植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

無策のおかげで割を食う日本の国民 その1(コロナ編) 

2022年08月20日 | コロナ
ここひと月ほどは、世界でもっともコロナの新規感染者数が多いのが日本だそうです。
理由には、他のコロナ先進国がオミクロン感染が一巡して、多くの国民が免疫を取得したからだ、とか多くの国が、正確な全数把握を放棄しカウントが減ったからだ、などが挙げられています。

欧米では、もはやマスクもせず、日常生活をやっていいという方針を取る一方、相変わらず中国では、Noコロナ政策で、感染者が発見されるとすぐさまそのエリアを封鎖し、規模が大きくなるとロックダウンを強行いたします。どちらがいいのかは分かりませんが、後者には大きなコストがかかるのは間違いありません。それでも、ロックダウンによって、短期間に感染が終息するのは理論的にも現実でも明らかであります。何万人感染しようが、次に誰にもうつさなければ今のオミクロン株ならば10日で消えて無くなるはずであります。経済的な立ち直りや病院の医療体制維持などには、こうした人権無視の徹底した対策が最も有効でありましょう。

毎日20万人以上の新規感染者が出ています。数百人が毎日亡くなっているのです。7波はピークを越したかのような印象があっても高止まりであります。

また、各種給付金が食い物にされ多額の不正受給がいまだに発覚していますが、その欠陥だらけの制度設計をし運用した役所や団体にはなんのおとがめも無いのですね。

そこで、最近は①2類を5類に変更する ②全数報告を止めるといった点が議論されてきました。全数報告を義務付けするから公表される感染者数が多くなるのだ、とかコロナを特別扱いするから報告に手間がかかる、一般の病院で診療出来ない、といった意見が政府筋や医療関係者から出ています。

2類は、感染対策が厳格で行動制限を行い細かな報告を速やかにしなければなりません。また、費用は公費全額負担になります。5類はインフルエンザ程度なので、届け出も不要一般病院で受診治療が受けられる一方、自己負担になります。

もし手間がかかるのが問題ならば、報告する仕組みを簡素化しカルテなどで代用すれば済みます。コロナは今まで想定したことが無い新種の感染症なので、今までの枠にとらわれず、現実に対応できる新たな6類を設けるべきだと思うのです。そのために、役人も議員も、高い歳費を貰ってるのではありませんか。

5類に「手間がかかって医療機関の負担が大きい」という、医療者側の理由で移行させるのは他に邪な意図があるのです。一つは政府が負担する医療費を払いたくない→個々の患者に負担させる、という魂胆であります。もう一つは生命保険会社がコロナなどの感染症にかかった場合に支給する特約の一時金(大体30万円)の支払いが膨大になっているということです。加入者もこれを逆手にとってPCR検査で陽性になればまとまったお金を貰えるので、心のどこかで感染してもいい(どうせ軽症ですむ)という心理が働きます。これが5類ならば、支給せずに済むのです。

国民の生命や健康、生活を考えて優先すべき事柄を拙速に決められては、結局割を食うのが国民になりかねません。

ウイズコロナで、自己責任だという風潮が強まっているのも事実、社会経済を混乱させ低迷させる位なら、コロナに感染しても仕方ないという考え方にも一理はあります。ワタシは、近隣や友人で、罹るべくして感染した人が多くいるのも見聞きしています。(大体は飲み会ですが)

現実には特効薬はありません。PCR検査はキャパシティーが小さくて検査できる人は限られています。実際には発表されている数倍もの感染者がいる、とも言われています。先日4回目のワクチン接種予約を申し込みに行ったら、クリニックの先生に「ファイザーが入ってこないので予約は難しい」と言われました。集団接種会場にいくのが良いとアドバイスされました。発熱外来も増やさず、コロナ病床もすぐに満杯、救急車は発動しても受け入れする病院が見つからずに、自宅へ舞い戻るということが常態化しています。

政府も自治体も手を拱いて、なんら有効な対策を出そうとしていません。マスコミも「統一教会」事案ばかり。

つまり、この日本は、世界一マスクをしているのに、世界一感染者が増え、コロナに立ち向かう対策・体制は崩壊したままで、カネにまつわる議論ばかりやっているように見えるのです。
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高校野球が佳境に入った ドラフトを占う試合

2022年08月19日 | スポーツ
ワタシはこの60年間、ずっと野球ファン、筋金入りの巨人ファンであります。
近年では、社会人野球から高校野球まで、有力な逸材を探し、毎年わが巨人の将来を担うだけのアマチュア選手をチェックしておるのです。ドラフト会議が近づくにつれ、今年こそ実力と将来性のある選手を獲得して欲しいと願い、ピックアップしたこれぞ、といった選手を紹介しています。残念ながらワタシの声などは球団に届く由もなく、おそらくこの10数年で、ワタシにしたら一度も満足のいくドラフトはありませんでした。

その原因は、①即戦力優先という呪縛 ②情報力の不足 ③くじ運の悪さなどが挙げられます。根源はなんといってもフロントや編成の方針の誤りにあるとみています。目先の成績だけで目立つ目玉選手を競合の末、くじで逃すという愚を10年以上繰り返し、ワタシから見ればずっとドラ一獲得の権利を放棄してきたに等しいのです。現行制度になってからの14年で獲得したドラ一高校生はわずかに4人でした。大田泰示は日ハムにトレードで出てレギュラーになりましたし、岡本は今は絶不調ですが巨人の4番バッター、堀田賢慎は手術で出遅れましたが今年は先発ローテーションに入りました。唯一松本竜也は素行不良・違法賭博で追放になりましたが。

もし巨人がドラフト戦略を①大学・社会人のピークを迎えた選手にいかず、伸びしろのある高校生を主体に獲得する、②競合を避け、評価で言えばその年の4,5番目の選手を一本釣りする ③体の大きさで判断しない、などを意識していれば今年のような巨人のふがいない戦い方は無かったはずなのです。

そこで高校野球であります。春夏の球児たちをワタシが調査してもなんの足しにもなりません。しかし、やはりポテンシャルの高い選手を見つけるのは野球ファンとしてはなんとも楽しい事であり、ワタシはスカウトになったつもりで観戦するのです。

今年は、まだ夏の高校野球をあまり観ておりません。公私にわたって多忙でゆっくり野球観戦が出来ないことに加えて、前評判が高い目玉の有望選手が例年に比べて少ないのです。ここ数年、残念ながらコロナで、試合数が減りセンバツや夏の大会でも中止がありました。各球団とも情報不足から高校生を回避したのが2021年でしたが、それでも、近年は超高校級の投手が多く、その年以外は、ドラフトでも1位指名の半数が高校生だったのです。

それでも昨日は、外せない2試合がありました。第一試合は近江-高松商、この夏最も注目される野手浅野翔吾と近江の屈指の好投手山田陽翔(はると )が出場する好カードです。また、第二試合は絶対的な強さを誇る「大阪桐蔭」が、下馬評では評価が低かった下関国際とどういう試合をするか、で注目したのです。

試合の展開はどうでもよく、ドラフトに掛かるであろう逸材をじっくり見たいと思いました。そして高松商の浅野選手は、その実績や評判以上の凄みのある選手でありました。小柄(172㎝)にもかかわらず分厚い胸板がっしりとした体躯、大人びた面構えは迫力十分で、無類の長打力に抜群のミート力・野球センスを兼ね備えたスーパー高校生でした。

彼は、おそらくプロ1年目から十分に成績を残すだけの力があると思います。投手でない事、上背が無い、もう出来上がっていて伸びしろが少なそう、といった理由から3.4球団くらいの競合となるとみます。

一方注目の山田投手は、伸びのある威力抜群の直球が魅力ですが、この試合に限ってはボールが全般に高く浮き、力を発揮しきれませんでした。また、足に故障が出て途中交代したのも気になります。春の準優勝投手でもあり最速球速も高校生のベスト10に入る選手ですが、やはり174㎝の身長から、ドラフトでは中位になりそうです。

次の試合は、大阪桐蔭がまさかの逆転負けとなりました。ミスが多く、勝つに決まっているという意識が、監督や選手の中に見え隠れしていました。大阪桐蔭は、全国から逸材を集め甲子園の常連でもあります。素質があって鍛え抜かれているのだから強いに決まっています。ただ、長い間伝統的に何か1流の選手に必要なものが欠けているという印象がぬぐえません。

この強豪校出身のトップクラスのプロ選手では、現在では森友哉や中田翔、中村剛也あたりが思い浮かびますが、投手は意外に少ないのです。3年前圧倒的な強さを見せた年に4人の選手がプロに入りました。根尾・藤原・柿木・横川です。今年はチーム成績はそれに匹敵しますが、投手野手共に一回り小粒に見えます。突出して目立つのは捕手の松尾汐恩君くらいでしょうか。

ともあれ、この大会が終わったらU18の大会があり、高校3年生のトップクラスが、国際大会に出ます。これがもっとも確実で分かりやすい高校生のドラフト候補の選考会みたいなものです。私設巨人スカウトとしては、絶対に見逃せない時期となるのです。
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「権きつね」を観て 心の中に銃声が轟く

2022年08月18日 | 雑感
昨日、仕事の合間に何気なくテレビをつけたらWOWWOWで「ごん狐」の劇場版映画「ごん / GON, THE LITTLE FOX」をやっていました。安直なCGに頼らず、ストップモーションアニメーション という一つ一つの画面を写真でとって連続させるという大変手間のかかる制作方法であります。

ハリウッド映画では、多くの映画がPC上でCG制作されています。サメなどが出て来るモンスターパニック映画のようなB級Ⅽ級のチープな映画は、観ていて気分が悪くなり最後まで見る気になりません。最近の中国映画なども、ちょっとしたアクション映画やSFものは、稚拙なCGでつくられていて安っぽくリアリティもありません。さすがパクリ文化の国であります。これに比べると、この映画は、素朴ながら作り手のこだわりや風物の持つ優しさ実存感が伝わり、心に優しく訴えて来るのでした。

調べてみると劇場公開日1985年3月とあります。よく考えたらこの映画は一、二度は観ているのです。残念ながら、いささか記憶力が怪しくなったワタシにとっては、こうしたものはおぼろげにしか思い出せません。そもそも「ごんきつね」は新美南吉(にいみ なんきち)さんが今から90年ほど前18歳の時に書いた童話だそうです。 その本も、読書好きで毎日学校図書館の本を数冊読んでいたワタシは、必ず読んでいるはずですし、教科書にもたぶん乗っていたでしょう。

何度か見たはずのこの短編映画をたまたまじっくり見ることが出来たのは、ワタシにとって幸運でありました。先祖さんか誰かが、珍しく墓掃除や隣の親戚にお線香を挙げに行ったり、写経をし、お坊さんに印を彫ってあげたりして、珍しく信心深い行いをしているワタシに、「これをみなさい」と導いてくれたかな?

話は、だれでもご存じ「いたずら好きの狐 ごん」が病気の母にウナギを食べさせようと川に行った猟師兵十の仕掛けに入った魚を逃がしたことから始まります。鰻をたべることなく亡くなった母親の葬式をみて、ごんは自分のしでかしたいたずらを悔い、ひとりぼっちになった兵十の留守を見計らって、栗やあけび・まつたけなどを届けるようになったのです。
しかし、兵十はそれを誰が持ち込むかを確かめようともせず、偶たま家に入って来るゴンをみつけて、火縄銃で打ってしまうという結末です。

この話は、老いた猟師から南吉少年が口伝で聞いたものを童話に書き起こし脚色したと伝えられています。口伝では、兵十の母親の葬式で悪さをしなくなったまでであったのを、南吉が、その後の悲しい結末を付け加えた創作「権狐」であると考えられています。これを、日本全国の子供向けに言葉遣いやディテール部分を修正して児童文学の始祖といわれる鈴木三重吉 さんが編集したのが「ごん狐」であります。

さて、こうした映画や本は、だいたいが作者の意図が明確なものなのですが、「ごん狐」について言えば、人によって解釈が異なり、見聞きした子供たちの反応も多様であるそうです。

その理由は、一つには古来からの日本人の持つ、認容力の大きさや極端を嫌うあいまいさに起因すると考えています。欧米人のような勧善懲悪・敵味方・善と悪という単純な構図ではなく、多面性や曖昧さを残し断定的硬直的な理屈や意見を避けようとするのです。

もう一つの理由は、口伝した猟師、南吉、鈴木さんそれぞれが、異なる意図をもっていたとも考えられます。単純化し、善行がすべて誰かをシアワセにし、ハッピーエンドになるという、ありきたりの展開にならなかったのは、もっと複雑で残酷な現実の社会を投影させたのかもしれません。

自分のいたずらという行為を愚かだったと反省し、罪滅ぼしに供物を届けるという善行が、自らの死を招くという皮肉で残酷な結果を招きました。兵十の悪気はなくとも生活の為に命を奪う行為、自分の家の土間に届く栗を誰が届けるのかを推察したり検証しようとしない人間の持つ愚昧さ、そうしたことを読む側・観る側が感じるのを作者が計算したかは分かりませんが、世の中の不条理をテーマに据えたことには相違ありません。「権」は南吉にとっては一人ぼっちの狐で、自分の分身として捉えていたのだろう、と考えてよかろうと思います。

新美 南吉は、畳屋の次男として生まれ、非常に学業は優れていた一方、幼くして母親は病死し、家は貧乏、父親は教育には不熱心で吝嗇、継母にいじめられたようです。自分も病弱で、昭和の初めから太平洋戦争にいたる時代背景や世相が、南吉の創作にもいろいろと影響を与え、屈折し挫折も多かったのでしょう。

そして恋人にも自分の病弱を理由に結婚することなく別れ、29歳結核で夭逝しています。「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかった」と、自分の死期を悟り、その後に思い描いていた文筆活動が終焉を迎えるのを悔しがったまま数日後に息を引き取ったそうです。

それは、銃声が轟き兵十の火縄から硝煙が立ちのぼる中、「ごん、おまえ(おまい)だったのか。いつも、栗をくれたのは 」と聞かれて僅かにうなずく、その姿を想起するものでもありました。

その後、ワタシにはその音ばかりが胸に残り切ないのであります。
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日々新面目有るべし

2022年08月17日 | 篆刻
お盆で子供たち夫婦親子、総勢9名が我が家に集まり、BBQや墓参り、引っ越しに孫の子守に追われてワタシら夫婦はへとへとであったのです。猛烈な湿気と暑さ、台風ときてワイフは、乾かない洗濯だけでもうんざりしたようです。おかげで、この数日は買ってきたお惣菜か外食主体になりました。

穏やかな日常がやっと戻りました。軽い熱中症のせいか体が動かず、ワタシの仕事場にこもってばかりで、草むしりも一日せいぜい1時間程度ではかどりません。慢性的な手のしびれや痛み、腰痛で篆刻や書道もおろそかになっておりました。

そこで、気持ちを入れ替え、心新たに日々を過ごさねばと思うのです。これは尊敬する越後の書道家「会津八一」秋艸先生の言葉「日々新面目有るべし」にあります。先生が遺した早稲田大学の「学規」の一文です。60歳を過ぎてこの言葉に出会い、向後の人生ただただ老いる中で、日々新たな自分であり、進歩することを意識しようと思ったのです。今までやらなかったことを試み、わずかづつでも書や篆刻が上達する、その努力を惜しむまいと。


ということで、懸案であった夥しい印材の整理をぼつぼつと始めました。いつの間にか収納できない程に集めた印材は数千個となりました。さすがにこのところヤフオクでの篆刻関係の入札も自粛し、たまに札を入れても高値更新されたら即脱落するというパターンになり、2週間以上印の落札はありません。

印の整理は大きくは、未刻印を種類別・大きさ別に収納する、刻字ありは、蒐集品として保管するか潰して再利用するかに分けていくのです。鶏血石・芙蓉石・田黄に類した値打ちのありそうな印や、手彫りで美しい紐や薄意のあるもの、名のある篆刻家さんの側款があるものは、原則としてコレクションとして保存としております。また、お金を貰って彫るというケースに備えて、古印材で彫りやすそうな上級印材をひとまとめにしました。(滅多にあることではありませんが💦)

こちらの写真は一応整理済みの印のほんの一部であります。整理下手のワタシにしては、これでも多少はマシになったのです。


側款の無い自用印・自刻印と思しきものは、原則印面をすり潰していきます。サンドペーパーで丁寧に水研ぎしたら、今度はこれに刻字いたします。

下は最新作(笑)  拡大してると「あら」が目立ちます。

上の3つは「新面目」の字を彫ったもので左二つはだいぶ前に制作しました。凄くヘタですね(笑)。右に行くと新しくなります。あぁ、ちっとも進歩していないか。

とりあえず、補刻いたしました。少し変わりましたが「面目」をほどこすというほどではありません。
情けない(´;ω;`)
下の二つは徐三庚さんの摸刻で、まだ仕上がっておりませんが、これはこの程度で先に行きます。一つの印にあまり拘泥すると、最後は彫り直しになるのでいい加減なところで「よし」にするのです。

目がかすむ、手が痛む、暑さと寝不足でぼーーっとする、そんな言い訳ばかりの自分が情けないです。熱意が不足し、集中できていないので雑になっています。
今日こそは、納得がいくような少し上達した印を彫らないと・・・
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チユウキンレン 満を持して堂々と咲く

2022年08月16日 | 植物
あのいきなりステーキの創業者が、解任されるようです。10年近く前に銀座に1号店を出して以来、急激に店舗を増やし、外食チェーンとしては、ビジネスモデルとして讃えられて19年には、全国で約500店舗まで増えたそうです。

ところが有る時を境に、1店舗当たりの売り上げが落ち始め不採算店舗が出始め、次々に閉店を余儀なくされました。安く良い肉を仕入れ、原価率を高めて(販売価格を抑えて)立ち食いにしたのはいいけれど、客層が限定され思ったように人気が拡大しなかったのです。これは以前からワタシがよく使う「屏風と食い物屋は広げると倒れる」理論です。かの創業者は、一人で立ち食いの安くておいしいステーキが食べられるのを好む客が、無限に存在すると勘違いした結果、同じチェーン店同士で客を取り合うことになると思わなかったのです。 貧すれば鈍する、で味が落ち肉の品質も不安定となって客離れが進んだ様です。

話はかなり飛びますが、植物というのは「自分の鉢にあった生長をする」という賢さがあります。小さな5号や8号くらいの鉢植えならば、自ずと根を延ばすことが制限され、横にも上にも生長することを止めます。盆栽がいい例であります。もし、わずかな土しかない狭い鉢の中でどんどん茎や葉を茂らせて太くなろうとすれば、根が鉢の中にびっしりと回り、必要な土からの栄養分も水分も取れなくなって早晩枯れてしまいます。これを、当地では「一升桝には一升の酒しか入らない」と言います。人間の器が小さければ財も人脈も知識も入らないでしょう。分相応に生きろという戒めでもあります。

そこで、地湧金蓮(チユウキンレン)の話であります。すでにしてこの植物については数回このブログで紹介しております。

以下は、その一部で、3年前の記述であります。
この時、買ったまま鉢に一杯となったこのちょっと珍しい植物を、えいやとばかり鉢を割り、株を両断し半分を地植え、残り半分を4つの鉢に株分けしたのです。小さな鉢に押し込められたまま成長を止めているように見えたのです。株分けした時点では、実生で育った鉢植えを加えると5個の鉢植えと地植えの一株でした。その後、二鉢は、カナちゃんの花屋さんに持ち込んで即日里親さんに貰われていったので、現在は3鉢が残っています。

チユウキンレンは、株が充実するまでは咲かないそうです。開花株を購入してから3年、地植えして丸3年、ようやくその花蕾を発見したのが今年7/23でした。おそらくひと月くらい前から変化があったと思われますが、梅雨の時期は外回りも出来ず、梅雨明け以降は草取りに明け暮れて気づくのが遅かったのです。

それから3週間経過し、30センチ以上の大きな花が咲きました。
厳密には径25cmほどの楕円状円錐形の黄色の苞が重なり合い、その下から花が咲くのです。
どうです、この圧倒的な存在感。
更に別の幹(葉っぱの茎が重なり合ったもの=偽茎 )からも咲き始めました。
今朝急遽、周りの灌木の葉っぱなどを剪定し、遠くからでも見えるように刈り込みました。
もう一本の幹がこんな状態です。これはもしかすると3番目の花蕾が出て来るのではないか?と思います。要観察です。

6年待って急に3つも花がつくと「報われた気持ち」でシアワセになります。これが少なくとも10月まで咲き続けてくれるのですから。
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