まさおレポート

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紀野一義と佐々木閑 一見異なる師風だが実は似ている

2024-12-21 | 紀野一義 仏教研究含む

佐々木閑氏と紀野一義氏は一見するとまったく異なる思想を持つ二人の仏教者だが、その根底には人間の自由を深く尊重する共通の精神がある。佐々木氏は原始仏教を重んじ、大乗仏教を「易行」として軽妙に語る。一方で、紀野氏は法華経を中心とした大乗仏教の系譜を伝えながら、キリスト教やその他の信仰までも受容する広い視野を持つ。

佐々木氏の言葉には、挫折と自己否定の経験を超えてたどり着いた真摯さが感じられる。実家が寺でありながら大学では化学を専攻した彼は、京大での優秀な同期生たちの中で自らの限界を痛感し、大きな挫折を味わう。その後、仏教学に戻った彼は、「病院の必要のない人は仏教はいらない」と言い切るようになる。この言葉は、宗教を万人に押し付けるものではなく、苦しみを抱えた人のための救いとして位置づける姿勢を表している。

彼の宗教観は、かつて日本や世界で見られた「己が宗教こそ唯一」という排他的な風潮への反発も含んでいるように思える。仏教はあくまで個人のための道具であり、それ以上でもそれ以下でもないという潔い哲学がそこにある。

一方の紀野一義氏は、法華経や道元、親鸞、日蓮といった大乗仏教の精神を軸に伝道を行った。しかし、彼の思想は大乗仏教にとどまらず、キリスト教やさらには「お母さん」への信仰すら肯定する。「なんでもいいんです」と言い切るその言葉には、宗教の形式や教義を超えた本質的な視座が表れている。

実家が寺であり、戦時中には学徒動員で死地を潜り抜けた経験を持つ紀野氏にとって、宗教とは苦しみを抱えた人間の心の支えとなるものであれば、その形式や名前は重要ではないのだ。

この二人に共通しているのは、自らの信じる道を大切にしつつ、他者には自由な選択を勧める姿勢である。佐々木氏は「困難な道」を選び、大乗仏教を「易行」として軽やかに笑うが、それは単なる否定ではない。彼はむしろ、困難さに価値を見出す自己の哲学を語っているにすぎない。一方で紀野氏は、「自分の好きな宗教を選んで、それを人生のよすがにすればよい」という寛容な態度を示し、信仰の対象が何であれ、それが人間の心の支えとなるならば十分だと説く。

興味深いのは、二人のスタンスが異なりながらも、どちらも宗教の持つ独占性や排他性を嫌い、人間の多様性を尊重している点だ。佐々木氏が仏教を「必要のある人」のためのものと位置づけるのは、宗教を普遍的に押し付けることへの批判といえる。一方、紀野氏が「キリスト教でも、マリアでも、お母さんでもいい」と言い切るその広い視野は、信仰の本質を「人間の心を支えるもの」として捉える深い洞察から来ている。

二人の言葉は、それぞれの生きた時代や経験に裏打ちされている。挫折と困難を乗り越えた佐々木氏、戦時中の死地を潜り抜けた紀野氏。彼らの言葉には、単なる理論や教義を超えた、人間そのものへの温かい眼差しがある。そして、その言葉は宗教という枠を超え、現代を生きる私たちに「自分にとって本当に必要なものを選び、支えとする自由」を再認識させてくれる。

宗教の名の下に争いや分断が生まれる時代は、かつてのものではない。今、私たちに必要なのは、佐々木氏と紀野氏が示すような、寛容と自由を尊重する精神なのかもしれない。宗教はあくまで手段であり、それを選ぶのも選ばないのも個人の自由である。彼ら二人の言葉と生き方は、そんな現代の在り方を示唆している。

 

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