先日ゴルフ場まで、同乗したご近所さんに聞かれました。
「松◯◯(ワタシ)さんは、ゴルフ以外にご趣味はあるの?」との質問、どうやらこの方は釣りがご趣味の様で、あわよくば、ワタシをお仕立て船の仲間に引き込もうという魂胆であったようです。
ワタシは、田舎の出身ですから釣りぐらいはやりました。粗末な手作りの竹竿で、鮒釣などをいたしましたな。父親が、やはり田舎の出らしく、刺し網(立て網)やら投網などで川魚を取りに行くのに伴われました。ある時、まだ子供であったワタシは「魚は生き物なのに取って殺すのはいいの?」と尋ねました。教師であった父親は、ちょっと困った表情をしましたが「食べるために取るのはいいのだ、美味しく有難くいただけば。」と答えました。無益な殺生をしなければ許されるという考えでした。
それから、高校生になるころまでに、何度か動物を死なせたことが今でも自分の記憶に残っています。例えばカブトムシ、指に爪を立てられて思わず地面に打ち付けたこと。例えばメジロ、いたずらで親の空気銃を面白半分に撃って死なせました。壁に止まった大きな蛾を叩いて殺したこと。父に言われて鶏を「潰した」こと。
ある時は、家の中に迷い込んだ野良猫を追い出すのに棒を持って追い回した時には、死なせるわけもないのに、得も言われぬ恐怖と不快感が残りました。
以来、動物を積極的に殺すこととは無縁の生活が長かったのです。サラリーマン生活では、ゴキブリ、蚊やハエなどの害虫を退治すくらいのことは、やむを得ずですけれど。それで、殺生になる釣りには気が進まず、子供たちの誘いにも乗ることはありませんでした。釣りに限れば、食いつくかどうかはあなた任せ、日がなのんびりと釣り糸を垂れているのが性に合わないと言えばその通りです。
仏教の教えには「不殺生戒」という言葉があり、盗みや邪淫とともにやってはならないと規定されております。人間も、哺乳動物も魚も昆虫もなにもみんな命は平等である、輪廻で生まれ変わっていくものだ、と「火の鳥」(手塚治虫先生)では諭されております。殺生をすると、地獄に落ちるのだそうです。仏陀さんのお言葉通りなら、この世のすべての人間は例外なく地獄行きでありましょう。
これがキリスト教になると全く様子が違いますな。殺していけないのは「人間」だけで、それ以外はどんどんやって構わないそうであります。
もっとも、仏教でも、狭義にはお坊さんの戒律とされており、ワタシら一般の俗人にまで禁じているとは言えません。ただ、殺すなかれというのは、人間はほかの動植物を殺して食べることで生きている罪深い存在であることを自覚し、他のものに対する感謝を忘れず、動植物を大事に無駄なく食べましょうという戒めのようなものでしょうか。
ところが、園芸を始めると殺生は日常的になります。殺生なしでは成り立ちません。今朝も大量のナメクジと蟻を駆除しました。コガネムシを潰し、殺虫剤を撒き。蚊取り線香と殺虫スプレーは欠かせません。虫を平然と殺せるようにならないと、少なくとも野菜や果実をちゃんとは作れません。これから、複数の殺虫剤を撒きます。すでにワタシは、殺生という大罪は数限りなく行ってきてこれからも続けるより外にありません。
そこで、心の呵責から逃れ、平穏な日々を送るためにワタシなりの解釈をいたしております。それは、殺生は慎む、但し昆虫類駆除は殺生からは除くといたします。こちらの生活や楽しみを脅かす小動物(例えばカラス・ヒヨドリなどの鳥類、タヌキ。野良猫)は殺すわけには参りません。近づけないようにするしかありません。
勿論、フィッシングはやりませんよ。メダカに書道、園芸でそんな余裕はございません、と答えました。