コヘレト3章
1~2章では、快楽を得るために地上の富や宝を得ても、また知恵と知識とを究めることも人生に究極的な目的とはならないことを述べ、王ソロモンを歴史の鏡として描き出していた。「太陽の下に、益となるものは何もない」(11節)という空しさの中で、神の働きは一体どうなるのかという問いが起きてきた。3章は、その疑問にこたえる形でコヘレトの言葉が出てくる。
1~8節には、天の下の出来事にはすべて神の支配があるとして14節の対句になる「時」が示されている。「生まれる時、死ぬ時」(2節)は極めて非情な言葉のように思われるが、神と人との信頼と服従の関係があるなら受入れることが出来よう。
しかし「殺す」「破壊する」「戦う」時などは理解の範囲を超える言葉で、このような宿命論に対して人は判断停止に陥る。
ここで一条の光明を得るのは、10節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」ということである。人は本質的に神を信じ求める存在として造られている。この求道の道には紆余曲折がある。浅薄で弱い人間は「最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」と思うのである(12節)。しかしそれは既に2章でその結論が「空しいこと」となっている。
14節「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」こととは異なる。14節は10節と内容的に同じである。
16~17節 権威の座にある者らの不正な裁判に空しさを覚えるが、すべてを掌握される神による真実な裁きをコヘレトは信じている。その時がいつかを聖書は明確に記している(第Ⅰペトロ4章5節)。そして「使徒信条」で告白している。
人が創造主なる神との関係を離れて罪に呪われた状態であるなら、それは単なる被造物として生き、動物と同じであり、「すべては塵から成った。すべては塵に返る」(20節)ということである。これは創世記3章19節からきた言葉。
ここで、22節からもう一度14節に立ち返り、創造主との関係を明確に問い直さねばならない。その関係回復は御子イエスの十字架による罪の贖いによる。
1~2章では、快楽を得るために地上の富や宝を得ても、また知恵と知識とを究めることも人生に究極的な目的とはならないことを述べ、王ソロモンを歴史の鏡として描き出していた。「太陽の下に、益となるものは何もない」(11節)という空しさの中で、神の働きは一体どうなるのかという問いが起きてきた。3章は、その疑問にこたえる形でコヘレトの言葉が出てくる。
1~8節には、天の下の出来事にはすべて神の支配があるとして14節の対句になる「時」が示されている。「生まれる時、死ぬ時」(2節)は極めて非情な言葉のように思われるが、神と人との信頼と服従の関係があるなら受入れることが出来よう。
しかし「殺す」「破壊する」「戦う」時などは理解の範囲を超える言葉で、このような宿命論に対して人は判断停止に陥る。
ここで一条の光明を得るのは、10節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」ということである。人は本質的に神を信じ求める存在として造られている。この求道の道には紆余曲折がある。浅薄で弱い人間は「最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」と思うのである(12節)。しかしそれは既に2章でその結論が「空しいこと」となっている。
14節「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」こととは異なる。14節は10節と内容的に同じである。
16~17節 権威の座にある者らの不正な裁判に空しさを覚えるが、すべてを掌握される神による真実な裁きをコヘレトは信じている。その時がいつかを聖書は明確に記している(第Ⅰペトロ4章5節)。そして「使徒信条」で告白している。
人が創造主なる神との関係を離れて罪に呪われた状態であるなら、それは単なる被造物として生き、動物と同じであり、「すべては塵から成った。すべては塵に返る」(20節)ということである。これは創世記3章19節からきた言葉。
ここで、22節からもう一度14節に立ち返り、創造主との関係を明確に問い直さねばならない。その関係回復は御子イエスの十字架による罪の贖いによる。