小林「岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……」 岡「一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない」 小林「つまり一のなかに含まれているわけですな」岡潔 小林秀雄との対談 昭和40年発刊の『人間の建設』
小林秀雄の「つまり一のなかに含まれているわけですな」は深い。含まれている身は含むものを説明できないと言っている。
デカルトの「われ思うゆえに我あり」も上述と同じことを言っているのでは。つまり一が神で一のなかに含まれているものが我だが、我ありは確かだがそれ以外は疑いの対象だと言っている。一ではないものの存在が確かであるから一は存在すると言っているように聞こえる。
つまり「私はこの思惟があること、つまり存在すること」つまり二~∞は存在するので一である
「この世にあるものすべての作者である神があること」を証明できるとした。俺という存在があれば親は必ず存在する、そんな風な証明だと理解した。
自分自身は疑えないが他のものはすべて疑っている当のものは、われわれの精神 âme あるいは思惟 pensée と呼ばれるものであること、これらのことを考慮して、私はこの思惟があ
ること、つまり存在することを第一原理として立てたのです。
そして、そこから他の原理をきわめて明晰に演繹しました。すなわち、この世にあるものすべての作者である神があるこ
と、神はあらゆる真理の源泉であるので、われわれの知性がきわめて明晰できわめて判明な認識をもつ事物について下す判断において、知性を誤るような性質にはけっして創らなかったということです。これらが、非物質的事物つまり形而上学的事物について私が用いる原理のすべてです。
チューリング、心をマシンのなかにつくることで心を考えようとした。
知性には2種類あると思っています。ひとつは「自力」の知性。自分の手持ちのルールを駆使して、巧みな計算によって問題を解決していくようなタイプの知性です。
もうひとつは「他力」の知性。手持ちのリソースで計算するというよりも、身体を使ってうまく進行中の世界の一部に同化していくようなタイプの知性です。
哲学者のアンディ・クラークが著書『現れる存在』(原題:Being There)のなかで「90 percent of life is just being there」というウディ・アレンの言葉を紹介しているのですが、生命の最大の使命は「ただそこにいること(being there)」。高度な記号操作で難しい計算をするというよりも、いかにして進行中の環境や世界の一部であり続けられるかということです。
「人工“知能”」といわれていますが、自力の知性だけでなく、他力の知性についても考えなければ本当の「知能」とは言えません。そういう意味で現状のAIはartificialなだけでなく、すごくsuperficial(表層的)という印象があります。
では、知性の深層とは何か。ぼくは「compassion」(慈悲)というものがこれからすごく大事になってくるのではないかと思っています。心というのは肉体の中に閉じたものではなく、他と通い合うことができる。通い合う心を基盤とした知性について、AIの観点からどのようなことが言えるのか。AIのそうした可能性にぼくは興味があります。
自然科学は、よくも悪くも進み続けることで自己維持しています。それによって凄まじい勢いで「事実」が積み重ねられ、その積み重ねが経済や技術と繋がって思いもしない「行動」を生み出していく。
https://wired.jp/2016/07/12/interview-masao-morita/
小林秀雄が岡潔のエッセイを読んで、「岡氏の文章は、瞑想する一人の人間へ、私を真っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥は、何か全く見当が外れているように思われてくる」と書いています。
虚偽よりは事実のほうがいいし、机上の空論よりは行動のほうがいい。でも、事実と行動にはその「外」がある。それを岡潔の文章からしみじみと感じるというのです。
AIの凄まじい発展を見ていると、「ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥」というこの言葉をつい思い起こしてしまいます。
確かにその進歩が知的にエキサイティングなことは間違いないのですが、同時に、この虚しい焦燥感は何なのだろうかと思うことがあります。ただひたすら前に進み続けることでしか自己維持できなくなってしまっている現代の学問の焦燥から一歩引き下がって、「事実と行動の外にある平和」を探っていくような視点が、いまこそ必要な気がするんです。
わからないもの\(x\)に関心を集め続けること
情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
数学する人生 pp.37-38
二つ目は、私は数学の研究でポシビリティ(可能性)というものを手がかりにする。このポシビリティよりももっと漠然としたもの、つまりポシビリティのポシビリティというものがある。一口に言うと「でたらめ」である。これを毎日一つずつ考える。この「でたらめ」を十ほど並べてみると、その中には一つくらいポシビリティがある。このポシビリティをまた十ほど並べると、そこに一つくらいファクト(事実)が見つかる。百の「でたらめ」を並べてやっと一つ事実が見つかる。
こんなことを繰返しているうちに、何年かして一つの研究がまとまるわけだが、一年三百六十五日、毎日「でたらめ」を考えるともなく考えている。これがまた、健康法に合っているのじゃないかと思うのである。
引用:数学する人生 pp.183-184
ところで芭蕉は本当によい句というものは、十句あれば名人、二句あればよい方である、という意味のことを言っている。こんな頼りないものの、わずか二句ぐらいを得ることを目標にして生きてゆくというのは、どういうことだろう。
にもかかわらず、芭蕉の一門は全生涯をこの道にかけてきたようにみえる。どうしてそのような、たとえば薄氷の上に全体重を託するようなことができたのだろう。この問題は在仏中には解決できなかった。帰ってからよく調べているうちに、だんだんわかってきたのであるが、その要点をお話ししよう。
「価値判断」が古人と明治以降の私たちとで百八十度違うのである。一、二例をあげると、古人の物は、
「四季それぞれよい」「時雨のよさがよくわかる」
である。これに対応する私たちのものは、
「夏は愉快だが冬は陰惨である」「青い空は美しい」
である。特性を一、二あげると、私たちの評価法は、他を悪いとしなければ一つをよいとできない。刺激をだんだん強くしてゆかなければ、同じ印象を受けない。
こんなふうである。これに対し古人の価値判断は、それぞれみなよい。種類が多ければ多いほど、どれもみなますますよい。聞けば聞くほど、だんだん時雨の良さがよくわかってきて、深さに限りがない。こういったふうである。芭蕉一門はこの古人の評価法に全生涯をかけていたのであった。
この古人的評価の対象となりうるものが情緒なのである。
引用:数学する人生 pp.143-144
30歳代のときに「発狂して強盗を働き、山中に潜伏中に逮捕(広島文理大在籍当時の新聞の見出し)」という事件を起こしている。
ラマヌジャンの数学発見法に似たアプローチをしている。
村上春樹の無意識、地下2階の引き出しも同じか。