列王記下22章
11節「王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた」(新共同訳)
1節「ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエディダといい、ボツカト出身のアダヤの娘であった」。小見出し「ユダの王ヨシヤ」。ヨシヤは南ユダ王国では「主の目にかなった」最後の王で、「右にも左にもそれずダビデの道を歩んだ」とある(2節)。アモン殺害の結果、思いがけず8歳で王位に就いたが、その謀反者とその共謀者らは、「国の民」によって討伐されている。この「国の民」(21章24節)はヘブライ語アム・ハーレツで新改訳は「民衆」と訳している。預言者時代には、その感化を受けた良識ある民衆の存在が考えられる。その支持があって幼いヨシヤは王位についた。同じ「地の民」と訳される時代は差別用語になっている(ネヘミヤ10章29節)。ヨシヤの活躍が公に出てくるのは、治世18年26歳の時である(3節)。書記官シャファンを王の神殿に遣わして大祭司ヒルキヤに指示を与え、神殿修理に納められた献金を破損修理に当てるようにと伝えた(4~7節)
8節「そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『わたしは主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ」。シャファンは直ちに王の元に届け、王の前で読み上げた(9~10節)。王はその律法の書の言葉を聞くと衣を裂き、祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記官シャファン、王の家臣アサヤに、この律法の書について、王とユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行けと命じた。王の真剣な悔い改めの態度が伺える。三人の祭司と書記官シャファン、家臣アサヤの五人は直ちに女預言者フルダのもとに行き、王の伝言を告げた(14節)。それがどの様な内容であったのか。23章で行われた過越祭や地方聖所の廃絶などから、申命記律法の一部と考えられている。
16節「主はこう言われる。見よ、わたしはユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす」。主の聖意はもはや法を守ることの勧告や警告ではなく、その結果の宣言となっている。この背景には、センナケリブの出来事(19章7、32~37節)以来、エルサレム神殿は神に守られて侵されることがないという、誤った過信があった。このことを指し示しているのが、エレミヤ7章4節「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉である。フルダは王が律法に示された神の聖意に対して心を痛め、衣を裂いて泣いたので、その願いは聞き入れられると告げ、彼らはこれを王に報告したのである(19~20節)。
王ヨシヤと民にここで求められているのは、申命記の中心命題である「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」である(6章4~5節)。
11節「王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた」(新共同訳)
1節「ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエディダといい、ボツカト出身のアダヤの娘であった」。小見出し「ユダの王ヨシヤ」。ヨシヤは南ユダ王国では「主の目にかなった」最後の王で、「右にも左にもそれずダビデの道を歩んだ」とある(2節)。アモン殺害の結果、思いがけず8歳で王位に就いたが、その謀反者とその共謀者らは、「国の民」によって討伐されている。この「国の民」(21章24節)はヘブライ語アム・ハーレツで新改訳は「民衆」と訳している。預言者時代には、その感化を受けた良識ある民衆の存在が考えられる。その支持があって幼いヨシヤは王位についた。同じ「地の民」と訳される時代は差別用語になっている(ネヘミヤ10章29節)。ヨシヤの活躍が公に出てくるのは、治世18年26歳の時である(3節)。書記官シャファンを王の神殿に遣わして大祭司ヒルキヤに指示を与え、神殿修理に納められた献金を破損修理に当てるようにと伝えた(4~7節)
8節「そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『わたしは主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ」。シャファンは直ちに王の元に届け、王の前で読み上げた(9~10節)。王はその律法の書の言葉を聞くと衣を裂き、祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記官シャファン、王の家臣アサヤに、この律法の書について、王とユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行けと命じた。王の真剣な悔い改めの態度が伺える。三人の祭司と書記官シャファン、家臣アサヤの五人は直ちに女預言者フルダのもとに行き、王の伝言を告げた(14節)。それがどの様な内容であったのか。23章で行われた過越祭や地方聖所の廃絶などから、申命記律法の一部と考えられている。
16節「主はこう言われる。見よ、わたしはユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす」。主の聖意はもはや法を守ることの勧告や警告ではなく、その結果の宣言となっている。この背景には、センナケリブの出来事(19章7、32~37節)以来、エルサレム神殿は神に守られて侵されることがないという、誤った過信があった。このことを指し示しているのが、エレミヤ7章4節「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉である。フルダは王が律法に示された神の聖意に対して心を痛め、衣を裂いて泣いたので、その願いは聞き入れられると告げ、彼らはこれを王に報告したのである(19~20節)。
王ヨシヤと民にここで求められているのは、申命記の中心命題である「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」である(6章4~5節)。