まさおレポート

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豊饒の海「春の雪」三島由紀夫 の謎の言葉 唯識とイデア 追記

2023-04-18 | 紀野一義 仏教研究含む

追記 2024-03-26

「地獄の黙示録」監督は撮影中に「豊饒の海」をよく読んでいたという。


追記 20230418 

昨日近所のスーパーで買い物をした後の帰り道に最後の下り坂道に差し掛かった。そこでなんの脈絡もなく三島由紀夫の輪廻観に思い至った。

「春の雪」で描こうとした輪廻とは決して具体的な事実として証明することはできない、また思い出せるものではなく、しかし現世に形としてその痕跡を明らかに示すと言うもの、稀にその存在を知る人も稀にいるのだろうがほとんどの人にとってなんの手がかりもなく、しかし時折確かに感じるあるものことではないか。

つまり輪廻は「空」の中にあるもので誰びとも輪廻の空間に一瞬もとどまることはできない。刹那(75分の1秒と言われているらしい)にしかとどまれない。

そんな輪廻をこの世で表現してみたのが

「私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです?又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう
俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」

ではなかろうか。


以下 2023-01-19 20:59:01のブログ

現代ビジネス記事 三島由紀夫は、なぜ石原慎太郎に嫉妬したのか? 慎太郎が語った「三島真剣事件」の真相が凄すぎる 猪瀬 直樹

に興味深い記事があった。
下記のブログ中にある
小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起ったということですよ。
と呼応しているように思える文章だ。

1968年7月、石原慎太郎は参議院議員選挙(全国区)に出馬し、史上最高の301万票を獲得してトップ当選を果たす。諸説あるので真相は定かではないが、佐藤栄作首相は石原慎太郎と三島由紀夫の両人を、自民党の参院選候補として天秤にかけていたふしがある。

1967年7月19日、慎太郎は自民党機関紙「自由民主」の企画で佐藤栄作首相で対談した。その直後の7月24日、佐藤首相は官邸に三島由紀夫を招いて会食している。会食の席上、参院選出馬への秋波が送られていたとしても何ら不思議はない。

 

石原慎太郎は著書『三島由紀夫の日蝕』の中で、石原に参議院議員の先を越されたことが、三島の自決へとつながった一因だと主張している。

「三島氏がその気になりかけたのは私よりも早く今東光氏(作家、天台宗大僧正・中尊寺貫主、1968年参議院全国区に自民党から出馬し当選)が出馬の表明をした直後の頃だと知った。どこまで準備を進めていたのか、その後間をおいて私が表明し氏としては機会を逸したと判断したようだ」(『三島由紀夫の日蝕』)

1968年のノーベル文学賞には、川端康成と三島由紀夫が並んで候補に上がった。すると文壇デビュー時からの先輩である川端康成が、三島に対して内々に「年齢のこともあり降りてくれないか」と要請する。もちろん不満だったものの、三島は川端の無体な願いを受け入れた。こうして69歳の川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。

かたや参院選に出馬した石原慎太郎は、史上初の300万票を獲得して政界の若大将に躍り出る。同じ作家が歩む人生の光と影を、三島由紀夫は痛いほど身に染みて感じ入ったに違いない。

 


2019/7/21 追記
明日7月22日は三島由紀夫が『天人五衰』創作ノートを書き終えた日だという。聡子門跡の
えろう面白いお話やすけど、松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はもともとあらしやらなかったのと違ひますか?
の謎の言葉をもう少し探ってみるのにふさわしい日だ。
 
あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくっていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです。
と三島由紀夫は語っている。「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。」は絶対的一回的人生であり「そんなお方はも ともとあらしやらなかったのと違ひますか?」が最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入ることなのだと得心がいった。
 

お手紙をな、拝見いたしまして、あまり御熱心やさかい、どうやらこれも御仏縁や思いましてな、お目にかかりました

清顕君のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたには会わせて下さいませんでした。

えろう面白いお話しやすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ

しかし、御門跡は、もと綾倉聡子さんと仰言いましたでしょう
はい、俗名はそう申しました
それなら清顕君を御存知でない筈はありません
いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はもともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしやって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということはありませんか?お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません
では私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです?又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう
俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?

記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに
しかしもし、清顕君がいなかったとすれば
それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジヤンもいなかったことになる。・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも

それも心々(こころごころ)ですさかい 

 
 
 
「三島由紀夫 ふたつの謎」  大澤真幸で三島の市ヶ谷事件と聡子の言葉に迫っている。「聡子の言葉の不思議」では転生の謎を追う本多老人の問いかけに聡子門跡は「えろう面白いお話やすけど、松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はも ともとあらしやらなかったのと違ひますか?」と答える。
私もこの言葉に衝撃を受けた一人で、一体これまでの話は何だったのか、聡子の捉えた唯識の輪廻感とはどう解釈すればよいのか、転生や現世の実存を否定するかの言葉にこれまで延々と書き続けられてきた物語の土台がなかったものと言われたように戸惑った。
 
大澤真幸氏は私が抱いた疑問と同じところから問を発し、イデアで説明を試みている。唯識でいうところの熏習を帯びた存在をイデアと解釈し、転生で現れる清顕や飯沼勲そしてジン・ジャンが共通のイデアを持ち、清顕や飯沼勲そしてジン・ジャンが共通のイデアの投影に過ぎないという。
聡子門跡の「えろう面白いお話やすけど、松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はも ともとあらしやらなかったのと違ひますか?」は一見これまでの話の全否定のようでいて実は極めて唯識の門跡にふさわしい答えなのだと理解した。
 
参考

又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で 

ずつと南だ。……南の国の薔薇の光の中で。 

その一は、浄らかだった衣服が垢にまみれ、その二は、頭上の華がかつては盛りであったのが今は萎み、その三は、両腋窩から汗が流れ、その四は、身体がいまわしい臭気を放ち、その五は、本座に安住するを楽しまない 

 

三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して、かれの死の薄汚れた模倣をする者が出るのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。

思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とかかわりがないというところに思想の栄光がある。

ところが、思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、とくに政治思想においてそれが濃厚であり、たとえば吉田松陰がそれであった

松陰は『知行一致』という、中国の陽明学の命題の一つである『知行合一』を『日本ふうに純粋にうけとり、自分の思想を現実の世界のものにしようとした

大狂気を発して、本来天にあるべきものを現実と言う大地にたたきつけるばかりか、大地を天に変化させようとする作業
氏はここ数年政治的発言をしきりにしてきたために、こんどの氏の異状死をもって、それを政治的死であると解釈されるかもしれない危険を私は感ずる。

そして、結論として、再確認するように『氏の死は政治論的死ではなく、文学論的死であり おそらく二度と出ないかもしれない文学者、三島由紀夫を、このような精神と行動の異常なアクロバットのために突如うしなってしまったという悲しみにどう耐えていいのであろう。

 しかし、人間が積極的な緊張と高揚のうちに死ぬといふ事実をわたしは知っている。それは狂気としてしか解釈されないかも知れない。しかし一種の幸福の極致に似た死といふやうなものもあるのではないか。

異常な三島事件に接して--文学論的なその死(1970年11月 所収『司馬遼太郎が考えたこと5

 

小林 ・・・・宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によく似た気象をもった人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしか起きえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。

江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないんですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃなんですか。老年といってあたらなければ、一種の病気でしょう。
小林 あなたは病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

小林 いやァ、そんなことを言うけどな、それなら吉田松陰は病気か。

江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが、・・・
小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起ったということですよ。
江藤 僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどとは思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えません。
小林 いえ、ぜんぜんそうではない。三島はずいぶん希望したでしょう。松陰もいっぱい希望して、ああなるとは絶対思わなかったですね。
 三島の場合はあのときに、よしッ、とみな立ったかもしれません、そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。それはわかりません。
江藤 立とうが、立つまいが、、、?
小林 うん。
江藤 そうですか。
小林 ああいうことは、わざわざいろんなこと思うことはないんじゃないの。歴史というものは、あんなものの連続ですよ。

歴史について(『諸君』71年7月)

いかなる天才も気狂いっけのない者はなかった(セネカ 心の平静について 岩波文庫 茂手木元蔵訳)。 

人はもちろんただちに、「なぜ神風が吹かなかったか」という大東亜戦争のもっとも怖ろしい詩的絶望を想起するであろう

 奇蹟待望が自分にとっては不可避なことと 同時にそれが不可能なことであることは、あの少年の年齢のころから、明らかに自覚されていた筈なのだ ( 三島由紀夫 花ざかりの森・憂国 新潮文庫版解説  )

あらゆる芸術は夕焼の如きものである。それは一時代の終末観と符節を合している。現代なら原子戦争と。
「未来に希望をもつ」という哲学。「よりよき未来のために」という哲学は芸術の敵だ。過去と絶望とただ死を待つことに、芸術の存在理由があり、未来と希望と名誉ある死は行動の原理である。 ( 「豊饒の海」ノート )

 

三島由紀夫「豊饒の海」とアンコール遺跡

豊饒の海「春の雪」三島由紀夫 の謎の言葉


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