かつて住んだ世田谷中町の電電公社社宅周辺、深沢と桜新町の中間にある広大な社宅で12棟4階建ての公団風建築が立ち並び、中には子供用公園やソフトボール場ほどのグラウンド、家庭菜園、八百屋まであった。幼い娘が滑り台で日が暮れるまで遊んでも住まいから見下ろせるので育児には最適な環境だった。
これは10年前に近くを通りかかったので、変わっていないなとの感慨をもって写真をとった。
既に取り壊されて今は無い。
上の娘が通った桜町小学校。
同じく娘が世話になった小板橋医院が代替わりしているかもしれないが健在だった。
社宅のすぐ近くにあった小さな公園。ここでアラブ首長国連邦の背の高い男性が同じく娘を連れて散歩に来ていた。聞けば清泉インタナショナルスクールの先生で、奥さんは日本人、この縁でバザーを訪れ、インタナショナルスクールの雰囲気を知る。
社宅の住まっていた棟。全くと行っていいほど変わっていない。
これはベランダ側から見た、かつてこの4階に住まっていた棟。下には菜園があったが隠れて見えない。
ブランコが見える。
自転車置場も変わっていない。
おや、こんな橙の木があったかな。
このすべり台はよく遊んだ。
社宅名の看板
上の娘が通った日体大幼稚園。
桜新町まで出ることも多かった。買い物をする長谷川町子が歩いていたりした。
追記2020/6/14
今でも強烈な記憶として残っている嗅覚の記憶もある。ある平日の午前中に井之頭線を右手に見ながら井の頭公園まで行き、公園内を散歩していた。多分、休日出勤の振り替えかなんかだろう。池の近くまで歩いてくるとウィスキーの芳香があたりにたちこめている。朝のすがすがしさと周りの樹木の緑にウィスキーの香りがマッチするとは新鮮な発見だ、一体どこからその香がくるのかとあたりを見渡すと、池にボートを浮かべた二人の若者がサントリーのダルマを紙コップで飲んでいる。ストレートで飲んでいるのだろう、その香が湖面を渡ってこちらまでただよってきたのだ。ああ旨そうだ。いつか私もボートで旨いウィスキーを一杯やりたいと強く思った。今ではきっと禁止されているだろう。
木造アパートの玄関をでるといきなりコンクリートの壁があり、その先に又他家の庭が連なっていた。その少し小高い壁の上に三毛猫の「チビ」がよく寝そべっていた。この猫は器量は大層よいのだが、捨て猫のせいで決して人になつかない不憫なやつだ。しかしその美貌のせいで社宅の奥様連中からは人気者であった。その「チビ」が「だめおやじ」と名づけた雄猫の子を産んだ。我々はチビのお腹が大きくなってきた段階で、その親はこのあたり一帯を支配するボス猫「バム」の子に違いないと思っていたのだが、案に相違していつも「バム」の眼光の前ではすごすごと引き下がるしかない「だめおやじ」の子だとわかったときは大笑いであった。猫社会も女性に選択権があることをはっきりと理解した。
追記 もちろんだが今は跡形もない。10年ほど前に駅を降りてみたが全く様変わりで跡地に辿り着けない。
世田谷区中町
1974年~1983年のころ。その後移った世田谷区中町の電電公社社宅からこの森ビルまで通勤経路は二通りあった。一つは東急上野毛駅まで歩いて、それから自由が丘で乗り換えて地下鉄に乗り込み虎ノ門で降りるルートで、他の一つは当時走っていた高速道路バスに乗り込み、霞ヶ関で降りる方法だ。後年、東京急行電鉄田園都市線・桜新町駅が出来、このルートは利用しなくなったが。
「そら豆の芽がでてきましたね」毎朝おきると生ごみを肥やしにするために家庭菜園に埋めに行く。そのときに隣の菜園の方とこんな会話があるのどかな社宅だった。この社宅は生まれて初めて住む鉄筋コンクリート社宅だが建てられてからかなり経っており、エレベータもない4階建てで、その4階が割り当てられた。広場が十分にあり一部は家庭菜園として各戸に割り当てられていた。この菜園を利用して茄子やきゅうりなどを作る喜びを覚えた。毎朝せっせと菜園に生ごみを埋め、朝取りの茄子をそのままで食べて旨さに感動した。
この中町社宅は全部で12棟もある広大なもので、敷地内にはすべり台や砂場それにソフトボールができる大広場まであった。
この社宅は周りの住人の出入りが自由で、よくある敷地内立ち入り禁止などの看板も無かった。そのため近所の住民の散歩コースにもなっており、時折近所に住む沢田研二が息子を連れて散歩に来ている姿も見られた。当時はザピーナツのどちらかと結婚してこのごく近所に住んでいた。「まことにすみませんが、沢田研二さんのサインをいただけないかと思いまして」「自宅ではサインはやっていないんです」親戚の高校生の娘にせがまれてサインをもらいに訪れたときはザピーナツの奥さんに断られた。ハナ肇も住んでいたようだ。
社宅の人間関係は良かった。一般に考えられるような会社の上下関係を持ち込むといったことは皆無だった。もっとも余りにも会社の規模が大きいのでお互いに相手がどこに勤めていて役職が何とかは全く知らなかった。娘と似た年頃の子を持つ親同士では親密に成り、お互いに急用が出来たときは預けあったり、夜泊めあったりした。このうちには長い付き合いの親友も生まれた。
「雨が降ってきましたよ」誰もいないと思っていたベランダから本田さんの声が聞こえる。隣のベランダからロックを開けて入っきて洗濯物の心配をしてくるのだ。時にはベランダ越しに洗濯物まで取り込んでくれたり、子供が遊びに着たりで面食らったこともあるが親切な隣人だった。我が家が大阪に転勤する朝は朝食まで作ってくれた。鯵の開きと金平ごぼうが大層旨かったことを今でも記憶している。
この社宅から深沢のほうに向かうと立派な桜並木が長く続き、その先には駒沢公園があった。これも立派な公園で、娘を連れてよく自転車での散歩コースとなった。当時はローラースケートが大流行で、私もひざ当てをつけて楽しんだ。帰りには国道246沿いの喫茶店プリメーラで旨いコーヒーとピザトーストを楽しむのがお決まりのコースだった。この喫茶店の中には赤いペンキで塗られた公衆電話ボックスがあり、色彩の記憶としていまだに脳裏に残っている。