まさおレポート

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司馬遼太郎と紀野 一義 宗教観からみた同一性と違い

2021-04-01 | 紀野一義 仏教研究含む

司馬遼太郎と紀野 一義、わたしが人生に多大な影響を受けたお二方だ。両氏は時代的にも一年違いで生まれ、戦前に生まれ戦中、戦後に青年時代に経験しているという共通点を持っている。

時代が同一とはいえ考え方の基本にあるところは似たところもあり、かなり違うように見えることも事実だ。両氏の根にある考え方とくに宗教感を 司馬遼太郎「新潮45」1992年5月号 日本仏教小論~伝来から親鸞まで を参考にして整理してみよう。

こうしてお二方を眺めてみると優劣をつける類のものではないことがわかる。ともに大東亜戦争の影響を受けることや、大衆小説の作家あるいは伝導家として人々の精神的な支えとなる気構えは共通している。

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」などの作品から「天」という言葉で宗教観を表しているような気がする。(宗教家を描いたものは「空海の風景」一点だけだ)「天」という言葉で自らの宗教観を表している。既成宗教団体から距離を取りたかったのかもしれない。

死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとも思っている信者です。プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒と思って頂いていいと思っています。司馬遼󠄁太郎

この距離感は紀野一義にもみられる。どの宗派にも属せず、しかも属人的に師弟関係は持ち続ける(朝比奈師や柴山師)という新しい型の信仰心を持ち続けた人だった。

聖書を通じて神と直結するプロテスタント信仰を思わせる形をお二方がとったのは大東亜戦争の影響の最たるものかもしれない。

お二方の存在は長い人生の転機での判断や困ったときの励ましになった。紀野一義は若い時に講演を聞いて心の底に深く収まったが、それが年月とともに芽を出し、その影響力を改めて自覚しだしたのは最近だ。それまでは伏流水のように深く潜っていたようだ。

紀野 一義は戦後に仏教伝道の道に生きることになる。名聞を嫌う氏らしい生き方だと思う。司馬遼󠄁太郎は歴史の真実性も追及したが、やはり小説は面白くなければ読んでもらえないので史実をそのままには描いていない。

あえていえば司馬遼󠄁太郎は小説のおもしろさと合理性に力点を置き、紀野 一義は伝導家であり、歴史や宗教の矛盾点をまるごと抱え込んで陽性であり続け、人々に希望と救済を与えた。

司馬遼󠄁太郎はベストセラー作家となり、多くの人々に影響を与えた。紀野一義は伝導家として人々に深い影響を与え続けた。

いいたいことは以上だが、以下にわたしが興味を覚えた類似点を挙げてみる。

司馬遼󠄁太郎(1923年8月7日 - 1996年2月12日)

紀野一義(1922年8月9日 - 2013年 12月28日)

司馬遼󠄁太郎は1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をするのだが、しかし作品にはオカルト的なことはあまり触れていないように思う。合理性を追求していくことになり、それがバブル期の人々に大いに受けることになる。

それでも「竜馬が行く」では竜馬が暗殺された夜に福井藩士に起こるややオカルト的な話にふれているが。

紀野一義もやや遠慮がちに戦争中や戦後に中国や広島で遭遇した怪異現象に触れている。戦後の時代にそうした話をすることにためらいがあったのだろう、あくまで遠慮がちにだが。

紀野一義のほうが1歳年上だ。生家が寺で、広島で育ったこと、戦争中に幾度も地獄をみているが、紀野家はもののふの家系であることを誇りにしており、戦争そのものやたたかいを否定的にはみていない。

司馬遼󠄁太郎は生家が大阪の薬剤師に家に生まれており、紀野一義と同じく学徒動員で少尉として戦車隊小隊長として終えている。ノモンハン事件を筆頭に昭和軍部を徹底的に否定している。(ノモンハン事件では事実誤認が指摘されている)

司馬遼󠄁太郎は自らの宗教観をつぎのように語る。

日本仏教を語るについての私の資格はむろん僧侶でなく、信者であるということだけです。不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとも思っている信者です。プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒と思って頂いていいと思っています。 司馬遼󠄁太郎 

紀野一義も特定の宗教団体に属さず、僧侶でもなかった。氏の葬儀も親族、近親者のみで行ったとあり、司馬遼󠄁太郎とおなじく「死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとも思っている信者」と同じ心根だったのではないかと推測している。

紀野一義の著作のところどころにも伝統的な仏教諸宗派の僧侶に対する批判的なところが見受けられる。一方では三宝を敬うことの大切さを述べる。一見矛盾しているがわたしにはそうとは思えない。氏は伝統的な仏教諸宗派に属さない団体を主催していたことからも特定の宗教団体に属さない姿勢をみることができる。

司馬遼󠄁太郎は真宗大谷派に墓地があることから真宗の信者であったことが推測される。紀野一義の墓は生田の春秋苑にあり、特定に宗派の墓地ではなさそうだ。このあたりに違いが表れていて興味深い。

大乗仏教に対する姿勢の違いを見てみよう。

大乗仏教は釈迦の仏教とは断絶したものです。ひょっとすると全く違ったものかも知れません。 

紀元前数百年のむかしに死んだとされる釈迦は、その偉大さが語り継がれただけで彼の思想の内容はよくわかっていないのです。ただ現世は一切空であるとし、その苦しみから抜け出す方法を説いた人であることは、たしかです。

仏教という文明がさまよっているうちに変質したのです。その変質はインドの外域でおこりました。大乗仏教が誕生してしまったのです。 

このあたり少し補足がいるかもしれない。原始仏教の涅槃によって完結する閉塞感、すごろくの終わりである完成感とはうらはらに漂う無常観、人生は苦であるとのペシミズム感、声聞や縁覚あるいはその先の菩薩しか乗ることのできない涅槃行きの車ではバラモンやヒンドゥと比べてもあまりにも禁欲的であり、かつ女人は涅槃とは埒外であり差別的な感さえ抱かせる。

「仏教という文明がさまよっているうちに変質したのです。」は原始仏教の伝えるところがなにかおかしいと考えた在家仏教集団が再度釈迦に立ち返って大乗を再構築したものと理解できる。「プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒」との表現はそのあたりを指しているのだろう。

大乗仏教の出発点でした。すぐれた人になるよりもいっそすぐれた人を拝もうというもので、釈迦の思想とは違った新思想が誕生したというべきでしょう。

大乗仏教におけるすぐれた人というのは、なまみの人間ではなく、真理そのものでした。真理、つまり空に一種の人格を与え、菩薩とか如来とかという名をつけ、それを讃え、人々はひれ伏したのです。

ひたすら鑽仰するという姿勢をとったのが十三世紀の日本の親鸞だと思います。

司馬遼󠄁太郎は「大乗仏教は釈迦の仏教とは断絶したものです。ひょっとすると全く違ったものかも知れません。」と述べる。氏は大乗非仏説に見えるがだからといって大乗仏教を否定するものではない。「大乗仏教は、もっとも純粋で、もっとも本質的な形で十三世紀の親鸞において最も鋭く単純化され、再生したと私は思っています。」と述べるように大いに肯定している。

紀野一義は大乗仏教や法華経を完全な信頼をもって肯定している。親鸞や日蓮をこの上なくあがめていることからも明らかだ。氏は法華経をロゴスではなくイメージとして理解するという。

合理性を尊ぶ司馬遼󠄁太郎に対して紀野一義は非合理の世界(霊やお題目の効果)など、そして祖師たちの矛盾をそのまま肯定的に受け入れている。司馬遼󠄁太郎も京都の寺の怪異を何回も語っているので非合理の世界を認めているのだが作品となると表にはでてこない。作家は自ら書き続けている世界に引きずられてしまう傾向があるのかもしれない。しかし晩年に宮崎駿に物の怪のアニメを勧めていることからわかるように心の深いところではそうしたものを小説に書きたかったのではないか。読者に対する裏切りになるので書けなかったのかもしれない。

その点紀野一義は一貫して矛盾を受けいれる立場を表明している。日本仏教の祖師たちの矛盾も完全肯定している。作家とどこの宗派にも属さない伝導家の道を選んだ人の立場の違いが表れている。

釈迦にとっての最高の観念は、神ではなく空でした。その修行法は自ら空になることによって解脱しようとしました。司馬遼󠄁太郎

紀野一義 著作からは空の議論は好まなかったように思える。空の哲学的議論よりも他者への救済行動を一層追及したと思える。般若心経の空についてどこか関心のなさそうな記述もあったように記憶している。

解脱について司馬遼󠄁太郎はどうみるか。

親鸞は二十年叡山で修業しました。ところが、少しも ゛善人゛になることなく ゛悪人゛のままでいるという自分を発見したのです。この発見が、日本文化の一部を変えたといえます。 解脱できる人などこの世にいるでしょうか。いるとすれば千万人に一人ぐらいではないでしょうか。仏教は天才のみにゆるされた法なのかもしれません。

当時の仏教は、凡庸な人間は地獄に堕ちるとされていました。親鸞の用語では、解脱が可能ではない生まれつきの人を、自分も含めて「悪人」と呼んだのです。仏教の基準からみての「出来そこないの人」という意味です。しかし人間が生物である限り、ほとんどの人間が悪人ではないでしょうか。

少なくとも親鸞は、自分にはできそうに無いと思いました。それほどに自分は ゛悪人゛だと思ったのです。 

そういう彼が数ある大乗教典の中で阿彌陀如来に関する三種類の教典(大無量寿経、観無量寿経、阿彌陀経)を読んだ時、「ただの人間」でも救われることを知ったのです。 

親鸞自身、そうは言ってませんが、彼の思想は「要するに人間は死ぬものだ。死ねば肉体から解放される。となるとそれが解脱ではないか」というものでしょう。 

さらには「人は死に対して感謝せよ」ということを別な表現で言ったような気がします。私の勝手な解釈でいえば、親鸞のいうことは、大きな空(くう)からみれば「生も死も無い」ということでしょう。 

 ゛生とは単にそのことに囚われているいるだけだ゛

と親鸞は見たのでしょう。 

親鸞は空を大いなる光明と見たのです。それに包まれていることにひたすら感謝し歓喜したいと親鸞は願いました。

あるいはそうあるべく彼は努力しました。親鸞は、あらゆる迷信や礼拝形式~カルト~を排しました。このあたり、親鸞は十三世紀の人でなく、近代の人のようにも見えます。

さらに、自分の教義についても秘儀を排し゛自分が文字で表現したこと以外に、隠されたことはいっさい無い゛としました。

阿彌陀如来は空の別名であって、つまりは数学上のゼロの別名です。阿彌陀如来は空というものの表札にすぎないのです。 

紀元一世紀から二、三世紀にかけてインドの方で発生した大乗仏教は、もっとも純粋で、もっとも本質的な形で十三世紀の親鸞において最も鋭く単純化され、再生したと私は思っています。  司馬遼󠄁太郎 

大変参考になる卓見が含まれている。

禅もまた釈迦の原始仏教以来、プラチナのように光る法統を継いでいるものですが、私に限って言えば禅の持つような、超人的な精神力の分野は、どうも苦手です。

わたしには大阪人と広島人の違いかもしれないなと思われる。

絶対というものは、私ども相対世界に生きている者から見れば存在しないものです。もしそれが虚構であるとすれば、神(God)も虚構です。

Godが大文字であるように、いわば大文字の虚構を中心に据えて叙述の糸を巻いてゆくという~つまりその作家の神学的世界を創る~という欧米の近代文学は日本がそれを受容しようとしても容易なことではありませんでした。司馬遼󠄁太郎

絶対なるものを受け入れるか否かでお二方は大きく意見を分かつようだ。しかしそれでもなお、司馬遼󠄁太郎と紀野一義のお二方はわたしにとって偉大で大切な存在であり続ける。

ついでながら司馬遼󠄁太郎は親鸞に、紀野一義は親鸞にもだが日蓮により一層心を寄せているようだ。

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