毎夕カヌーで海に出る男がいた。年の頃は60前後、夕方5時過ぎに小型のカヌーを小脇に抱えてクタビーチに現れ、入念に準備運動を始める。30分もストレッチを行ったあとには賑わったビーチの人出も引き始める。それがカヌーにとっては都合が良い。
そろそろ日没に向かうこの時間帯にそろりと男は海に漕ぎいでる。私は幼い娘を遊ばせながらこの男がゆっくりと小さくなっていくのを眺める。そして海が黄金色に染まる頃この男のシルエットは見えなくなる。
毎夕繰り返される60前後のこの男の行為が私にはなにかの祈りに見えた。そして補陀落という古い言葉が常に頭に浮んだ。
2009年のことだからすでに10年が経つ。もうおそらくカヌーで海にでることは止めたかもしれない。いや案外今でも夕方になるとカヌーを小脇に抱えて現れるかもしれない。