goo blog サービス終了のお知らせ 

まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

新電電模様

2019-02-10 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

1991<日本テレコムの全国サービス展開が完了し新電電のシェアは逆転>

9月4日 日本テレコム株式会社が全国でサービス可能に。全国展開を決断したのは第二電電が先であったが結果的には鉄道網への敷設に利がある日本テレコムがこのPOI展開レ-スに先に到達したことになる。日本高速通信の全国サービスはこれより2年半遅れる。

9月17日 東名阪県間通話のシェアで新電電がNTTに逆転。この全国展開競争の進展と新電電各社のシェアアップが比例関係にあったかがわかる。NTTの4月8日発表合理化案(管理職のみ対象)などはこの逆転現象に強烈な刺激を受けての措置とも考えられる。

第二電電株式会社も日本テレコムと遜色のないPOI数で、ただ一社日本高速通信だけは設立初期から経営方針として全国展開はしないと決めており、後になって花岡社長時代の途中からPOI競争を追いかける羽目になり、1995年3月2日にようやく全国展開を終えた。実に日本テレコムに遅れること2年半であり、結果的に業績面でかなり立ち後れることとなった。(このころには既に2強1弱と言われていた) 

新電電開業初期のPOI展開の遅れはぶつ切り足し算料金制のもとでは料金格差が明瞭に現れるため消費者からは避けられ、たちどころに獲得顧客数や収益の差となって現れ、最終的にKDDIとなって合併されるまで他の2社に追いつくことは無かった。

 

 

日本高速通信は大株主の一つである住友銀行から元副頭取の花岡社長を出している事もあり、住友銀行から子飼いの部下を引っ張り経営企画部長に据えていた。花岡社長の社長室業務も担当しており、やはり意思疎通がたやすく、出身元の人事に影響力を及ぼすことのできる気心のしれた元部下を置きたいという気持ちの現れた人事であった。対郵政許認可の任にあたる企画部長にはトヨタ自動車株式会社からの出向者を当てていた。この当時の日本高速通信ではトヨタと住友銀行は出資額で差はそれほど顕著ではなかったので2大ポストはこの両社が分け合う形となっていた。三菱商事や日本道路公団などの複数の株主の発言力のバランスに重きを置いた配慮も働いていた。

後年ソフトバンクに転職した経験から当時の日本高速通信を眺めると「営業や経営に目を向けた人事」ではなく株主に目を向けた人事構成であった感を否めない。資本構成を反映した勢力均衡は止むを得なかったのだろうか。冷静にあまたの通信事業者の盛衰を振り返ると人材配置で既に会社の運命が決まったと言ってよいと思う。

 

<この当時NTTは世界的にも稀な特異な人材交流、援助を新電電に行っていた>

{経営の中枢に人材援助}

新電電各社は1985年の事業許可申請(1985年4月8日申請 同年6月21日許可)以来、NTTからの人材派遣を要請し、専務からスタッフにいたるまでかなりの人数が各社に出向してそれぞれの社内で経営の中枢と言ってもよい重要な役目を果たすことになった。2012年12月現在のKDDIやソフトバンクの成長とその間のNTTとの厳しい競争状態からみるとこの人材派遣の事実はかなり奇異な感じを受けるに違いない。

{ NTT系の人材派遣子会社}

人材援助の中心となったのはNTTのある小さな人材派遣子会社である。この会社は「NTTなにがし」のようにNTTブランドが前面に出ていないので知らない人にはNTTと全く関係がない会社に見える。NTT社員は新電電各社に派遣される場合、一旦この小さな会社に出向して、この会社から新電電各社に人材派遣するという方法をとっていた。

何故そのような手の込んだ形で人材を派遣したのか。直接的な派遣関係が外部から見えることを嫌ったことが第一の理由だと推測できる。

{日本特有の特異な人材援助}

この通信事業競合会社間での人材派遣というのは海外では皆無で、例えば米国の通信業界特にAT&TとMCIなどの間では到底考えられない不思議な関係であった。又国内でも例えば自動車産業でトヨタがホンダやスズキに経営中枢の人材を派遣するなどとは企業提携でもしない限り、絶対に考えられない。(引き抜きなどの転職なら当然ありうる話だが) この不思議な人材派遣が堂々と行われていたというあまり知られていない事実は、当時のNTTと新電電各社の互いに相手をどのように見ていたかの本音がかいま見える格好のテーマだと思う。いずれにしても新電電各社とNTTはこの頃、通信業界のライバルと言うにはあまりに規模が違いすぎた。そのことがこうした日本特有の特異な人材援助を成り立たせたのだろう。

 

<派遣されたNTT社員はどのような業務を行っていたか>

{奇遇もあった}

私が転職した1989年の暮れ、日本高速通信には当のNTT子会社である人材派遣会社から企画部へ一名、他に設備部門で2名の合計3名が既に在席していた。その中の設備関係にいた一人は私が20年も以前のNTT時代に同じNTT中央電気通信学園大学部の同窓だったこともあり、20年ぶりの再会に実に驚いたものだ。

さらに後年、NTTデ-タ時代の先輩上司も早期退職とセットでの再就職あっせんで再び出会うと言う奇縁も経験した。このような退職後の再就職組を除くと彼らは2,3年の派遣の任期を終えると再びNTTの人事ローテーションに従い再びNTTの職場に復帰していった。

{不思議な人材ネットワ-ク}

企画部に派遣された社員は契約約款の作成を担当していた。顧客との契約事項を特有の言葉で書き表していくには通信業務全般の知識と経験が必要でありスペシャリストとして業務をこなしていた。

設備部門に派遣された社員はNTTとのPOI設計や相互接続設備の設計と設営に従事していた。又、設備部門のマネジメントは同じくNTTの大規模電話局長経験者が同様の会社から派遣されていた。大規模電話局の局長経験者といえばNTTの最高幹部候補であり、何故派遣されてくるのかと不思議な気がしたものだが、一層不思議なことに三代続くことになるその三人が揃って同じ電報電話局長経験者であった。

NTT理事出身の専務の配下に現役のNTT中堅幹部と現役のスタッフが新電電の一社で技術系の中枢として存在したという不思議な人材ネットワ-クはメディアには決して取り上げられない新電電各社草創期の話ではなかろうか。

{DDIと日本テレコム}

他の新電電2社(DDIと日本テレコム)にも同様にNTT派遣社員やNTT早期退職の新電電再就職組がいた。新電電各社からみて早期退職再就職組は社員としての平均的で妥当な給料水準を支払っていたが派遣社員に対してはNTT子会社の派遣会社に給与水準で2倍以上高額の派遣費用を払っていた。

これらの派遣費用は勿論彼らに直接そのままの額が支払われるのではなく、元の職場と同額レベルが彼らには保障されていて、それに多少の出向手当的なものが付加され、残りはNTT子会社である当の派遣会社の取り分となっていたから新電電各社からみれば早急に自前の社員を育成する方が賃金費用から見ても有利であり、各社の派遣社員数は徐々に減っていった。

日本高速通信は派遣人数も在任期間も他社に比較して長かった。社員として採用するなり人材を育てればよいのだが、このあたり事業に対する人事政策上のポリシ-がはっきりしていなかったことも一つの理由だろう。

{派遣社員の働きぶり}

彼ら派遣社員は各社で貴重な即戦力として誠実に働いていたし、競争相手のNTTとは相互接続交渉の諸局面で厳しい対立関係が続いていたにも関わらず社内で疎外感ももたず(そうみえただけかもしれないが)、どちらかと言えば社員からも大事にされていた。

このあたり極めて日本的な現象と言える。米国のエコノミストたちが聞いたら腰を抜かすかもしれない。「一体会社の機密はどうやって守るのだ」という非難と当惑の声が聞こえてきそうだ。当初は新電電各社が独り立ちできるまでのニ-ズかと思ったが、随分長いあいだ、おそらく10年ほどにわたって、(派遣要員は交代したが)このNTTからの派遣システムは続いていた。

 

<それでも新電電各社の人材政策には差が現れていた>

{DDIの場合}

第二電電はNTTの30代後半から40代前半の中堅幹部社員を一本釣りで副社長や技術系の幹部に採用していた。日本高速通信の専務がNTT出身者ではあるが既に退職年齢に達していた人材を迎えるのと比べると、働き盛りの年代を自社に将来を支える幹部として登用していた点が大きく異なる。千本氏や小野寺氏がこの草創期に引き抜かれた人材である。千本氏は副社長を退任し慶応大学院の教授を経てイ-・アクセスを創業した。小野寺氏はKDDIの社長を長く務めた。不足した要員は積極的に中途社員を採用して幹部に登用していた。斜陽化していた船会社の通信士から転職してネットワークセンター長に登用されていた旧知もいた。

{日本テレコムの場合}

日本テレコムは人材を親会社JRと子会社の鉄道通信の技術者に求めた。この子会社は国鉄時代からの長い歴史を持つ通信会社で電話や無線の技術者を豊富に抱えていた。

国鉄民営化が1987年4月1日に実施されるに先立ち1986年12月に鉄道通信株式会社が100%出資会社として設立されていた。

転職当時の日本高速通信

<人生の転機>

{面接}

1989年の暮れ12月にNTTデ-タ通信株式会社から新電電3社の一つである日本高速通信(1984年11月16日設立)に転職した。それまでNTTデ-タ通信株式会社では私はコンピュ-タと通信を結んだオンラインシステムの開発に長年従事してきたので、当然その方面での部著に配属されるものと予想しての転職であった。

入社面接でのNTT出身専務の企画部への打診があり、NTT接続や制度問題を専門とすることになるという実に思いがけない展開となった。人生の転機と言うにふさわしい。

東京溜池にある森ビル・ア-クヒルズ31階の役員会議室。NTT出身の技術担当専務、郵政省出身の通信制度担当専務とトヨタ出身の人事・総務担当常務から入社面接を受けたが、技術担当専務から唐突に「郵政・NTT対応をやってみる気はないですか。当社は企画部で郵政とNTT対応を行っているが、郵政省からもNTTからも電気通信の経験者を配属して欲しいと言われているのです」とこちらの意向を確認する調子で言われた。こちらも郵政・NTT対応などは未経験で仕事の中身は皆目わからない、しかしコンピュ-タシステムの開発の仕事はキャリアとしては卒業したいとの思いも強くあったので、未知数であったが興味深くもあり応諾した。

コンピュ-タソフト開発屋がなぜ郵政・NTT対応の企画部に配属になったのかとあれこれ考えてみた。職務経歴書の所有資格欄に「電気通信主任技術者 伝送交換」と記したこともあるいは一つの理由かもしれない。技術担当専務はこの資格からNTTの通信技術の専門家と判断したのかもしれない。

この資格はNTTデ-タ通信本部に在職中にNTT民営化を迎え、そのときに出来たこの電気通信主任技術者有資格者をNTTデ-タ通信部門も会社として必要な員数を確保しなければならず、一定の条件を満たす限られた社員に授与されたものだ。大学の電気通信工学部系と同レベルの必要単位を履修していることと実際に設備管理の経験が相当年数あることが条件で、不足している電気通信関連法規の講習を受けてこの資格を得た。しかし人生の節目にはこうした資格も岐路に大きく左右することがある。

{ア-クヒルズ}

当時は交通の便の悪いところで、新橋の旧駅ビル前から出ている都営バスで通勤していた。最寄りの地下鉄は千代田線の赤坂駅でこれは確か15分程度歩く事などで、通勤にはバスの方が便利だった。このビルには外資系ファンド会社などが多数テナントとして入り込んでいて朝の通勤時などは外国人社員たちがスターバックスコーヒ-の紙コップを片手にオフィスに向かう姿が日常風景だった。最初に面接で訪問した時は東西ウィングに分かれているために東西を間違え、エレベ-タを降りると外国証券会社の立派な受付があり、当惑しながらあたりを見回していると受付女に不審な目を向けられた。

(このすぐ近くに全日空ホテルがありその一室に淀川長春氏が長期滞在していた)

{通信制度担当}

米国ではレギュラトリー部門と言われ電気通信事業の許認可申請作業を行う業務である。当時は電話サービスエリアを拡大する場合は電気通信事業法上の許可を必要とし、電話料金を新たに設定、変更するには総括原価方式に基づき膨大な資料を作成して認可を受けなければならなかった。ちなみに許認可とひとくくりにされるが意味合いは異なっており許可とは原則禁止だが郵政省の判断により認めるものとされ、認可は一定の認可条件をクリアしたものを郵政省が認めることを指す。官庁の共通用語である。

{偶然は神意}

偶然は神意であるとの趣旨を芥川龍之介は「侏儒の言葉」で述べている。私の郵政対応や通信制度に関わる仕事はこんな偶然にも似た面接の一言で始まり、以後17年に渡り通信制度とNTT接続交渉業務に従事することになる。

振り返るとなるほど偶然はそれぞれの人生を決定する大いなる神意であると思えてくる。面接場となった東京タワ-を望む役員会議室から大きな窓を眺めると時折百舌鳥(もず)ほどの大きさの鳥が眼前を横切る。32階まで鳥が飛んで来るものなのかと不思議な思いで見つめていた。

{日本高速通信のその後}

この日本高速通信はその9年後1998年12月1日には 国際電信電話株式会社を存続会社として合併し、ケイディディ株式会社 (KDD Corporation)となる。郵政省共済組合 (9.26%)についでトヨタ自動車が第2位株主 (8.42%)となり、トヨタが日本高速通信から柏村肇氏など役員を派遣し経営に参加することになる。その後KDDIとなるがトヨタは13%と持ち株を増やしている。日本高速通信という個別の競争分野では負けたが通信事業としては立派に成功している。当初からこのような行く末を予測していたかと言えばNOだろうが資本力による成功事例と言える。

 

<当時の職場>

{トヨタ色とQC活動}

当時の日本高速通信は、主要株主の中でも特にトヨタ色が色濃く出ていた。当時盛んであった職場でのQC活動の様子を紹介することで日本高速通信でのトヨタカラ-の雰囲気を伝えられるかも知れない。

トヨタ自働車株式会社のQC活動は当時のずっと以前から「カンバン方式」というネ-ミングを通じて世界的にもその活動はつとに有名だったが、当時の日本高速通信もトヨタ自動車・専務の東款氏が副社長に就任してからは大々的なQC活動を展開した。トヨタ本社からQC専門家を招いて盛んに社員教育を行っていた。

{株主と役員構成}

日本高速通信はトヨタ自動車株式会社、日本道路公団、住友銀行、三菱商事株式会社等が主要株主で、出資比率に応じてほぼ比例関係に役員や主要ポジションを占めていた。入社当時の主な役職と出資会社等の関係の記憶をたどると以下のようになる。

会長 トヨタ自動車株式会社、社長 住友銀行、副社長 日本道路公団、専務 NTTと郵政、総務人事担当常務 トヨタ自動車株式会社、企画担当常務 三菱商事株式会社、建設担当常務 日本道路公団、企画部長 トヨタ自動車株式会社、総合企画部長 住友銀行、総務部長 三井銀行、人事部長 トヨタ自動車株式会社などのラインアップだった。

{QC活動テ-マ}

当時の私が所属した企画部のQC活動テ-マは、「必要なドキュメントファイル探索時間の短縮」であった。トヨタから出向してきている部長(この方は畑違いながら企画部門でも有能な方で企画部の仕事を教えて頂いた)が企画立案や資料作成に必要な資料を持ってくるように部下の企画部員に指示する。すると指示された部員(大抵は20代の大学卒業後間もない若手社員)は10メ-トルほども離れた壁際に林立するライトグレ-のスチ-ル製書庫棚に歩いて行き、必要な資料を含む厚さ10センチ以上のファイルを探し出して部長の机の前に揃える。この探索時間がかかりすぎることを何とか効率化したいと部のテ-マとし、部全体がこのテ-マに取り組むことになった。

今では部長でも必要な書類は社内LANでア-カイブにアクセスして自ら検索するのが一般的だが当時は分厚いファイルを机の横に積み、シャ-プペンでレポ-ト用紙に手書きして郵政省に向けた報告書や経営会議などの提出資料を作成するのが日常的な風景だった。

平均の探索時間を計り数値化し、そのうえで5分以内での探索等の目標数値を設定した。誰もが悩むファイリングの作法でありファイリングの仕方は人の数ほど存在すると言われる。言い換えれば誰がやっても決め手はないほど紙資料の最適なファイリングは難しいのだがこの難題に取り組んだ。

QC活動を体験させることが目的だったので、実効果のほどはこの際問題ではない。現在ではドキュメントを電子化することで机上で検索をかけると即時に必要な資料を入手できるのだが、いまだIT化されていなかった当時の業務風景の一旦を想像していただける参考になる。だがこの当時のQC活動の一端を紹介したのは実は単に当時の業務風景の一端を描写したかったからではない。

 

<本業では成功していても異業種での経営は力点がずれることも>

{トヨタ流は徹底していたのだが}

トヨタ社員が使用している鉛筆も、芯がちびてしまって短くなったものを物品担当まで持っていかないと新品をもらえないとの話をよくトヨタ出向者から聞いたこともある。乾いたぞうきんをさらに絞るという話も有名だった。無駄を省くというトヨタ流はこうしたQC活動やトヨタ出向者の目配りで充分に徹底していた。

自動車製造で2013年現在も見事に成功を続けるトヨタがなぜ日本高速通信単独では失敗したのか。現時点(2013年8月)ではKDDIで京セラ(16%程度)に次ぐ第二位の大株主(トヨタは13%程度)として存続し創業者利益も十分に得ているので通信事業の失敗という言葉を使うには妥当ではない。

新電電の中で最下位となりKDDとの合併、さらにはDDIとの合併という資本投下戦略として見る限り成功と言うべきだが、日本高速通信は合併吸収されその名前は跡形もなく消えたという点ではやはり残念であり日本高速通信の事業運営の観点から見る限り失敗といってもよい。

ブランドの定着した優秀な品質の車を、適正な価格で、確立した販売網を通じ売れば成功する自動車製造業と、通話品質には特段の差のない電話サービスを販売する通信事業者では経営の力点が大きく異なっている。優秀な品質の車を適正な価格で作り続けるためには日頃のQC活動とカイゼンが特に必要だが、一方通信事業者にとってはQC活動で大きな改善効果の例はあまり見受けられない。電電公社時代にはオレンジ活動があり、NTTデータ通信時代もQC活動の流行があり社内で実践されたが顕著な改善を思い出すことはできない。

DDIや日本テレコムでもQC活動に社を挙げて取り組んだという話は聞かなかったし、のちに転職するソフトバンクでもQC活動は提案の遡上にすらも上がらなかった。それよりも規模のメリットを追求するためにNTT局舎工事を増やすこと、そして顧客獲得に焦点が絞られていた。つまり企業形態と置かれた状況で経営のポイントが異なるのだ。

ソフトバンクが買収した当時の日本テレコムでは①個人の机の無い職場 ②固定電話のかわりにPHSを使う職場に向けて の2大テーマに向けて一大運動を繰り広げていた。これも前述の例と同様で急ぐ必要のないアイデアの追及を行い、今そこにある課題への経営のポイントがずれているように思えた。

長々とQC活動について述べたがQC活動を否定する考えをもっているわけではない。一定の地位を得た企業では地道な活動として定着させるべきであるとも思う。QC活動に例をとり、優秀な経営者のそれまでの企業における成功体験や経験が異業種である通信事業などではマイナスに働くこともおおいに有り得ることを示したかった。成功体験の本質を見誤ると通信事業の栄枯盛衰を招く。

 

<当時の職場IT環境>

当時の職場のIT事情も述べて置くと、転職前のNTTデ-タ通信株式会社では1988年頃から社員一人ひとりにPCが配布されていたが、日本高速通信ではPCで仕事をしているのは席の周辺や同じフロアでは私だけという、そんな時代だった。PCで作成した資料を紙に印刷するのも席を立って20メ-トルほど離れた窓際の共用プリンタ-までプライベートに購入したノ-トパソコンを抱えていかなければならなかった。

その数年後には社内でも社内LANが整備され、日本電気製のパソコンが各社員のデスクに備わることになった。全社員が田町にある日本電気本社ビルの中で操作方法の講習を受けた。講習のチュ-タ-は女性で、いい年をした管理職もまるで子ども扱いの言葉づかいがかなり不快であった。すでに世の中の企業は年齢の高い層の抵抗に苦労しながら社内LANを使いこなし始めていた。メ-ルの発信量に応じてボ-ナスを査定する企業が話題になったりした。

それでも日本高速通信のIT旧世代に属するほとんどの役員諸氏は「重要な案件をメ-ルなんかでよこすな」という気分と風潮が強く、自分では一切操作せず(できないので)メ-ルを毎日部下や秘書にプリントしてもらう役員や部長、ひどいのになるとメ-ルなど全く読まないで無視する役員もいた。

役員がメ-ルを読まなくても、その読まないために生じた落ち度の責任は問われない時代がその後数年続いた。一般社員用のPCに比べて一際高価な大型ディスプレイとPCが席上に設置されているだけに、やや滑稽な風景であった。これは日本高速通信だけにみられた風景ではなく他の通信事業者も似たりよったりであったと思う。ただ出向者や退職後の役人出身が多いために他の通信事業者に比べてその傾向はやや強かったかもしれない。

 

<人材配置>

{出向元の役職ランクが色濃く出すぎ}

当時の日本高速通信は人材の適材適所が十分とはいえない。出向者の出資会社の資本貢献度がそのまま出向者の役職ランクにストレートに反映していた。

出向元の職場ではそれぞれ優秀な方であったことは間違いないが、銀行や自動車、官僚、道路公団という全く異業種からIT産業の母体ともいえる通信事業への出向で、腕を振るうにふさわしいかどうかは全く別の問題であったと言えるだろう。他の新電電2社でも出向元の役職ランクが新電電に来てからも影響することは当然あったと思うが、日本高速通信はやや極端にその傾向が出すぎていた。

{NTTからも人材}

面接していただいた技術担当専務はNTT元理事で、私が20代から住んだNTT世田谷中町社宅が同じだったという奇縁があった。もっとも専務の方は平社員の私の2DKに比べて3DK幹部社宅という違いはあったが。当時のNTTでは一定のクラス以上(理事)は車での送迎が一般的であり、社宅には黒塗りの車が送迎のために駐車していた。そんな光景を何げなく記憶していたので、この会社でお会いするのは不思議な縁と言うべきだった。

NTTもこの当時は人材を一種の社会奉仕感覚で新電電にも出していたと推測される。この専務もその後日本高速通信を辞めて再びNTT関連の団体(日比谷同友会)の役員に就任されており、その後新しく建った新宿のNTT本社ビルにおられることを知り部屋を訪れてお会いしたことがある。この方の面接で運命が決まったことになり、今でも感謝している。

{郵政省からも}

郵政担当専務も郵政省の元役人で専務職に就かれていたが、やはり日本高速通信を数年で退職後、郵政省の関連会社で、いくつかある郵便物運送会社のひとつで社長をされていた。新宿の改札口でお見かけしたことがある。官僚天下りと渡りの実例である。

当時はよくも悪しくも郵政対応が非常に重要事項であり、DDIも郵政出身の副社長にそのポジションを与えていた。日本テレコムは郵政出身者をその地位には迎えていなかった。各社それぞれに官僚出身者を当てるポジションに各社の天下りに対する経営方針が透けて見える。この郵政担当専務からは文章作法からはじまる郵政対応のイロハを教えて頂いた。

<当時の三社長の苦労や激務>

私が転職した当時の社長は住友銀行副頭取から就任した花岡信平氏であり、初代社長で在任中に亡くなられた日本道路公団理事長出身の菊池三男氏の後を継がれた。花岡社長はおらかな人柄で大変人望のある方だったが在任中に肺がんの手術で数か月の入院をされた。その後を継がれたトヨタ元専務の東款氏も三代目社長就任後にやはり胃がんで数か月入院された。三代続いてのトップ不在という空白が合わせると1年近く生じたことになる。病気自身は転職以前から発生して隠れていたのだろうが年齢的なものだろうか力を振るべきときに長期の入院を余儀なくされた。草創期当時の三社長の苦労や激務ぶりが忍ばれるが日本高速通信の経営という観点からは三代続く不運にも見舞われたことになる。

<日本電装との人事交流もあった>

トヨタ関連の日本電装も日本高速通信に出資しておりその関係で当時副社長が送り込まれていた。最初に就任された副社長は阪神淡路大震災の際には自らバイクを駆って現地に飛び救援物資を届けたという逸話の持ち主で非常に行動力に溢れた方であった。

二人目の副社長はかなりな高齢(おそらく80歳前後)ではあったが驚くほど頭脳の働きの柔らかな方で就任直後に業務内容の説明を行ったがNTTや郵政対応の複雑な問題をたちどころに理解されるのには舌を巻いた記憶がある。

PHSが世間の注目を浴び始めると日本高速通信もアステル東京に出資することになる。日本電装は上記の副社長のパイプもあり、PHS端末の開発と製造に意欲を燃やした。既に当社の工場内のコ-ドレス電話で開発実績があり、その技術開発力でPHS端末開発に乗り出そうとしたのだ。一時期日本高速通信の社員も多数日本電装に出向して開発に参加した。アステルの撤退とともに日本電装の携帯端末開発熱も終焉した。

<日本高速通信はATM交換機での巻き返しを狙う>

日本テレコムがフレ-ム通信に盛んに注力していた1996年当時、日本高速通信の社内ではATM交換機がそれまでの電子交換機にとって革新的な装置として注目された。ATM高速通信メニュ-(専用線の提供など)も可能でフレーム・リレー通信と同等性を持った使い方も可能な優れものというふれこみだった。

NTTから迎えた角田氏(のちにフュージョン・コミュニケーションズ社長)がこの導入に意欲をもやし、新電電2社に対する遅れを取り戻す新機軸にしたいと考えていた。当時東大の教授だった齋藤忠夫教授も各種のセミナ-でATMの時代がやって来ると唱導していた。(インタネット通信の時代がやってくるとはだれも言わなかったことに注目すべき)

若手技術系社員を終業後ベルリッツに通わせて英語力をブラッシュアップした後シカゴのAT&T交換機開発センタ-に1年間養成のために送り込んだ。私が米国出張でシカゴに立ち寄った時彼はこの多機能ATM交換機が日本のネットワ-ク仕様に適合するかどうかの確認作業にあたっていた。おおいに期待された多機能ATM交換機であったがその直後に登場したIPル-タ-が世界仕様として優れていると判明し徐々に姿を消していった。

このときにATM高速大容量のメニュ-の一つとして50メガビットクラスの提供可能性が生まれ慶応大学の村井純助教授(当時)やインタ-ネット・イニシアティブが注目し、東京大阪間の高速回線としての実現可能性などを検討したことがある。こうしたことが縁で日本高速通信はIIJの子会社への資本参加を行い、のちのKDDとの合併時には日本高速通信から相当数の社員がこの社の傘下会社に移った。さらにATM交換機導入を主導した日本高速通信専務の角田氏もフュージョン・コミュニケーションズの社長に就任し、多くの社員が新会社に移った。ATM交換機は結果としてあまり日の目をみなかったがこうした会社を生んだきっかけになった。

 

<余話>

ATMからIPへと徐々に世間の注目は転換するのだが2000年当時までATMが主導的だった。ADSLサービス提供会社のアッカや東京めたりっくでは基幹網にATM伝送方式を利用していた。この当時にいち早くIP網を取り入れたのはソフトバンクであり、技術部門を主導したCTOの先見性は評価されてよい。

 

{日本高速通信の場合}

日本高速通信はNTT出身専務とNTT子会社派遣要員に加えて日本道路公団の通信技術者を核に据えた。DDIのNTT技術者大量引き抜きや日本テレコムの鉄道通信出身者に頼ることができない日本高速通信は日本道路公団の通信技術者に頼るだけでは通信技術者の層が薄くスキルレベルが低い。そのため他社に比べてNTTからの多めの派遣に頼らざるを得なかったという事情があった。その後の各社の盛衰はこの人材政策と無関係ではないかもしれない。

 

<素朴な疑問として何故NTTは社員を新電電各社に派遣したのか>

{奇異な協力}

彼らは全般に優秀で誠実に業務をこなしていたが企業に必要な愛社精神を期待する方が無理な話で、やはりどこか冷めていた一面も否定できないだろう。日本高速通信に対する人材派遣、DDIに対する引き抜きの許容、新電電三社に共通したことだがNTT退職者の再就職斡旋と色々な形でNTTは新電電に人材提供をしてきたことになる。

競争相手に人材派遣するという他の業界や他の国では見られない一見奇異な協力は何故生まれ、継続してきたのだろうか。幾つかの可能な理由を考えてみたい。

{横綱相撲}

真藤総裁時代の新電電に対する鷹揚な育成マインド説。通信事業者としての規模と格の違いからNTTは横綱相撲をとってしかるべきであり、巨人と蟻に例えられていた時代の、まだまだ蟻の存在である競争相手(といっても横綱と幕内ほどの差があるが)新電電を人材面でも育成してあげようとの寛大な配慮から出たもので、人材派遣により不足する人材を援助してあげようとの説である。

{日本縦断マイクロウェ-ブの売却}

真藤総裁時代にはこのほかにも他の二社に比べてネットワ-クの建設に困っていたDDIに対して、NTTでは既に光ファイバの縦断幹線が完成していたために不要になった日本縦断マイクロウェ-ブの一部を協力的に売却したという伝説に近い逸話が残っている。

この売却はNTTにとって不要資産の整理という側面もあるが、他の新電電に比べて唯一自前ネットワ-クを持たず、当初最も弱い新電電とみられていた第二電電株式会社にとってまさに起死回生の画期的な援助ではなかったか。おそらくこのマイクロウェーブネットワーク網の取得がなければ、今日のKDDIの隆盛は無かったのではないかと思われる。

{草創期の接続料金は顧客料金と同額}

草創期の新電電各社に対するNTT接続の費用の設定にあたって、現在の長期増分費用方式に見られる接続料金の複雑・煩瑣な議論をあえて避け、NTTの地域電話料金と同じくMA内三分10円に設定することに決めたのも真藤氏の主張だと聞いたことがある。

(実は地域電話料金相当とされた当初は、NTT側の計算と交渉が面倒なのでお安くしておきますよと設定されたものと当時の新電電各社は信じていたのだが、後年の接続料金=アクセスチャ-ジが算出されてみると接続料金の方が数円安いと言う事実も判明した。発表された接続料金…接続時点で2.81円が課金されその後秒ごとに0.0753円従量課金されていく…はそれまでの加入者市内料金よりも3分料金換算で数円下がっていたこれなどは後から振り返るとやや滑稽な双方の誤解の産物というべきかもしれない)

{新規ビジネス}

NTTが当時進めていた新規事業展開の一つという説。 「電話線にぶら下がって飯を喰うな」…たしか真藤氏が当時のNTT社員に対して発奮させるために言った挑発的揶揄だったと記憶しているのだが。…からデジタル化、ネット、デ-タ通信、今の言葉でいえばIP事業等を中核とした他の「新規事業で飯を喰え」との檄が飛ばされていたころなので、この人材派遣事業も格好の新規事業となった。しかしこれはせいぜい100人にも満たないと思うので、新規事業の規模としてはかなり小さく、この説は説得力を欠く。

{社員訓練の一環}

NTT社員の訓練・勉強説 入社以来、独占に守られて、他の世界をしらない多くの世間知らずの社員に外部の風にあたらせることでもう一枚皮が剥けて成長してほしいとの期待から派遣社員として送り出すとの説。特定の中規模都市の局長経験者が常に次のポストとして派遣されてくる事から、NTT人事システムの一環としか思えない事象も見られた。NTTからするとポスト処遇に困った時のテンポラリ-ポストの感もあったと思う。

{新電電ワッチ}

NTTの新電電ワッチ説 当時のNTTは相互接続時にNTT自社網に影響を受けることをかなり心配していた。しばしばNTTからネットワ-クに「擾乱」(じょうらん)を与える危惧があるという大時代的な言葉も聞かれた。それだけ、新電電の技術力やマインドに不信感があったということなのだろう。

こうした何をするかわからない新規参入者をワッチしておく必要性を感じていたのではないか。一定のレベルにある通信事業の常識をわきまえたNTT社員を新電電側に派遣しておけばそうした擾乱を与えかねない危険な接続行為に歯止めがかかると期待したのではないか。それに加えて新電電の内部情報とまではいかなくても、経営の感触も得たいとの気持ちもあったかも知れない。

上記のさまざまな思惑が推測されるし、又それぞれの要因が互いに絡み合っての派遣政策であったかもしれない。この4つの説の中でも真藤社長時代の鷹揚な育成マインド説とNTTの新電電ワッチ説がどうもプライオリティ-が高そうに思う。育つかどうかわからない新規事業を見守るといった風情と、何をするかわからない新参者ワッチの双方がいずれも当たっている気がする。

 

<児島社長になりNTTは横綱相撲を取っている余裕が無くなった>

後年、児島社長時代(1990年6月から1996年6月)になり、1993年10月には市外電話料金引き下げを行い、これまでほぼ毎年40円の値下げを20円にした。その後1996年3月には再び40円の値下げを断行するのでこの年は値下げの踊り場を形成する。

1993年は、新電電の長距離電話シェアは54.5%とNTTを上回り、NTTの経営状況は税引き後利益410億円と資本金7800億円の10%配当つまり、710億円を下回る事態になり、繰り越し利益でまかなうような事態に陥った。又、人員削減策を次々と発表して1993年はいわば臨戦態勢に入った年だという事ができる。1994年2月には基本料金と番号案内の値上げをおこない、もはや横綱相撲をとっていられなくなる時代がやってくる。

新弟子が数年で大関クラスまで成長してきた。NTTもなりふりかまっていられない時代に入り、この頃から、派遣もそろそろ引き上げるのではという憶測も流れた。しかし、噂のみが先行し少なくとも日本高速通信では現実に派遣社員が引き上げられることは無く10年程度は続くことになった。

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。