくすほど枝を張った巨樹が広い日陰をつくっている。

豚の丸焼き、山羊肉の串焼き、魚の唐揚げなどの料理店、雑貨などの行商も店を広げている。椰子酒アラック、シャツや布地を売る店、ジャムー(インドネシアの薬草から作る民間薬)の店がバラック小屋で商う。

皮膚病にかかった痩せて汚い犬、耳のとれかかった犬が通りをうろつく。すこし歩くと豚の悲鳴が聞こえてきた。庭を覗くとバリ特有の黒豚が〆られるために横たわっていたがそのうち甲高い絶命の叫びをあげる。ナタを持った男が一頭の豚を解体し塊を積んでいく。

朝飯にカフェに入ると緑に囲まれた庭にハイビスカスが咲いている。テーブルに薄い食パンが二切れ、パパイヤ、パイナップル、バナナの盛り合わせ、バリ・コーヒー、ジャムとマーガリンの入った小皿がおかれる。隣の席ではミーゴレン(焼きそば))を喰っている。きゅうりの大きな輪切りがのっていて半径は日本のきゅうりの2 倍はある。

カフェの敷地には椰子が林を作っている。庭越しにバナナの茂る林がある。庭で男が鶏を抱えてしゃがみ込み首のうしろをさすりマッサージをしている。闘鶏用の鶏は一羽ごとに籠に入れられている。

おおむねこうした日々の繰り返しでひと月は終わった。


成田に着いたわたしは身も心も完全に蘇っていた。二月にわたる旅で体は真っ黒になり、ひげも伸び放題、見かけも中身も大きく変わり次の仕事に対するやる気が湧いてきた。人生にはときおり大規模な心身のメンテナンスが必要だと思い、転職の岐路と相性がよい。そんな思いであえて記してみた。


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