まさおレポート

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存在とは 野村泰紀氏のインタビューを新鮮に

2024-12-09 | 紀野一義 仏教研究含む

「存在するって、どういうことだろう?」


考え始めると底が抜けるような感覚がある。


物理学者・野村泰紀氏のあるインタビューの中で、彼は「いるかは存在するか?」という問いに対し興味深い言葉を放った。


「存在をまず定義してください。それを使えば記述しやすくなるのが存在だとすると、いるかは存在する。分子構造や物理的記述を使えば、いるかという言葉を使わずとも説明できる。しかし、その概念を入れなければ絶対に記述できないなら、いるかは存在しない。」


「存在する」とは 「共有される記述がある」 ことだという主張。その記述が言葉であれ、物理的な観測データであれ、行動の記録であれ、どこかで共有の接点を持つものだけが「存在する」と見なせるという意味だろうか?



この視点から考えると、哲学史に残るプラトンのイデア論を思い出す。


「イデア」とは、「完全な円」や「花そのもの」など、物理的な世界の背後にある「真の姿」のことだ。たとえば、私たちが描く円はどれも不完全で、歪んでいる。それでも、「円」という概念そのものは存在する。それがイデアだ。


では、野村氏の定義を適用すると、「円」はどうなるのだろうか?


数学の公理系に基づけば、「円」は数式や幾何学の法則に支えられ、誰もが共有できる記述の対象になる。したがって、円は「存在する」と言える。しかし、「正義」や「善」となると話は別だ。



プラトンは、「正義」や「善」といった倫理的な概念も「完全な理想形」としてのイデアが存在すると考えた。だが、現代の視点から見れば、この主張は非常に難しい。なぜなら、「正義」や「善」は物理的な接点を持たず、時代や文化、社会の変化によってその意味が揺れ動く。


分子構造や観測データのように、客観的なデータとして示せるものがない。「共有される記述」が定まらない多義的な概念は、果たして存在するのだろうか?


結局のところ、「存在」するとは「物理的記述可能なもの」らしい。


「円」や「花」は物理的な記述として存在するが、「正義」や「善」は多義的で定まらないので存在しない。実に新鮮だ。

野村氏の言葉に響いたのは、「言葉の枠に閉じない物理的記述」 の必要性だった。





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