紀野一義について語るとき忘れてならないのは母への想いの深さだ。
わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
「寺には大人4人が回れるほどの大きな松の木と銀杏の木があった。その木を叩いて家に入るといつも絶妙のタイミングで母が玄関に座っている。どういう仕掛けになっているのか、不思議だった」
「父母姉妹は私が題目を唱えようと経を唱えようと、いずれにしても完全に成仏しているとおもう。しかし毎日名を呼ばずにはいられない」
紀野一義は母の愛を講演でたびたび繰り返し繰り返しとり上げている。氏の母は氏に無償の愛を注いでくれた。そして他人にも。無償の愛をそそがれたかどうかでその人の一生が決まると言う。
三好達治の詩 わが名をよびてたまはれ が紀野一義の講演にたびたび引用される。氏は母に対して、あるいはもっと根源的には仏からに対するよびかけだとする。
わが名をよびてたまはれ
いとけなき日の呼び名もて我が名をよびてたまはれ
あはれいまひとたびねがいとけなき日の名を呼びてはまはれ
風の吹く日のとほくよりわが名をよびてたまわれ
庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
よびてたまはれ
わが名をよびてたまはれ
紀野一義はこのわが名をよびてたまわれは仏に呼ばれていると読む人だ。母は氏に与えて与え尽くした。なんにも返していない。偉い人でしたねと愛を返すことの大切さを言う。
氏は広島の寺で育った。子どもの頃は怖いので一緒に便所いってと母に云う。真っ暗なところを通りり抜けて行く。ヤモリが落ちてくるので怖い。すると「お母さんがみているから行ってらっしゃい」と言われても怖かったが、あるときから怖くなくなった。自分が生んだ子供を見つめる目は観音様ですね。氏の子供の頃の話。
観世音菩薩が遊化する相を釈尊は種々の身を現わし、法華経を説いて衆生を導くという。
仏身、辟支仏(縁覚)身、声聞身、梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、毘沙門天王身、小王身、長者身、居士身、宰官身、婆羅門身、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身(四衆身)、長者婦女身、居士婦女身、宰官婦女身、婆羅門婦女身、童男・童女身、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・王侯・羅伽(八部衆身)、執金剛神身の三十三身となります。
紀野一義は小学3年のときに駆けっこをしていて板塀にぶつかり10分ほど気を失っていた。母はそれこそ恥も外聞もなく「かずちゃん、かずちゃん」とわたしの名を呼びつづけた。母親がよんでいるという感じではない。ほんとうは仏に呼ばれていたのかもしれないと言う。
脈がだんだん弱くなり頭を後ろ向けにして落ちていく感じがしていた。遠くで母の「かずちゃん かずちゃん」と必死で叫ぶ声が聞える。親父から呼ばれた時には大きな声で返事しろと叩き込まれていたので声をだそうとするが声にならない。そのうち声がでたら脈もしっかりしてきた。母の呼ぶ声で生還できたと氏は言う。
氏は母の絶叫に10分後に反応し生き返った。それいらい肋膜になり中学3年になってようやく回復した。垂直的人生の最初ということだろう。
氏にとって肋膜で静養にいった広島の海が母だと言う。戦争に行く前に玄関で見た母の微笑は永遠なものと一緒になるときの微笑だ、氏の心情に定着していると言う。
自分が自分を救うのではない、ほとけが自分に降りてきて救うのだという。自力も他力も根本のところでは差はないと言いたいのだ。自分の力ではないがしかし自分の力である。これを冥加とも言う。ほとけに背中を押されていることだとだと。
母親は檀家の人が病気になったことで黙って毎日のようにお百度参りをした。その人の病気が治ったあとも一切その話をしなかった。その人は女郎屋を経営していた。母親はそんなおんなの体を売るような商売はお止めなさいと常づね云っていた。その人は母親のお百度参りを後で知って商売を止めた。
氏が10代のころだろうか、広島の実家の寺で国鉄職員の研修会を毎年行っていた。その研修に参加する45歳の男性が母に「おかあちゃん おかあちゃん」と言うので氏はその男性に「なんで45にもなってあんたの母親でもないのにおかあちゃんというのか。俺の母だ」と云った。
その男性は「あんただけのお母ちゃんじゃない、だからお母ちゃんと呼ばせてくれよ」と臆面もなく言われたので黙るほかなかった。
氏は高校生の頃に悪いことをして帰ると母親が待っている。風呂に入っていると「背中を流してあげましょう」といってするっと裸になって入ってくる。高校生にもなると恥ずかしくてしょうがないですね。なにがあったのと尋ねられると風呂の中ではすっかり白状してしまう。氏はそんなエピソードを笑いながら語る。ほとけ(母)は風のようでもある。気がついたらもうその人はいなくなっていた。
私が少年の頃は日中戦争の真っ最中で、広島にあった実家の近くの宇品(うじな)という港に日本中の部隊が集結して送られていくんです。そうするとね、毎晩夜中の12時頃からザッザッザッザッという音が遠くから響いてきて、うちの前を通って、港のほうへずーっと行くんですよ。
その時、母親は何をしていてもちゃんと正座してね、じっと目を据えて見てるんです。そして
「一ちゃん、あの兵隊さんたちは生きて帰らないんだよ。あんたもいつかは、ああやって出て行くんだけど、お母さんはあなたを送りたくない」
ってよく言っていました。ですから、いまの人が心の中だけで「今日しか生きられない」と思うのと、彼らとは違うんですよ。彼らは具体的に現実的に今日しか生きられないという境遇にいたんです。
終戦で引き上げたとき海の色が金と黒の夕焼けに変わったことで母が死んだことを悟ったと言う。
氏は父が42歳の時の子供だった。父に対してはよく殴られた、納屋に閉じ込められた、ぶっ飛ばされたと繰り返し述べている。親父にぶっとばされたが悪いことすれば天地の理屈として氏は父を尊敬しており、父は原爆で亡くなったが成仏していると言い切る。
母は観音様だと言い、その背後にほとけを見ている。父にたいしてはどちらかというと知、理性的な愛を感じている。
母の子に対する愛は無償の愛でありどこから生まれるとかのものではない。しかし他人に対する愛あるいは愛の行為はどちらかというと知から生まれる、つまり宗教観や義務感、道徳観から生まれるということを示している。
母への愛と父に代表される世間への愛はどうも性質が異なるのではないか。母への愛は一直線の愛でであり父あるいは世間の尊敬すべき師や人々への愛は母への愛の延長線上にあるのだが知や修行の成果とも思われる。
母への愛はある条件のもとに愛する女性に置き換わる場合がある。あるいは兄弟に対して置き換わる。しかし父あるいは世間への愛に置き換わることはなさそうだ。
世間の人々への愛は極論すれば知や宗教感情の結果とも考えられる。なされた行為こそが重要なのだ。「カラマーゾフの兄弟」や光明皇后、石田光成のエピソードは人間の無明と愛の深淵を深く洞察している。
ひとにはそれぞれ忘れることのできない仏さまがあるという。私にとつてのそれは、中宮寺の如意輪観音である。
昭和十九年の冬、私が松戸の陸軍工兵学校を卒業して見習士官に任官し、戦地に赴くのを待っていた時、広島にいた母がたったひとりで、ひょっこり面会に来てくれたのであった。
母に会うことができたその夜、私は、別れた時の母の笑顔がだれかの顔に似ていたことが気にかかってなかなか眠れなかったが、ふとひらめ閃くように、中宮寺の如意輪観音にそっくりだったことに思い至った。
それはまさしく慟哭どうこくの寸前の微笑みであった。母は本当は、心の中で泣いていたのだ。それが私には微笑みに見えたのだった。世の母は、わが子と永遠の別れをする時に皆、中宮寺の如意輪観音のような微笑みを浮かべるのであろう。それは「大悲の微笑」であった。母はあの時、観世音菩薩そのものであったのだ。
私はその後、もう一度だけ母の観世音菩薩の微笑みを見た。それは出征する朝のことである。
母は玄関の右の隅に軍刀を抱いて立っていた。長靴をはいて母の前に行き、軍刀に手を伸ばしたが母は離さない。そうであろう、離した時がこの世の別れとなるのである。私は心の中で「離してくれぇ、離してくれぇ」と祈るように念じた。母はやっと思い切ったのであろう。軍刀を私の胸に押しつけるようにして、「それじゃ 体を大事にしてね」と、つぶやくように言い、ほほえんだ。その寂しげな、そして不思議に明るい微笑みは、中宮寺の観音さまにそっくりで、私は立ちすくんだまま動けなくなった。そして「母は死ぬ」と閃くように思った。死ぬのは私である筈なのに、そう思ったのである。
この微笑した顔が、私に見せてくれた最後の顔になった。
この日から八ヶ月後の、昭和二〇年八月六日の朝、広島に原子爆弾が投下され、母は私の軍刀を押しつけたその場所で死んだ。
私にとってはこの仏さまは母そのものである。よって私は、終戦七ヶ月もたってやっと日本に帰り、広島の原爆で父母姉妹を喪って一文無しになり、岡山県の山奥の津山市の貧乏寺にいた姉を頼って居候となり、孤独と寂寥に堪えられなくなって中宮寺の如意輪さまのもとに突っ走り、その足許にひれ伏して二時間も泣き続けたのだった。
以来、五十七年、私は今でも中宮寺の如意輪観音を拝む時、どうしても母の面影と重なってしまう。仏さまには申し訳ないと思うものの、どうしてもそうなってしまうのは、是非に及ばぬ仕儀である。https://blog.goo.ne.jp/risukurumi48/e/9a6e5efc16460e86214d88a928b12dda 真如会主幹 紀野一義
平成15年(2003)6月29日、私は札幌の浄国寺へ行った。
昭和20年(1945)の1月のある朝、軍装に身を固め、地獄のフィリピンの戦場に赴くべく広島本照寺の玄関に立った私を見送る母は、私の軍刀をしっかりと抱き締めて放そうとしなかった。私は軍刀に手を伸ばし、心の中で「お母さん、放してくれぇ」と声にならぬ絶叫をした。母はやっと手を放し、夕顔の花が開くように微笑みを浮かべて、「それじゃ、体を、大事にしてね」と三言みこといった。その微笑みは、中宮寺の観音さまのようであり、私は「白神さん」という市電の停留所まで歩くあいだ、人知れず「おかあさん、さようなら」と低声に称え、称えては涙をこぼした。母と別れるのが辛かったからではない。母の胸の痛みを思いやり、覚えず落涙いしたのである。
1月10日、私の乗り組んだサマラン丸という輸送船は、他の12隻の輸送船とともに門司を出港し、すぐに暴風雨にまきこまれ、7メートルを越す激浪の中を、身をよじるようにして航行し、バシー海峡を越えるまでに12隻の僚船を失い、山のような激浪の中をたった一隻、半死半生の有様で台湾の基隆港に逃げこんだ。
私はその間中、立って歩けるたった一人の将校ゆえ、毎日、日直将校となり、半死半生の兵を励まし、どなりつけ、いたわり、不死身の人間のように動き廻った。潜望鏡を激浪の中で三度も発見し、サマラン丸を三度助けた。その私に、影のようにつき添って護ってくれた者、それは母であった。中宮寺の仏さまそっくりの母の魂であった。
真如会主幹 紀野一義
朝比奈宗源が紀野一義に語ったことがある。「紀野さん、わしの母は、死ぬときにわしと姉を枕元に呼んでなあ、わしは今から死ぬが、死んでも草葉の陰からお前たちをみまもっているからね、と言うて死んだんだ。紀野さん、わしは、それからというもの、野原で遊んでいるときはいつも、草の葉を裏返してみてあるいたもんだ。草葉の陰から、といったから、虫かなんかにでも生まれかわっているのかなあとおもってなあ。」
真如会で朝比奈老師にお話をしていただいたとき、出席者にヨガのインストラクターをしている美女が前に座っていた。朝比奈老師はその方の顔ばかりみていた。きっとお母さんを思い出していたんでしょうねと言う。あの方の背後にお母さんを見ていたそのまた先にほとけさまをみていた。如来の秘密・神通の力じゃないでしょうかと言う。
氏は「ぶらりひょうたん」を好み連載を読んでいた。花は出来上りの一歩手前で活けなければならなかったことを母はしっていたことに感心している。花の好きな人は花に目をとめていると花のこころがわかり生け時がわかると。
氏の母上ははるこさんというがはるこさんを巡って争ったのが後の氏の父ともうひとかたの男性で、この男性が不思議なご縁で広島の連隊長になって赴任するというめぐりあわせを紹介している。
親父はまっすぐに生きた男。岡山の住職時代にある労働争議で労働者側についた。知事やxxを巻き込んで結局終結した。お礼のごちそうの席で「坊主にしておくのはもったいない。政治家になれ」「政治家にしておくのはもったいない。坊主になれ」と氏の父は言った。広島の海が母親で寺の松と銀杏の大樹が父の象徴だという。
親父はそうとうな暴力をわたしにふるったけどそれは私がわるいことをしたのであり、親父が並みよりそうとう力が強かっただけであり、親父がちっとも悪くおもったことはない。母は観音さまだった。子どもには背中を押してくれる父親が必要。法華経は父親の役割を演じる。信解品でも薬を飲ませるのは父親。観音はお母様の世界だろ言う。
氏は母親の後ろにほとけをみる。あるひとが仏壇に向かうと「おかーさん」と言ってしまう。僧侶にそんな風に言うもんではないとたしなめられる。紀野一義にそのことを尋ねると「おかーさんと言ってなにが悪い」と諭される。
母親が中宮寺の観音様にそっくりだと述べ、うしろにほとけさまをみているとも。人間の感情をそのまま受け入れる氏の姿勢に感銘を受ける。
親父は大男で20歳まで適わなかった。悪さをすると殴られ土蔵に押し込められたが母親がいつもそっと助けてくれたとも。
氏は母親の後ろにおじいさんの姿をみるとも。これはほとけが両性具有であることを示しているのか。
母親は金沢小町と言われた美しい女性だったと。人は母親あるいは恋人、あるいは妻に観音様を見、そのうしろにほとけをみている。
キリスト教でもマリアは絶大な人気と信仰の対象に。仏教でもインドでは父性的であったが日本人は観音さまを大事にして母性的な対象を求めた。
18歳の時に氏は母親に反抗した。母はご飯を食べなくなった。2階で裁縫をしていたが帰ったのに気づいていない。「一ちゃん私死にたい」とつぶやいたのを聞くと母親に抱き着いてわんわん泣いた。「こんなに優しいのに こんなにやさしいのに」と2回繰り返したという。
氏はヘルマン・ヘッセ『知と愛』について紹介し、遍歴と再会について語る。いや母について語る。
マリアブロン修道院で二人の少年、ナルチスとゴルトムント。ゴルトムントは金の月の意味で、凄い名前ですね。
年上のナルチスは容姿端麗、明晰な頭脳、優秀なあまりに愛情を求めていないかのように見えてしまう少年。
ゴルトムントは誰からも好かれてしまう愛らしい容貌の少年でした。
ゴルトムントが遍歴しながら数々の女性と関係していく。美女アグネスと愛し合う。ナルチスの元へたどり着き、ただ一人の友人に看取られた。
ここで氏は父性的、母性的なるものをかたり、二つは同じ永遠の生命をあらわしていると。
「だが、ナルチス、君は母を持たないとしたら、いつかいったいどうして死ぬつもりだろう? 母がなくては、愛することはできない。母がなくては、死ぬことはできない」
ラフカディオ・ハーンは母方のマリア信仰に惹かれており、父のアイルランド人の父性信仰になじめなかった。日本にやってきて観音信仰に惹かれて日本の土に骨をうずめたという。
女をしる。体の隅々まで1、2年で分かった気になる若い男がたくさんいますよ。しかし女性というものが神秘で奥深いもので奥深いところは男はしらないというのが本当なんです。玄牝という言葉であらわされます。
女性もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。 老子はこれを玄牝“神秘なる母性”と呼んでいる。
坂村真民はいつでもたのまれれば「念ずれば花開く」と書く。「念ずれば花開く」は苦しい時に坂村真民のおかあさんが口にしていた言葉で、氏も苦しい時は「念ずれば花開く」と唱えた。すると不思議に立ちふさがる難問がひとつひとつ解決していった。「念ずれば花開く」を坂村真民のお母さんからさらにずっと辿っていくとほとけさまからきている。
明恵は2度もインド行きを念願し、その詳細な里程表まで作っていたがそのたびに不都合が起きた挫折した。何年かかっても実行する意欲を持ち続けたのは9歳で亡くなった父母とくに母への思慕ではなかったかと氏は述べる。
氏は母への思慕の念が釈尊への思慕へと募っていき、明恵の極端な行動あるいは計画へと導いたのだとする。
氏は母への思慕の念で明恵と重なって見える。
明恵上人は鎌倉期の祖師たちよりも人格的に優れていると驚くべきことを述べている。鎌倉期の祖師たちとは道元、親鸞、日蓮上人を指す。鎌倉期の祖師たちは疑いから出発して後に信に至ったが明恵上人は初めから信しかなかったという。その意味で最も人格的に優れていると紀野一義は講話で話している。
明恵上人は経文のなかにそのまま入っていく稀有な才能をお持ちだったという。知識であれこれ考えて入っていくのではない。
明恵は2度もインド行きを念願し、その詳細な里程表まで作っていたがそのたびに不都合が起きた挫折した。何年かかっても実行する意欲を持ち続けたのは9歳で亡くなった父母とくに母への思慕ではなかったかと氏は述べる。
氏は母への思慕の念が釈尊への思慕へと募っていき、明恵の極端な行動あるいは計画へと導いたのだとする。
氏の仏法僧に対する絶対肯定の精神は当時広がりつつあった浄土諸宗の進出を阻止するために動いた明恵上人、つまり法然、親鸞へと連なる信仰の進出を阻止した反対論者にも関わらず崇敬したことにもあらわれている。
元政上人を「お母さんを見送るために生きていたような人」だと話している。氏はこのあまり知られていない元政上人を語ることで自らの信心を語っているように思う。つまり肩ひじ張って修行することは必要がない、もっと自由に生きろということでもない。氏の言う全肯定をいわんとしているのだろう。
江戸初期の日蓮宗の高僧だが折伏をしない、歌を愛した方で宗門内では評判がよろしくないという、しかし氏はこの僧を好み、著作でも講話でも取り上げている。「わたしはこういう変わった方が好きなのです」とも。
元政上人は日蓮上人の心を師としているのだが折伏も好きじゃないと云う。こんな凄いこと日蓮宗の僧でよく言いますよね。
この心をわかってくれる人は殆どいない。相見てまなこことごとく白、こういう言い方なかなかいいですねと氏は言う。
近くの浄土宗の寺の僧とも仲良かった。
元政上人は熊沢蕃山と琴や琵琶を演奏を楽しんだ。熊沢蕃山は仏教の悪口ばかりいっていたが元政上人とあうと一切言わなかった。
元政上人はお母さんが好きで会いに来たら赤ん坊のように喜んだ。
お母さんを見送るために生きていたような人ですね。お母さんの葬儀をだした翌年に亡くなった。
元政上人は日蓮上人の心を師としているのだが折伏も好きじゃないと云う。こんな凄いこと日蓮宗の僧でよく言いますよね。
この心をわかってくれる人は殆どいない。相見てまなこことごとく白、こういう言い方なかなかいいですねと氏は言う。
元政上人は近くの浄土宗の寺の僧とも仲良かった。元政上人は熊沢蕃山と琴や琵琶を演奏を楽しんだ。熊沢蕃山は仏教の悪口ばかりいっていたが元政上人とあうと一切言わなかった。元政上人はお母さんが好きで会いに来たら赤ん坊のように喜んだ。
お母さんを見送るために生きていたような人ですね。お母さんの葬儀をだした翌年に亡くなった。
氏は元政上人を通して母を語っている。
氏は言う。
死ぬときはわたしは南無妙法蓮華経と唱えますね。そして2週間ほどの中有のあとお母さんのおなかの中に入りましても唱えていると再びほとけさまに会えるように生まれてくる。
人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
父親と母親と姉と妹が迎えに来てくれると云う。すでに死んだ者たちが迎えに来てくれるということは非常にそのケースが多いと言うんですね。私の場合は父母や兄弟は広島の原爆で瞬時にして死んでしまいましたので私は迎えに来てくれるのは父親と母親と姉と妹かなぁという気がしますね。
そうすると旅をして戻ってきた時ですねホームに降りたときに自分の愛する人がにこやかに迎えてくれる場合と誰もいない場合とではこれはずいぶん違いますね<iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=amazonasomasa-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=B0BHJB4W65&linkId=d45c89ef196947d7373cb0b304732c9a" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" sandbox="allow-popups allow-scripts allow-modals allow-forms allow-same-origin"></iframe>