https://blog.goo.ne.jp/kkaizo/c/195ba5f2ef5ae9401d60383c69148379を読んで浮かんだ疑問をメモして置く。しかしこのブログの筆者はなんと深くこの作品を読んでいるのだろうと感心する。
以下は頭に浮かんだ疑問で、このブログ作者に対する疑問でないのは言うまでもない。
「自由な知恵と、科学と人肉食の時代が、さらに何世紀か続く」ここで人肉食の時代とはなんだろう。人と人が富を奪い合うことかと思ったが違うような。
アリョーシャのイワンに対して行ったキスの論理とはなんだろう。アリョーシャのもつキリスト者とカラマゾフ性の2面性?あるいはイワンとアリョーシャの信仰の未熟さ不徹底さを表現する行為か。あるいは汝の敵を愛せよの実践か。リーザ・ ホフラコワに「でも僕は、ひょっとすると,神を信じていないかもしれませんよ」と述べているのでアリョーシャの信仰の未熟さ不徹底さを表してるのだろうか。
山城むつみ氏「ドストエフスキー」(講談社、2010)は「(20世紀の哲学者)ウイットゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回は通読したらしいが、読み返す毎にアリョーシャはフェードアウトしていったのに、スメルジャコフは違ったという(「彼は深い。このキャラクターの事を作者は熟知していたのだ」とウイットゲンシュタインは書いている)」
「彼は深い」とは何を意味するのか。
「スメルジャコフは悪である。しかし長老ゾシマの説くように、なんと悲しい悪であることか」
「やがて、最も堕落しきった富者でさえ、最後には貧者に対して己の富を恥じるようになるだろうし、貧者はその謙虚さを認めて、理解し、喜んで譲歩してやり、富者の美しい羞恥に優しさで答えるようになるだろう。信ずるがよい。最後にはきっとこうなる」。
何と美しい言葉ではないか。ドストエフスキーは「現にそうなりつつあるではないか」とすら書いている。それから150年が過ぎようとしているが、何という地獄をロシア(日本を含む世界)は見てきた事だろう。おそらくまだ今後も続くだろう。
この現実はイヴァンの主張するように、今でも「認める訳にはいかない」と思わざるを得ない状態にある。しかしゾシマ(ドストエフスキー)は書く。『人間の精神的な徳の内にのみ、平等は存するのであり、それを理解できるのは我が国(ロシア)だけである。兄弟ができれば兄弟愛も生まれるが、兄弟愛より先に公平な分配が行われることは決してない。キリストの御姿を大切に守ってゆこうではないか』と。ゾシマは「人間の精神的な徳の内にのみ、平等は存する」、「兄弟ができれば兄弟愛も生まれる」と述べ、精神的な平等ばかりでなく兄弟《愛》があって初めて《分配》という経済学的平等が可能であるとする。