ブッダの悟りは夏目漱石の倫敦塔の一説に通じるのかもしれないとささやきが聞こえる。未熟でうまく説明することはできないが。
また想像して見る。生れて来た以上は、生きねばならぬ。あえて死を怖るるとは云わず、ただ生きねばならぬ。
倫敦塔 夏目漱石
地球上の有限のものを奪い合うのは悪である。より有利になるために土地を開発し、科学を発展させて来た。例えば孤島の資産を独占すれば完全に悪である、しかし地球上に範囲を広げると悪の感覚が麻痺して人の悪の自覚を不明瞭にすることになった。
ブッダは人間は無明に支配された悪人であると悟った、悪を自覚するこの教えは出発点として実に偉大な思想である。キリストは右の頬を打たれたら左の頬を出せといって徹底してエゴを否定した。これまた偉大な思想である。
しかし誰もその心境に到達することはできない、到達することは滅びでもある。
聖人として生きることはできない。
総ての人が聖人になった世界を仮定してみよう。
総ての人が聖人になった世界では仏教、キリスト教を問わず喜捨によって生きることはできない。
喜捨する人がいないからである。従って聖人のみが救われるとする宗教はおかしい。俗人が救われなくてはならないと考える人が出てくる。
俗人は働かなくては自分も家族も食べてはいけない。自分も家族も他人より豊かになりたい。
必然的にエゴの競争が生まれる。
有史以来、競争に勝ったもの、つまり強者がより豊かになる。
競争に勝つということにすでに悪は明らかに存在する。
従って淘汰に打ち勝って生き残るものはすでに悪人である。
ここから悪人正機説に結びつく。これもまた未熟でうまく説明できないが。