詩14篇
1節「神を知らぬ者は心に言う、神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(新共同訳)
1節「指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う 『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。この詩は53篇と殆ど同じであるが、両者の神名が異なることから、時代的背景の相違が推測される。「神を知らぬ者」は口語訳「愚かな者」。原語「ナーバール」英訳はfoolsである。無神論者ではなく、神の創造的な知恵の欠落した考えを持つ者で、その心は腐敗した状態で、憎むべき行い=偶像礼拝に陥っている。神の善を行う者はいない。
2節「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と」。これと対照されるのは、賢い者=神の知恵を有する者、神を求める人=神を礼拝する人)の有無を「天に御座を置かれる方」が(11編4節)見渡し、探しておられる。しかし現実は違う。
3節「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。ここも口語訳「みな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」が原文に近い。堕落した現実である。彼らは「みな迷い=背き去った」は、「一緒に脇にそれた」(原文)ということである。だれもかれも背き去り、腐れたというのである。わき道にそれるというのは、罪の実態を表わす。罪とは神の道を踏みはずすことだからである。
4節「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 主を呼び求めることをしない者よ」。彼らは経済的な搾取をするのである。そして神に従う人々の群れ、貧しい人々の計ることを挫折させ、辱めようとする(5節)。しかし主なる神はこれを見過ごしになさらず、必ず、「避けどころ」(逃れ場=岩波訳)となって下さるのである(6節)。
7節「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。神による回復の希望を賛美する。「捕われ人を連れ帰られる時」を口語訳は「主がその民の繁栄を回復されるとき」と訳している。
3~5節に伺われる堕落した腐敗の現実は、歴史の支配者であり、天の御座にいます方がイスラエルの民に向けられたものであり、厳しい審判を下される。それは異国バビロンに捕囚の民としてつながれることになった。しかしその彼方に回復の時の到来が約束されていることを示すものである。1~3節は、人間の罪の現実として、ローマ3章10~12に引用されている。
昨今の社会の報道は、殺人と暴力、詐欺と抑圧、不正と不義、逸脱と迷走、不慮の事件、事故、人為的災害、国内外の争い等々、罪の深さの測り知れないものばかりである。ここで改めてローマの信徒への手紙3章9~30節を読む。
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1節「神を知らぬ者は心に言う、神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(新共同訳)
1節「指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う 『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。この詩は53篇と殆ど同じであるが、両者の神名が異なることから、時代的背景の相違が推測される。「神を知らぬ者」は口語訳「愚かな者」。原語「ナーバール」英訳はfoolsである。無神論者ではなく、神の創造的な知恵の欠落した考えを持つ者で、その心は腐敗した状態で、憎むべき行い=偶像礼拝に陥っている。神の善を行う者はいない。
2節「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と」。これと対照されるのは、賢い者=神の知恵を有する者、神を求める人=神を礼拝する人)の有無を「天に御座を置かれる方」が(11編4節)見渡し、探しておられる。しかし現実は違う。
3節「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。ここも口語訳「みな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」が原文に近い。堕落した現実である。彼らは「みな迷い=背き去った」は、「一緒に脇にそれた」(原文)ということである。だれもかれも背き去り、腐れたというのである。わき道にそれるというのは、罪の実態を表わす。罪とは神の道を踏みはずすことだからである。
4節「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 主を呼び求めることをしない者よ」。彼らは経済的な搾取をするのである。そして神に従う人々の群れ、貧しい人々の計ることを挫折させ、辱めようとする(5節)。しかし主なる神はこれを見過ごしになさらず、必ず、「避けどころ」(逃れ場=岩波訳)となって下さるのである(6節)。
7節「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。神による回復の希望を賛美する。「捕われ人を連れ帰られる時」を口語訳は「主がその民の繁栄を回復されるとき」と訳している。
3~5節に伺われる堕落した腐敗の現実は、歴史の支配者であり、天の御座にいます方がイスラエルの民に向けられたものであり、厳しい審判を下される。それは異国バビロンに捕囚の民としてつながれることになった。しかしその彼方に回復の時の到来が約束されていることを示すものである。1~3節は、人間の罪の現実として、ローマ3章10~12に引用されている。
昨今の社会の報道は、殺人と暴力、詐欺と抑圧、不正と不義、逸脱と迷走、不慮の事件、事故、人為的災害、国内外の争い等々、罪の深さの測り知れないものばかりである。ここで改めてローマの信徒への手紙3章9~30節を読む。
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