まさおレポート

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「自己」と円周率π

2008-02-05 | AIの先にあるもの


宮本啓一氏の著作を読んでいると「無限後退」という言葉がよく出てくる。彼はインド哲学を専門とする学者なので、古代インドの思想についてふれると必然的に「自己」はあるや否やという大問題にふれることになる。この問題を巡って延々と古代思想家は議論をしてきたと言うことで、インド哲学の根幹にふれる問題だと言うことはわかる。自己があるという説の自己とは日常で使う自己とは意味が異なる。この場合の自己とは五感などを感じる主体と考えておく。本当はもっと複雑なのかもしれないが理解は単純なところから入るのがよい。

コンピュータチップのように脳のどこかに自己があると考えると、仮に将来同じ仕組みのチップが人工的に作れるとして入れ替えたら同じ自己なのだろうか。きっと同じ自己だと思う。このチップにはもともと自己が無かったのだから、やはり自己は別のところにあると考えざるを得ない。

となるとそのチップの処理し伝えるところを感じる「もの」を次に想定しなければならず、その又先に、それを感じるチップという風に限りがない。これを無限後退と表現している。無現後退に陥ると哲学は破綻するのだという。無限後退を避けようとすると脳以外の魂や霊の存在を考えることになる。しかし肉体を離れた存在を想定しても結局無限後退は避けられないのだが。

私も随分昔からこの自己はどこにあるのだろうと不思議でしょうがなかった。しかし近頃これは不思議は不思議のまま置いておくしか方法はないと思うようになった。経験則で推し量れないものは、理屈=哲学で考えるほか無いがそれを実証的に証明する手段は自然科学のようには存在しない。自然科学もある程度の限界まで達すると実証のしようも無くなる。すでに量子力学などはその世界に入っているのではないかと思うが自信は無い。

ある人が円周率πの記憶を11万まで挑戦したが失敗したとの記事があった。円周率πは無理数で、どこまで行ってもこれで終わりということが無い。だからどこまでも無限のチャレンジは続く。それはさておき、1メートルの国際標準原器が存在しているのに、その長さを持つ円のπですと定義できる定規がどこにも存在しない。作りようが無いと言うことになる。実際はあると分かっているのに小数点では表現できない数が存在する。11万桁でもない、12万桁でもない、無限に後退する数が無理数だから、数学の世界には無限後退が存在する。

「自己」も同様に考えればよいのか。存在すると分かっているのだがどこにあるかを示すことができない。自己は無理数のようなもの、否定の上にしか成立しないものだ。そう考えると無限後退イコール哲学の破綻とは考えなくても良いのではないか。










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