「真言宗も日蓮宗も、霊界では壁がないんですね。宗派も無いのね。」
三輪明宏は、この宗派の人が聞いたらぶっ飛びそうなことを平気で云う。でもこの感覚は共感を覚える。
「オノヨーコ いろんな人につけねらわれてとても命が危なかったんだけど、そんなとき、ちゃんと出てきて、「子供を連れて逃げろ」とか云ってくれる。」・・・ヨーコ・オノの話を引用している部分。
ジョン・レノンがヨーコオノを守ってくれているというお話。この本を読む2,3日前に、なにげなくつけたテレビでヨーコ・オノの過去のインタビュー収録番組を再放送していた。ヨーコ・オノは黒いサングラスをかけて出演していたので、インタビュアーがおしゃれですねとほめたところ、そのサングラスはジョン・レノンが撃たれる前に、ニューヨークで散歩中に店でみつけて「かけなさい」といったとか。撃たれた後から、撃たれることを「知っていたんだな」と思ったという。以来、一種のお守りとして身につけているようだ。ヨーコ・オノが語ると、ジョンが守ってくれているという話も、亡くなった人が守ってくれるという一般的な話としてではなく、実際に「そうだろうな」と納得させる雰囲気をもっている。
「ご自分のお部屋の事を思いだしてください」といったら、肉眼では私のことをごらんに成りながらも、頭の中では釘の位置や壁の色など全部思い出せますよね。つまり、人間というのは二重に見えるんですよ。」
三輪明宏が、瀬戸内に、見えないものがみえるって、どのように見えるのか つまり霊的なものの見え様を聞かれて、人があることを頭の中で思いだした時の感じだと説明している。なかなかうまい説明だ。
「宗教は企業と同じなんですって。日々これ努めていって、反省して、心を練り上げていくのが信仰の作業だと。そしてそれを手助けするために宗教がある。宗教はただそれを商売にしているだけなの。」
これも、宗教団体が聞いたらぶっ飛びそうな発言ですねえ。信仰こそが大事で、宗教は企業とは、いいえて妙。とらわれがないからずばり本質を簡単な言葉で表現する。この例えは実にうまいですねえ。
「南無阿弥陀仏は死者のためのお経です。じゃあ、生者のためにはなにがあるかと調べていったんです。それが南無妙法蓮華経だったんですね。」
浄土宗の人は、このあたりは、三輪明宏の家が代々日蓮宗ということで、笑って、鷹揚に、大目に見るしかないか。それにしても雰囲気はよくとらえている。
「そういうインチキな人は、今度は自分の想念以外の力が働いて、あの世に云ったときに怖い思いをするのよ。」
この世で善を成さざる人々に向かって述べている。「自分の想念以外の力」というのは、他人の恨みをかった怨念をさしている。このあたりは、わりあい常識的で安心して読める。
「文壇人というのはどうしてああいう風に成金的にさもしくなるんだろう」
よほど文壇人を間近にみて、さもしいと思ったのだろう。料理は吉兆がよいとか、どこがうまいとか、羊羹は虎屋しか食わないとか、大島紬がどうだとかと云うこと自体を、いやしいことだと切り捨てるお二人なのだが。ここでは文壇人=谷崎潤一郎を名指しで云いたい放題。
「結局三島さんは・・・天人五衰の途中でとどまらずにそこを突き抜けて想念の世界、安寧の地まで行って欲しかったんです。」
(三島は「豊饒の海」第4部「天人五衰」を書き終えた直後の1970年11月25日、東京都新宿区の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺した。私は電電公社中央学園の寮のラジオでこのニュースを夕食後に聞いた)
三島由紀夫はもともと神道を深く研究しており、その後仏教の勉強をはじめて、中途半端に終わっていることを嘆いている。天人五衰=もの皆滅びるとの考え方の向こうにあるものを追求して欲しかったと言う、切実な述懐は胸を打つ。
謡曲、「羽衣」の天人は、大の五衰の一をすでに現じているというのは、北野天神縁起絵巻の五衰図によっている。「手近の写 真版で」とことわりながら、
「頭上華は悉く萎み、内的な空虚が急に水位を増して……身体と精神の一番奥底で、まだたき続けてゐた火が今消えたのである。もはや腐敗がどこかではじまつてゐる気配を嗅いだ。遠い空を染める水あさぎ色の腐敗」を三島は絵巻の五衰図に見たのである。
三島自決の動機は、「本位を楽しまなくなつた」彼自身の腐敗である。のがれ難く、それは死に至るであろう。http://www.libro-koseisha.co.jp/m-tsubaki/misima.html
「「自分は三島由紀夫と比べて、もらう資格がないという思いがずっとあった。」と私にもおっしゃってた。」
自殺した川端康成の言を三輪が述懐している。三島でなく川端自身がノーベル賞をもらったことが苦になっていたとは。へえ、そんなことを本当に云ったのか。
「おそめをそっくり真似して姫は成功したのね。でも今の銀座が、人でなしみたいな強盗商売になっちゃったのはそれ以来ですよ。おしゃれした生殖器ですよ」
銀座のバー おそめと姫の来歴を語っている。「おしゃれした生殖器ですよ」は笑い転げそうになるが、笑いが納まると、そうかも、と云う思いが残る。
「やっぱり出家していなかったら出家者たちの一群の小説がかけてないわけでしょう。」
そういうものか。小説家も体験の裏付けがないと小説は書けないものなんだ。