夏目漱石「文芸の哲学的基礎」
以下は明治四十年四月東京美術学校において夏目漱石40歳の時の講演録。
<真善美荘厳は人間についている>
我々は生きたい生きたいと云う下司な念から物我の区別を立てます。
世界は我と物との関係。私の正体がはなはだ怪しい。 意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えた。意識の連続を称して俗に命と云う。煎じ詰めたところが私もなければ、あなた方もない。物我を区別しようがない。 あるものはただ意識ばかりである。
空間と云う怪しいものの中に這入り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹さして、因果の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っている。
ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志。意識には連続的傾向がある。
目に見えぬもの、手に触れる事のできぬもの、あるいは五感以上に超然たるものがしだいに意識の舞台に上る。
甲を意識して、それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。そうしてこの両のものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる。これに空間的関係の名を与える。
吾々は生きたいと云う念々に支配せられております。意識には連続的傾向がある。この傾向が選択を生ずる。選択が理想を孕む。意識が特殊なる連続的方向を取る。意識が分化する、明暸になる、統一せられる。一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。
抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であり嘘から出た真実、私もこの嘘を真実と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も疑うものもなく仮定を実在と認識して嬉しがっている。
文芸家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、そのままに写し出したものに過ぎません。我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云う事は行われるはずがありません。
連続を主にして理想があらわれてくると、文学、意識が停留したいところを見計って、その刹那を捕えると絵画が成立します。
<情>
情を働かす人は、文学者もしくは芸術家。具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。神の事でもかこうとすると何か感覚的なものを借りて来ないと文章にも絵にもなりません。だから旧約全書の神様や希臘の神様はみんな声とか形とかあるいはその他の感覚的な力を有しています。情操は、感覚物そのものを目的物として見た時に起るので、これを道具に使って感覚的の具体を藉て知を働かし、その媒介によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操、情の満足を得るのが文芸。文芸は具体を藉て知を働かし真に対する理想を得て情の満足を得る。
ある感覚物を通じて怒と云う情をあらわす 吾人の情もまた同性質の怒かも知れぬけれども両者同物ではない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかりやすく言い直すと、前の怒りは感覚物に附着した怒である。後の怒は我と云う自己中に起る怒りである。喜怒哀楽はその発現を客観的に人間において認めた時に情を刺激する。
感覚物への情緒は美 知の働く場合は真 情の働く場合は愛、道義 意志の働く場合は荘厳。四種のいずれでも構わない人の趣味はもっとも広い人でまたもっとも正しい人 。
四種の理想は、互に平等な権利を有し 運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。しかしその体格は解剖には叶っておらん 真を欠いてるから駄目だと云うのは、云う方が駄目です。
<真>
真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想で具体を通じて真をあらわすと云う条件に束縛されただけ。
文学 美と云うものを唯一の生命にしてかいたものは、短詩 現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つも出ない。現代文芸の理想は真の一字にある
真を重んずるの結果、真に到着すれば何を書いても構わない事となる。
不体裁の感を抽出して、裸体画は見るべきものである
一度ひとたび抽出の約束が成り立てば構わない。真に対して起す情緒が強烈で、他の理想を忘れ得るほどに、うまく発揮されなくてはならん。
贋の唖が一人あるとします。何か不審の件があって警察へ拘引こういんされる。尋問に答えるのが不利益だと悟って、いよいよ唖の真似まねをする。警官もやむをえず、そのまま繋留けいりゅうしておくと、翌朝になって、唖は大変腹が減って来た。始めは唖だから黙って辛抱したが、とうとう堪たえられなくなって、飯を食わしてくれろと大きな声を出す。
一人の乞食。諸所放浪しているうちに、或日、或時、或村へ差しかかると、しきりに腹が減る。幸さいわいひっそりとした一構えに、人の気けはいもない様子を見届けて、麺麭パンと葡萄酒を盗み出して、口腹の慾を充分充みたした上、村外へ出ると、眠くなって、うとうとしている所へ、村の女が通りかかる。腹が張って、酒の気けが廻って、当分の間ほかの慾がなくなった乞食は、女を見るや否や急に獣慾を遂行する。
こう云う場合に抽出の約束は成立しそうにもない。約束が成立しない以上は、この作物の生命はないと云うより、生命を許し得ないと云う方がよかろうと思います。
外国からペストの種を輸入して喜ぶ国民は古来多くあるまいと考える。外国人の書いたものを見ると、私等には抽出法がうまく行われないために不快を感ずる事がしばしばある。
沙翁のオセロなどはその一例であります。事件の発展や、性格の描写は真を得ておりましょう が一言にして不愉快な作。
モーパッサンの作
大変に虚栄心に富んだ女房を持った腰弁がありました。金剛石ダイヤモンドとかルビーとか何か宝石を身に着けなければ夜会へは出ませんよと断然申します。
朋友の細君に大切な金剛石の首輪をかり受けて、急の間を合せます。ところが細君は借物をどこかへ振り落してしまいました。
無理算段の借金をした上、先方へ何知らぬ顔で返却して、その場は無事に済ましました。
何年かの後ようやく負債だけは皆済したが、同時に下女から発達した奥様のように、妙な顔と、変な手と、卑しい服装の所有者となり果てました。
ある日この細君がふと先年金剛石ダイヤモンドを拝借した婦人に出逢いました。実はこれこれで、あなたの金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。モーパッサン氏の作であります。
最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます。ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。
作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります。同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります。
今度はゾラ君の番であります。御爺さんが年の違った若い御嫁さんを貰います。結婚は致しましたが、どう云うものか夫婦の間に子ができません。それを苦くに病んで御爺さんが医者に相談をかけますと、さよう、海岸へおいでになって何とか云う貝を召し上がったら子供ができましょうよと妙な返事をしました。爺さんは大喜びで、さっそく細君携帯で仏蘭西フランスの大磯辺に出かけます。
するとそこに細君と年齢からその他の点に至るまで夫婦として、いかにも釣り合のいい男が逗留していまして細君とすぐ懇意になります。両人は毎日海の中へ飛び込んでいっしょに泳ぎ廻ります。爺さんは浜辺の砂の上から、毎日遠くこれを拝見して、なかなか若いものは活溌だと、心中ひそかに嘆賞しておりました。ある日の事三人で海岸を散歩する事になります。時に、お爺さんは老体の事ですから、石の多い浜辺を嫌って土堤の上を行きます。若い人々は波打際なみうちぎわを遠慮なくさっさとあるいて参ります。ところが約そ五六丁も来ると、磯際いそぎわに大きな洞穴ほらあながあって、両人がそれへ這入はいると、うまい具合と申すか、折悪おりあしくと申すか、潮が上げて来て出る事がむずかしくなりました。
老人は洞穴の上へ坐ったまま、沖の白帆を眺めて、潮が引いて両人の出て来るのを待っております。そこであまり退屈だものだから、ふと思出おもいだして、例の医者から勧められた貝を出して、この貝を食っては待ち、食っては待って、とうとう潮が引いて、両人が出てくるまでにはよほど多量の貝を平げました。その場はそれで済みまして、いよいよ細君を連れて宅へ帰って見ますと、貝の利目ききめはたちまちあらわれて、細君はその月から懐妊して、玉のような男子か女子か知りませんが生み落して老人は大満足を表す。ゾラ君は何を考えてこの著作を公けにされたものか存じませんが、私の考では前に挙げたモーパッサン氏よりもある方面に向って一歩進んだ理想がなくってはとうてい書きこなせない作物だと思います。
探偵 下劣な意味において真を探ると申しても差支さしつかえない 探偵ができるのは人間の理想の四分の三が全く欠亡して、残る四分の一のもっとも低度なものがむやみに働くからであります。現代の文学者をもって探偵に比するのははなはだ失礼でありますが、ただ真の一字を標榜して、その他の理想はどうなっても構わないと云う意味な作物を公然発表して得意になるならば、その作家は陥欠のある人間。冒す方に偉大な特色がなければならぬ。
ゾラとモーパッサンの例に至ってはほとんど探偵と同様に下品。
理想とは何でもない。いかにして生存するがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎん。
技巧と称するものは、この答案を明暸にするために文芸の士が利用する道具
技巧とは思想をあらわす、手段だと云いますが、その手段によって発表される思想だからして、思想を離れて、手段だけを考える訳には行かず、また手段を離れて思想だけを拝見する訳には無論行きません。
最初のは沙翁の句で、次のはデフォーの句
Uneasy lies the head that wears a crown.
Kings frequently lamented the miserable consequences of being born to great things, and wished they had been in the middle of the two extremes, between the mean and the great.
この煮つめたところが沙翁の詩的なところ
ところで沙翁さおうには今一つの特色があります。上述の時間的なるに対してこれは空間的と云うてもよかろうと思います。帝王と云えば個人として帝王の全部を想像せねばならん、全部を想像すると勢いきおいぼんやりする。燦爛たる冠を戴いただく彼の頭
デフォー遠景を見るのに肉眼で見ています。散文的の感があるのです。散文的な文章とは馬へも乗れず、車へも乗れず、デフォーは車夫のような文章家
文芸に在って技巧は大切なもの 沙翁とデフォーは同じ思想をあらわしたのでありますが、その結果は以上のごとく、大変な相違を来たします。
<善>
人を通じて愛の関係をあらわす 愛の関係も分化 嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩を始めたり、いろいろな理想 忠、孝、義侠心、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になります。徳義的情操を標準にしたもの善の理想。
<美>
感覚的なるものに対して趣味、好悪、情を有しております。情の著しきものを称して美的情操。
<荘厳>
徳義的理想と合するように意志が発現してくると非常な高尚な情操を引き起します。英語ではこれを heroism と名づけます。
砲兵工厰の高い煙突の黒煙を見て一種の感を得ました。黒いものはみんな金がとりたい煙突が吐く呼吸。その上あの煙は肺病によくない。しかし私はそんな事は忘れて一種の感を得た。その感じは取も直さず、意志の発現に対して起る感じの一部分であります。
真正の heroism に至っては実に壮烈な感じ 楠公が湊川で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡ほろぼさんと云いながら刺しちがえて死んだのは一例であります。跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。意志の働く場合の代表は荘厳に対する情操。