楠木正成:延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。正成は弟の楠木正季ら一族ら16人とともに自決。(by wiki)
楠木正季ら一族ら16人:南江備前守正忠 恵美太郎正遠 橋本八郎正員 宇佐美河内守正安 伊藤兵部義和 矢尾新介正春 神宮寺太郎兵衛正師 和田五郎正隆 江田四郎高次 安西五郎正光 富田七郎正武 河原九郎正次 岡田四郎兵衛友春 三石藤内行隆 菊池七郎武朝 箕浦兵衛朝房。
矢尾新介正春:矢尾常正 (*~1336)八尾新介正春とも記される。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。八尾城主。河内国八尾の豪族・八尾別当顕幸が室町時代初期に築城したとされるが、八尾別当顕幸の息子か一族かは不明。(by 各種ウェブサイト)しかし、下記の八尾顕幸の末裔八尾さんの話と宮崎の老女は従兄妹の関係にあり、話を合わせると八尾新介正春は顕幸の息子と言うことになる。
1964年の夏、初老の男性が家の縁側に座り50代の女主人と茶を飲んでいる。八尾さんというこの男は近くの農業用溜池の跡地にできた箕面高校の用務員をしている。この家の既に亡くなった元主人と従弟だという。随分とあっていないが、高校への通り道とあってふと寄って話をしてみたくなったらしい。この男は男の祖父がばくちで大きな銅を扱う商家をつぶしたとはじめて聞く話をしている。この男の祖父は祖母の兄弟でかつて明治の初めに池田の伍伍長という職にあった義兄にあたる男、八尾伝吉に影響されて一晩で一軒の家を失うぐらいの掛けごとを平気でやっていたとその祖父の愚かしさを語っている。よもやまの話のついでにこの初老の男は八尾城主八尾顕幸の末裔だと話している。女主人はこの手の話はなにかしら愚かしい自慢話に聞こえてあまり好きではない。
1970年の春、宮崎市内に住む老女が高齢のため危篤状態になっている。兄の息子の顔を死ぬ前に見たいと家族に懇望し、23歳になる男性に手紙を出して呼び寄せ、その男は枕頭に座っている。男性は1954年と1958年に一度この老女とあっているがほとんど記憶にない。なぜか理由はわからないが、行ってみようと思い、宮崎市に向かい、そしてこの老女の枕元に座っている。
老女はほんの少しだが最後のともしびが消える前に意識がはっきりとして、昔話を始める。生家で父親が賭け事で家をつぶしたあと、止むを得ず神戸の花隈で芸者になったことや、花隈で九州宮崎の青島出身の大物実業家と知り合い結婚して宮崎に渡ったこと、結婚後は不自由ない暮らしをしてきたことなどを語る。老女は自分の死を目前にすると来し方を語りたい。リューマチで固まった手を23歳の甥の手にあててどこにそのような元気があるのか、一時間以上も話し続ける。突然思いついたように生まれ故郷に連れて行って欲しいと無理とわかっている要求を口にする。
老女は甥の名前を尋ねるので、甥は老女の意識が混濁しているのかといぶかしむが、どの漢字を当てるのかと尋ねていることを理解する。突然、湊川で最期を遂げた武将の一人である矢尾正春と云う武将が遠い先祖にあたるのだと、どこかで聞いたことがある名を口にする。老女はひと月後に亡くなる。
1973年の初春、26歳になる男はパリへの旅行のチケットを受け取るために旅行会社の男と渋谷の東急プラザの下にある喫茶店で会っている。40歳はこえている旅行会社の男の名刺には八尾忠雄と書かれている。26歳の男は八尾忠雄から一通りの説明と航空チケットを受け取ってビールを口にしている。八尾忠雄の名前からの連想でふと矢尾正春の名前を思いだし、男に南北朝時代に生きた矢尾正春の事を知っているかと尋ねている。八尾忠雄は「八尾話ですか」と苦笑いをして、それ以上は答えずに次の予定があるのでと立ち上がってさっさとレジに向かい勘定をすませて去っていく。
26歳になる男は井の頭線で帰宅する電車の中で、八尾忠雄が「八尾話ですか」と苦笑いした理由を考えている。40男からみればつまらない先祖話の一種で、色々と聞いてはいるがその手の話に興味はないと言いたげだ。1336年前の先祖話にいかほどの意味があるのか、630年も前のこととなると一体どれだけの先祖がいるのかと電車のつり革にぶら下がり、流れる夜景をみながら考えている。平均25歳で子供を作りそれが630年を経ると、25代続くことになる。25代前の先祖は何人いるのか、10代で1024人、20代さかのぼると100万人だから25代前では3千2百万人の先祖がいることになる。当時の日本人はそんなにいたかどうか。26歳になる男は、確かにこの手の先祖話は無意味だとの結論に達したころに電車は三鷹台に到着する。
(2014年3月5日加筆)