まさおレポート

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30年以上前のバリ メモ

2020-10-03 | バリ島 人に歴史あり

注 以下は50%ノンフィクション50%フィクションです。

30年以上前の1989年、40歳のわたしは初めての転職を控え、長年の疲れをとるために一月にわたるヨーロッパの旅をした。ヨーロッパで毎日石の文化を見て歩き反対のものを求めていた。なにかで読みかじった知識をもとに残りの一月をバリで過ごすことに決めていて再度成田を立ってデンパサールに向かった。

機は夕方にバリ島に近づいた。きらきらと光る海に急降下して船やバリの街並みが肉眼ではっきりと見えてきた。夕暮れ色に染まったデンパサール空港に着陸して空港に降り立った途端に熱帯の空気が身体にまとわりつくがかつて経験したシンガポールほどの湿気は感じられなかった。からっとしているのだ。同時に丁子入りのたばこが発するバリ特有の匂いがバリに着いたことを体に実感させる。

わたしは麻のジャケットを脱いでサマーセーター姿でイミグレーションに向かう。空港ビルは薄暗い。天井扇が回っているのが南国らしい。イミグレーションの係官は盛んに「俺に何かあったら頼め、便宜をはかる」と話しかけ、電話番号を書いたメモを渡す。

関税官は案の定、酒の量を問題にして別室につれて行き金をせびる。ようやく検査のテーブルを離れ左に曲がるとマネーチェンジャの看板の下でスタッフが日本語で声をかけてくる。

すこし進むとガラスの巨大な自動扉があり、出ると大勢の人が手に手に名前を書いたカードを持って出迎えている。これまでにない経験だ。待ち合わせの人込みを抜けると白タクが声をかけてくるが進むと空港タクシー乗り場がありここでチケットを買って空港タクシーに乗り込む。タクシーは少し離れた場所に駐車してあり、ドライバーはチケットを受け取るとスーツケースを引っ張ってどんどん先を行く。すこし不安になるがタクシーに乗り込む。

車は日本と同じ左側通行で道路は暗闇の中を走り、ときおり店先にうすぐらい明かりが見える。とにかく薄暗い、それが第一印象だった。
クタの近くのホテル・メラステは通りの左側にあり、バリの若者がたむろしている駐車場を抜けて片耳に白い花をさし艶やかな長い黒髪の女性がフロントでチェックインを行う。

海に面した部屋に通される。庭に面した大きなガラス扉を遮っていたカーテンを開くとガラスの向こうにクタビーチが見えた。風にそよぐ椰子の長い葉が南国だと実感させてくれる。

朝になりガラス扉を開けると強烈な直射日光と心地よい風が吹き抜ける。ビーチ側には気持ちのよさそうなあずまやが見える。朝食をとるためにロビーに向かう途中にスイミング・プールが眼に入った。プールサイドでは昨夜みかけた二人のオーストラリア人がまだ飲み続けているのが目に入る。彼らの酒量は一体どれだけなのかと感心する。

ホテルの大きなエントランスを抜け、表通りに出ると通りの両側には、シーフード・レストランと土産物店などが軒を連ねている。ビーチに近いせいか水着で歩いている男女も多い。排気ガスが鼻を刺激する。ときおりやせこけた馬が引く馬車がちんちんと音を鳴らして通る。狭い道路に日本製の車とバイクがやたらと眼につく。

バティックの看板の店、頭に荷物をのせた婦人たち、朝市、竹で編んだ畳大の日よけが広場を覆い、1本の竹で支えた日除け傘の下は野菜、果物、雑貨、魚、鶏肉、豚肉が竹ざるに並ぶ。日用雑貨屋と荒物屋、銀製品を売る店、すこし離れた場所にナシゴレンなど食べ物と飲み物を飲ませる店、自転車の修理屋が目に入る。建物の先には、道をおおいかくすほど枝を張った巨樹が広い日陰をつくっている。

豚の丸焼き、山羊肉の串焼き、魚の唐揚げなどの料理店、雑貨などの行商も店を広げている。椰子酒アラック、シャツや布地を売る店、ジャムー(インドネシアの薬草から作る民間薬)の店がバラック小屋で商う。

皮膚病にかかった痩せて汚い犬、耳のとれかかった犬が通りをうろつく。なかには激しく吠え掛かる犬も。すこし歩くと空気をつんざく豚の悲鳴が聞こえてきた。庭を覗くとバリ特有の黒豚が竹籠に包まれて身動きができない姿で横たわっていた。ナタを持った男が既に解体した一頭の豚の塊を積んでいく。

朝飯にカフェに入ると緑に囲まれた庭にハイビスカスが咲いている。テーブルに薄い食パンが二切れ、パパイヤ、パイナップル、バナナの盛り合わせ、バリ・コーヒー、ジャムとマーガリンの入った小皿がおかれる。フルーツの盛り合わせにライムを搾りパパイヤを食べる。バリ・コーヒーは口の中に粉が残る。コップの底にコーヒーかすが泥じょうに残った。隣の席ではミーゴレン(焼きそば))を喰っている。きゅうりの大きな輪切りがのっていて半径は日本のきゅうりの2倍はある。

カフェの敷地には椰子が林を作っている。庭越しにバナナの茂る林がある。庭で男が鶏を抱えてしゃがみ込み首のうしろをさすりマッサージをしている。闘鶏用の鶏は一羽ごとに籠に入れられている。

バリ島で出会った人たちには勤め人としての経験ではとても巡り会えない、平凡な人生とはいえない人も多くいた。かつて観た映画で、名声を馳せた音楽家が集まる養老院風の豪華マンションでのさまざまな人生模様を描いたものがあったが滞在したサヌールの周りにも名声を馳せた音楽家ではないがこの映画と似たような人生体験をもった人々が多く住んでいたいた。

バリで出会った人々
妻子と別れてオーストラリアからやってきた男がいた。つまり家庭を捨てどうしてもやりたいことがあると言い置いてやってきたのだが、彼の若い頃に流行ったヒッピーに憧れてやってきたのだ。

息子はハリウッドである程度名を知られる存在になった。男はカフェや土産物店を経営して繁盛している、つまり成功者なのだ。女性スタッフに対するセクハラの噂も聞こえてくるがどこまで信憑性があるのかわからない。

男は毎朝カフェの特定の椅子に座り海を眺めているが、その横顔はバリの強い太陽を長年に渡り浴びたせいで(白人は日焼けにめっぽう弱い)深いシワが刻まれ、孤独を一層滲ませている。

その後にカフェを畳み、思い出と金を手にしてオーストラリアに帰ったと聞いた。別れた息子とうまくやれるとは思わないが人生の帳尻を合わせるために数十年住み慣れたバリを去り、とにかく故郷に帰っていった。この男を孤独な結末とは言えない、オーストラリアで孤独と穏やかな思い出だけで余生を生きるのもひとつの選択だ。

スミニャックの小さなホテルバンガローに住んでいたオーストラリア人はすでに90歳近い。かつては成功を収めたビジネスマンだ。車いすを押すバリ人の若い男性が甲斐甲斐しく世話を焼いている。時折息子が訪ねてくるが男はバリの地で終焉を迎えるつもりだ。バリはこんな風景がなじむ。

クタの寿司屋に勤める大阪出身の日本人職人も何回か通ううちに小学生の息子と別れたことを寿司を握りながら話しだす。妻のことはあまり触れたがらないが想像はつく。寿司屋のオーナーはスイス人で、高給につられてやってきたのだが報酬条件に食い違いがあったので思うほどのものは得られない。

定期的にジンバランの魚市場で魚を買いに来るが、朝早いと仕入れにやってくる彼と顔を合わせることがある。「今日はクエのいいのが入った、あの店にいいものが入ってるよ」と指さして教えてくれる気のいい男だ、彼に言わせると寿司種ではクエが最良だそうだ、白身で鯛の味がする。しばらくすると魚市場で顔を見なくなった、日本に帰ったのだろう。

今頃は日本で「美味しい条件につられてバリにいったけど、えらい目に会いましたは」と話のネタになっているかもしれない、この職人にとって大切なチャレンジの一コマになったのだ。そんな夢と失敗のできる土地があっても悪くない。

バリに滞在する年老いたドイツ人がバリの30代女性を愛人にし、愛人は月に数回部屋に来ては朝に帰ることを既に1年以上続けている。バリの30代女性には乳飲み子がいるが両親に預けてくるので見かけたことはない。愛人はスタッフの視線が冷たいことを気にしていたので夜更けてから訪れることが多かった。バリ人スタッフは愛人になったバリの女性に、ジャワ人女性には見せない露骨な蔑みの視線を投げかけるのだ。

ある日年老いたドイツ人はコンドミニアムの一室を引き払い、ウブドに一軒家を買って移っていった。まわりの目が気になるためだろうとホテルのスタッフは噂しあった。
引っ越しをした後のある日、通信販売で買った素性の知れないバイアグラを飲んで奮戦中に脳溢血を起こして病院に担ぎ込まれ、そのまま寝たきりになる。年老いたドイツ人はバイアグラをネットで購入すると安価であると日頃からプールでなかば自慢気味に話していた。

愛人はバリ人のボーイフレンドに英語でメールを書いてもらい、入院費の請求を娘にすると心配した娘はドイツから飛んできた。娘は突きつけられた入院費の請求額を見てその高額に驚く。後は娘と愛人の戦いとなるが年老いたドイツ人と娘は為す術がない。

老いたドイツ人は過剰な快楽を求めたがための不幸な結末を迎えたのだと考えてはいけない、老いたドイツ人は十分に幸せを味わったのだ、老人が快楽を求めて悪いワケがない。

全身入れ墨の男性がプールサイドで幼い娘と遊んでいる。タトーが街なかに溢れるバリでもひときわ目立つその全身和彫りの入れ墨は日本ではほとんどの人が引いてしまうだろう、日本では暴対法以降はプールで入れ墨を晒すことはかなわない、しかしこのバリでは「あれ、この人は筋物かな」と頭をかすめるが、お互いの娘同士が遊びはじめると親同士も世間話を始める。

娘がバリのインタナショナルスクールに通い始めると日本のヤクザの親分の娘もスクールにいることも珍しくない、しかし誰もそんな事を気にしない、いや気にしていても態度には出さない。ヤクザの親分の娘も日本の小学校ではいこごちが悪かろうが、バリの地ではハンディーにならない、そんな土地が世界のどこかにあってもよいだろう。

レギャンのビラの屋上に上がると笠智衆似の穏やかな風貌を持った、このビラではいままで見かけない初老の男がクタの彼方に見える海を眺めている。手にはハーモニカが握られていた。「こんにちは」と話しかけるとしばらくして男は語りだした。

九州の福岡で小学校の教師を勤め上げ(おそらく校長まで勤めあげたことが感じられた)教育委員会の幹部だったが、辞めたあとに妻に去られたと言う、熟年離婚という言葉は知っていたが現実に出会うのは初めての経験で返す言葉が無い。老いた母は足腰が弱って歩けないが温かい土地では体が楽なのでバリに住もうと思い立ち、下見に来たのだという。初対面の私にそんなことをさらりと言ってのけることにも驚いたが素直で衒いのない人なのだろう。

その後プールサイドなどで顔を見合わせると挨拶をしていたが、男は朝からヘルメットを着用して自転車でバリの街を一日中走り回り、夕食時まで帰ってこないことが日課になっていた。ときおり道路上を走っているのを目撃し、バリの交通事情は悪いので初老の男が自転車で道路を走るのは危ないと思いながら2週間ほどが経ち、見かけなくなった。

回りの住人に行方を確かめてみるとウブドに移り住んで、ウブドの日本人が営む唱歌を唄う会に所属し、毎日唱歌を歌っているという。このビラでは肌が合わなかったのかとも考えたが、唱歌を唄う会が楽しかったのだろう。どうにも気になる男でこうして数十年立っても時々記憶の泡として浮かび上がる。

求める地としてバリを選んだ男たち、勝ち組を名乗りたくてバリを選んだ男たち、あらたな出会いを求めてバリを選んだ男たち、日本の差別意識からバリを選んだ家庭など、あるいはビジネスと海を求めて住み着いた人たち、純粋にバリを愛して住み着いた人とさまざまだ、しかし共通しているのは人生への前向きな態度だ。


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