ある人が芥川賞受賞作が掲載されている文芸春秋を残していってくれた。朝吹真理子「きことわ」と西村賢太「苦役列車」をシンガポール往復の機中で読んだ。これがあったので、機中は退屈せずに済んだ。
朝吹真理子「きことわ」には美味そうな食い物が登場する。なかでも牛のスジと大根を一日かけて煮込んだ、澄んだ黄金色のスープは美味しそうで、さっそく作ってみた。昨夜の夕食に似たようなスープを作り飲んだが、私とつれあいはうどん鉢ほどもある大きな椀についだスープを最後の一滴まで飲んだ。三歳の娘も小ぶりの椀に一杯のスープをご飯にかけて平らげた。食の細い娘にしては珍しい。コンソメスープは素人が作るのは大変だというが、家庭のコンソメスープとしてはこの程度に出来上がれば上出来だ。
朝、娘をプレスクールに自転車で送っていき、すぐ近くのスーパーではスジが手に入らないのでキロ700円程度のサーロインを800グラムほど買い、大根は冷蔵庫の中にあるものを使って朝の10時ごろから煮込み始めた。灰汁をとりながら水をつぎたしつぎたし8時間ほど弱火にかけていると黄金色に澄んだスープが出来上がっていた。牛肉の濃厚な味が全部スープに抽出されたかのように、肉は出汁をとった後の鰹節のような味で、思い切って捨てる。大根は長時間煮込んだおでんのようにいい味に煮込まれていた。味を吐き出すものと味を吸い込むものの関係がよくわかった気がしました。
朝吹真理子の「キコトワ」は人の記憶の中にあるものをそのまま丁寧に描写すると、一例としてこんな小説になるのかな。記憶のなかは時間も空間も区分なく収容されている。この曼荼羅のような人の記憶を表現するには夢という仕掛けを使うのが一番ふさわしいのかもしれないが、一方では欠陥もあり、「人の夢の話はつまらない」と言われるように共感を得にくい。「夢みたいな話に付き合っていられるか」と一蹴される恐れもある。夏目漱石に「夢十話」があるが、軽く書いたエッセイ風の味で、本格的に夢を描くという覚悟は感じられなかった。(もちろん面白かったが) 夢を題材にするというのはある種禁じ手的な仕掛けを使う面はゆさがあったのかとも。村上春樹は目覚めてからの夢を小説化していると述べており、本物の夢をそのままには作品にしていない。夢をもっと直接的な仕掛けとして使うという下地が、あるいは彼の作品などから出来上がっていたのかもしれない。
夢に似た方法として追想があるが記憶のなかの渾然一体としてデフォルメされた風景をそのまま映したことにならないし、踏み込んだ物語性の面白さが消えてしまうが、読み手にはわかりやすさがある。夢は渾然一体としているが、そのまま取り出したという面白さと、脳内の記憶がひとりでに物語性をもつにいたったという面白さを併せ持つ。
西村賢太「苦役列車」は機中でくすくす笑ってしまい、周りの座席の人はどんな目でこちらをみていたのだろうか、ちょっと気になった。吉本漫才の自虐ネタの可笑しさが満載で、あるいはどーくまん「花の応援団」に通じる可笑しさといったらよいかもしれない。人の底辺で生きるさまも、距離を置いて放り出して記述するとコメディーになる。笑い飛ばした後に、なにもコメディーになるのは北町寛太の底辺の生き方だけではない、上層階級であろうと中流であろうと、わが身であろうとある角度からみるとすべてコメディーになるということを銘記させてくれる。